あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大川周明氏の非公開陳述

2017年01月03日 19時56分20秒 | 『 天皇と叛亂將校 』橋本徹馬


三月事件、十月事件についての
大川周明氏の非公開陳述

三月事件および十月事件に関係のあつた大川周明氏は、
昭和七年の五 ・一五事件にも関係があつて逮捕せられ、
同八年九月二十六日より東京地方裁判所において公判に附せられたが、その節、
神垣裁判長の質問に答えて、
大川氏が語つた三月事件および十月事件関係の陳述は左の通りである。
これによつて当時の宇垣大将や、小磯軍務局長らの心事が大体知られると共に、
この三月事件や十月事件が当時の青年将校達を、はなはだしく刺激した次第も知られるであろう。
陸軍部内の統制が紊れたのは、一朝一夕のことではあるまいが、
特に右の三月事件で、軍の上層部が自ら叛乱を企てたのであるから、
その後の国家改造に関する軍のさかん、尉官の策動にたいする取締りが、
十分に行われなかつたのも当然といわねばならぬ。

以下 大川周明氏の陳述
三月事件
昭和五、六年の帝国議会----すなわち浜口首相を戴いた民政党内閣当時の議会においては、
党弊ようやく天下にあまねく知れわたり、
ことに浜口首相が狙撃されたる後に首相代理となつた幣原外相が帝国議会で失言問題を惹起した結果、
二、三日も議会が開けず急速に議会政治否認の説が高まるに至つた。
しかるに当時陸相であつた宇垣が政党に入らんとする風説が立つたので、
参謀本部の重藤、橋本欣五郎、二宮次長、建川部長および小磯軍務局長がこれにたいし、
よりより話合つていた。
よつて私は小磯、建川からの話で宇垣の腹を探らんとして宇垣と会見した。
会つて見ると宇垣は私にたいし、政党入りの考えは微塵もないと断言した。
一日おいてまた宇垣に会つてみたが、宇垣は政党にたいし大いに憤激しており、かつ
「 自分は軍人だから国のためなら何時でも命を棄てる覚悟をもつてゐる 」
とも話した。
彼も相当改造の考えを持つていた。
翌々日 杉山次官、小磯局長、二宮次長、建川部長は宇垣と夕食を共にしながらいろいろ話した。
小磯から私に報告したところによると、
私に対し宇垣が話したとおりのことを当夜宇垣が話したそうである。
「 つまり国民は政党政治に対し、明らかに愛憎あいそづかしをしているから、
国民的デモをやり 後の始末は軍隊でしようとする計画であつた 」
右の話は二月下旬のことであるが、決行は三月二十日を期してやることにした。
当時部内でもいろいろ話があつたが、部下には計画はヤメだといいふらし、
私と小磯の二人でいつさいの準備をすすめた。
すると三月十日前後と思うが、小磯は私にたいし 「 オヤジはやめた 」 と 以外なことをいつた。
しかし自分としてはいろいろ準備を進めているのだからやめるわけには行かぬと返事した。
こうして小磯は 「 ダメ 」 だといつたが、建川は心中までゆこうといつた。
よつて私としてはどうしても二十日にやるつもりであつた。
しかるに十八日晩に私にとりてはどうしても断りきれぬ徳川義親侯からやめるようにとの話があつた。
義親侯は松平春獄の子で春獄公の血を享けなかなかの人である。
昭和六年千二百五十万円に逹するほどの寄付を公共事業に投じているほどで、
一度こうと決すれば断行する人である。
義親侯は 「 君がどうしてもやるなら、私がやる 」 とまでいわれたので私はついにやめることにした。
ここに一言したいのは陸軍側が民間有志を利用したということであるが、これは全然デマである。
民間側ではまつたく私一人で他は私を通じたものに過ぎない。
私のほかには河本大作がいるが河本も軍人出身である。
いつたい陸軍には宇垣その人のみにかかわらず、嫉妬排擠はいせいなど見苦しきことも多々あるが、
しかし 「 天子様を大事にする心 」 と 「 お国を思う心 」 に至りては格別で、
時あつてこの純なる心が燃えあがることがある。
宇垣も当時は純なる気持ちで立とうとしたことに相違はないが、ただ年が年だし興奮も去り易く、
ついにこうしたことになつた。
当時私は宇垣に対し怒つたが、間もなくもとの心持ちに還つた。
三月事件は無意義でなかつた。
すなわち二つの教訓を与えたのである。
その一つは
青年士官は上官までが政党政治に慊きたらずして、日本改造の意あることをはつきりと知つたこと、
およびもう一つは
年寄り連中に改造の考えがあるにせよ、彼らはあてにならぬから、けつきよく引つ張つてゆくに限る、
下からひきずつてゆかねばダメだという考えを与えたことであつた。

以下大川周明氏の陳述
十月事件
一九三六年に備うるために満洲を取りいれて、長期戦争に堪えねばならぬとの主張のもとに、
まず満洲問題を解決せねばならぬとの空気が漂つているが、
これがため
軍の中央においては 重藤、橋本。
関東軍においては 板垣、石原、花谷、土肥原、
民間の丸腰では 私と河本が計画参与した。
かくて 九月十八日事変となり、支那側が自ら求めてあの結果を招いたことになつた次第であるが、
本庄司令官は九月十八日事変がまことに臨機応変、手際よくやつたと喜んだがなんぞ知らん、
ここまで至るまでには周到なる準備、計画、連絡が廻めぐらされていたのであつた。
次に事変後に処すべき第二段の方針につき考えたのであるが、
この方針については六部だけ刷って各自が持つことになつた。
いつたい日本の内政がこの為体ていたらくで、自分で政治を消化しきれぬ胃袋の持主であつて見れば、
その後 満洲をどうするかに想いいたる時、必然的に国内改造断行の急務が認められる。
三月事件はあの結果になつたので、こんどは上官に知らさずにやろうということであつた。
よつて中佐を中心として五人が一切の計画を立てた。
攻撃の目的と担当者も決めた。
しかし外部で知る者があつたように予審調書にも出ているがそんなことはない。
愛郷塾などで知るよしもなく、二十何人が先頭に立つてどうやる、ああやるなどの計画であつたなど
外部で知らるるわけはない。
計画は一挙にして現政府を覆すことにあつた。
時期は十月二十二日か二十三日にやることになつていた。
十六日にバレた事は事実だが、のびのびになつたのは、
砲工学校生徒が演習にゆき留守であつたりしたためであつた。
わたしの任務は新聞社に赴き、右事件につき不利な記事を書かぬようにすること、
および 本部に出すべき一間四方もある旗に 「 錦旗革命本部 」 と 大書する事くらいであつた。
八十人の兵が私に分配されることになつていた。

裁判長・・バレた原因につき述べよ
大川周明氏の陳述
後から聞いたのであるが、同志の一人で しかも 重大な役割をつとめた一人が、
計画の不利を覚つて 自分の上官に内容を打開けた事に在ろうと思う。
彼はシャアシャアとして 憲兵隊へいつたが、事件の始末などまことに手際よくやつたので
これを知ることができる。
なお この人は軍人の面目にもかかわる一身上の事件のあつた時に、
その上官から特別の恩寵おんちょうを与えられていた。

裁判長・・荒木・真崎は関係ないか
大川周明氏の陳述
荒木は当時第六師団長として熊本におり、真崎は台湾軍司令官となつており、
いずれも東京におらぬから関係はない。
裁判長・・そうか。

この間 大川氏の陳述約四十分。休憩後十時二十分より公開開廷となる。