あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

官僚だつた湯浅内府

2017年01月05日 19時58分36秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


官僚だつた湯浅内府

湯浅倉平氏は、二・二六事件勃発当時の宮内大臣であつたが、
叛乱将校達のために討たれた斎藤実氏のあとを受けて、
この人が内大臣に就任したのであつた。
あの事件の勃発直後は、西園寺、牧野両氏はともにねらわれた人で、しかも在京せず、
斎藤内大臣と鈴木侍従長とはともに襲撃せられた人であり、
岡田首相は死亡ということになつており、
その代理の後藤文夫氏も官僚出身で、あのような場合に者の役に立つ人ではなかつた。
だからもし湯浅氏が稀代の人物であれば、如何なる大手腕をも発揮して、
輔翼の重責を果し得たのであつたが、
この人も真面目な人ではあるが、元来官僚出身であるから、官僚臭味が強くて、
とてもあのような非常時の大役の勤まる、国家柱石の士ではなかつたのである。
すべて官僚出身者は、法律や事務に明るくして、
平素は誠に要領がよいが、しかし元来この人達の多くは、
法律と事務の外に世の中に大事のあることを知らぬ人達であるから、
平和のときには器用に日々の用に立つが、非常時一日の用に立つ人ではないのである。
さらに忌憚なくいえば、大体官僚という者は、非常に栄達を競う者であつて、
彼らが君国のために尽くすのも、それが自分の栄達に役立つと思えばこそであり、
自分の栄達を犠牲にしてまで君国に尽すというようなことは、
官僚達には考えられぬことなのである。
彼らが甲乙いずれの内閣を迎えても何んの矛盾も感ぜず、
しきりに忠勤をはげんで立身を計るのは、そのためであつて、
彼らのよいところも悪いところもその辺にある次第である。

私が湯浅氏に勅語問答で面会をしたときなども、
氏の警保局長時代から知合つている私が、氏の内大臣就任後初めて会見をしたからであるか、
氏は如何にも得意らしく
「 君はいつまでも痩浪人やせろうにん、自分はここまで高官に登つたぞ 」
というつもりと見えて、
「 あなたのような人は処士しょしですからね・・・・」
といわれた。
そこで私は笑いを噛み殺しながら声を大にして、
「 さよう、私は処士横議の徒、あなたは日本で有数の大官であります 」
と応じて話を進めていつた。
それでもあの日 「 きょうは十分位しか時間がない 」 といわれたのに、
湯浅氏の方から私を帰さぬようにして、正午のドンを境にし、
遂に一時間二十分も話し合つたのは、
 さすがに問題の重大性を感じてのことであろうと思われる。
要するに官僚出という者は、平生大いに用いて約に立たしめるがよいが、
非常時の用に立つ人物ではないことをしつていなければならぬ。
西園寺、牧野などという国事に本気でない人達は、
広く天下に気骨のある人材を求める面倒を避けて、
とかく寸法のきまつた官僚上りを重用し、一朝の大事を誤るのをしらぬのである

木戸侯と近衛公も荷が過ぎた
つぎには戦時中の内大臣であつた木戸侯が問題であるが、
大体毎日克明に日記をつける木戸侯のごとき人物は、
大抵は日々の用が足りても年々の用が足らぬ人であり、
年々の用が足りても十年の用には足らぬ人である。
木戸侯が如何に毎日怠りなく御奉公申上げても、あの愚かな戦争を最後まで持つていつて、
遂に敗戦降伏の屈辱を招いたについては、結局において木戸侯連年の御奉公も、
有害無益であつたということになる。
「 一人ではどうにもならぬ 」
という言葉は、内大臣たる木戸侯の場合においてはあてはまらない。
木戸侯さえしつかりしておれば、いくらも方法があつたことは
拙著 「 日米交渉秘話 」 にもある通りである。
この人も陛下を敗戦国の君主にしながら、なお生き延びんがために、
東京裁判で盛んに自己弁護をしたのは、
戦後派の人々からみれば別段の不思議でもあるまいが、
良臣の心がけとしては、
昔の藩主達に仕えた武士の心掛けにも、およばざること遠しといわねばならぬ。

責任の重い点にゆいては、右らの外に近衛文麿公がある。
この人は門地の高いのとその人柄の上から、能力不相応の重望と重職とを得て苦しみ抜いた。
是非の判断は相当に分るが、気の弱い人であるから、結局強い方へ引きずられていく。
その結果国を誤り、自分の死所さえも誤つたこと、拙著 「 天皇秘録 」 に記せる通りである。
それでもこの人が生きて東京裁判にかかり、そこで盛んに自己を弁護をやるよりは、
ともかく自決したことは、恥を少なくしたものであろう。
右の四氏の外に戦時中の重臣会議に列した人は多いが、その人達は皆既述のごとく、
あの非常時にひたすら自分達が、主戦派将校達に憎まれぬようにとのみ考えつつ、
国家の大事を議していたのであるから、問題にならない。

争臣なくして国亡ぶ
以上述べてきたつたことによそつて、私達は如何なることを知り得るであろうか。
第一に、
元老重臣達のなかには、叛逆者として銃殺された青年将校達ほどに、
本気に君国を思う者が、一人もなかつたということが知られるのであり、
第二に、
元老重臣達のなかには、牧野伯護衛の巡査や看護婦ほどに、自己の職務に献身する者が、
一人もなかつたということが知られるのである。
君国にたいする絶対の忠誠と、職務にたいする献身とは、下層にあつて上層部にはなかつた。
しかも前者は、その故に非業の死を遂げ、後者はそれにもかかわらず人臣の位をきわめていた。
これでよいのか。
これでは日本の臣道が逆さに歩いているということになる。
立国の基礎がグラつくのも、当然ではないか。
一体その人が真の良臣であるならば、
国家の非常時などには、特に幾度か陛下にたいする忠諫の言葉があるべきはずである。
古語にも 「 国に争臣なくんば、その国危し 」 とあり、
忠教には 「 下能くこれをいい、上能くこれを容れて王道光あり 」 とある。
しかし忠諫は、一身の利害を捨てた忠誠の士でなければ、なしうるものではない。
なぜならば古語にも 「 良薬は口に苦く、諫言は耳に逆さからう 」 とあるがごとく、
忠諫は多くの場合に上の喜ぶところとならず、ややもすれば御機嫌にさからうて、
一身の不利を招くおそれがあるからである。
そこで徳川家康のごときは 「 諫言の功は戦場の一番鑓に勝る 」 といつて尊んだものであるが、
一人の良臣も持たれなかつた今上陛下には、もちろん臣下の激しい忠諫にも、
お遭いにならなかつたようである。
さきにも論及したことであるが、あの二・二六事件の叛乱のごときは、
平生陛下にたいする忠諫の士がないことを原因する青年将校達の今上陛下への悲憤きわまる死諫であつたが、
このときにおいてもなお適当に陛下を輔翼申上げて、
その死諫を善用する良臣が一人もなかつたがために処置を誤り、
その後の国運を一層不幸に導いたのである。
支那事変勃発以後のことはいうに忍びない。
宮中に怒号の声一つ起らず、側近者達が手に汗を握るがごとき場面さえ一つもなく、
そうしてすべての重臣が御前において、恐懼謹慎のふうばかり繰返しているうちに、
日本国は亡んで、
日本歴史上に拭い難き汚辱を残したなどは、何んというだらしのないことか。
要するに 今上陛下には、
遂に良臣という者にお会いにならなかつたのである。
「 賢臣に親しみ小人を遠ざくるは、これ先漢の興隆する所以なり。
小人に親しみ 賢臣を遠ざくるは、これ後漢の傾頽する所以なり 」
とは 孔明の出師に表にもあるが、親しむべき賢臣を持たれなかつた今上陛下は、
誠に不運なお方であつたし、同時に日本国民にとりても、それはこの上もない不運なことであつた。
明治時代にあれほど尊まれた天皇や皇室にたいし、悪口雑言をいう者はもてはやされ、
反対に尊皇の言葉を吐く者は、頑迷度し難き時代錯誤者と思われる時代が、
終戦以来今もなお続いているのであるが、
さて皇太子殿下御即位の新時代はどうであろうか。
私は決して天皇政治を昔に返そうとする者ではない。
今日の情勢からいえば、天皇が政治の圏外に立たれることは結構であり、
また占領治下で強要せられた憲法が、如何に屈辱憲法であり、
内容上からも廃棄すべきものであるにしても、
昔の帝国憲法をそのまま復活すればよいとはいえない。
磨ふまの大典といわれた帝国憲法にも、時勢に合わなくなつた点が多いのである。
ただ私は、別文所説のごとく、古来の日本国精神のなかには、
今後の世界を救うべき尊き思想があると信ずるのであるが、
しかしそれとても今の政局を担当している程度の人物が、今後もわが政治の局に当るならば、
世界救済は愚か 日本自身さえ救われぬから、
私達はいよいよ日本精神を誇ることもできなくなるであろう。

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