あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

奇怪至極の軍法會議

2017年01月17日 20時11分43秒 | 『 天皇と叛亂將校 』橋本徹馬

 


奇怪至極の軍法会議

叛乱将校達を断罪した陸軍軍法会議には、数々の奇怪な事実がある。
第一
奉勅命令が正式には下達されていないのを、下達したものとして裁判を進めている。
第二
主任検察官であつた故匂坂春平氏方に保存されている書類によると、
軍首脳部では初めから叛乱将校全部を、死刑にする方針を決定していたらしく、
七月五日発表の判決では無期禁錮となつている将校達まで、
全員を死刑としてある謄写版刷りの判決予定書があり、それに検察官が筆を入れてあるという。
これは明治四十三年の幸徳秋水らによる大逆事件において、
裁判官が死刑に決定した二十四名のうち、
十二名が死一等を減ぜられたのと、全く反対の生き方であつた。
なお匂坂氏はこの判決後怏々おうおうとしてその生を楽しまず、
毎年麻布賢崇寺で行われる二・二六事件関係者慰霊祭には、
( その中には斎藤内大臣らの被害者の霊も含まれている)
寺の玄関まで姿を見せる外は、栄養を減じ、病気を養わずして、二十八年八月十九日、
すなわち北、西田、磯部、村中の四氏が銃殺になつた十七回忌に当る日に、死亡せられている。
第三
初め検察官の論告の際には、死刑は十六名であつたのに、
判決の際には一名増加して十七名となつている。
これは論告の際に禁錮十五年を言渡された水上源一君が
「 他の同志の人達が死刑になるのに、自分が助かつてはすまぬなァ 」
といつたため、死刑に廻されたのであると伝えられている。
このようなやり方も、前記の大逆事件の際の死刑罪の減員とくらべて、
この時の裁判が如何に暴戻ぼうれいであつたかを証明するものであろう。
第四
二・二六事件関係者中の民間人を受持つた吉田裁判長の梅津陸軍次官および、
阿南兵務局長宛に提出したる上申書によれば、
同氏は、北、西田両氏にたいする取調べ以前の心証と、
取調べ後の心証とが全く異つた次第を述べて、
「 ・・・・公判内容をも承知せざる部外者の断じて批判を許さざるもの有 之と存し申候 」
といつており、
吉田裁判長は、北、西田両氏を死刑にすることなどは思いもよらぬ心境であつたらしいが、
実際には北、西田両氏は死刑になつている。
第五
對馬中尉は一弾で死んでいたけれども、
急所を外れたので内出血が多く、仮死の状態にあつたものとみえ、
銃殺後十時間ほどで火葬にしたが、火葬中に生き返つたのか、
「 ウワー 」 「 ウワー 」 「 ウワー 」 という叫び声が、
三度まで聞えたのをかまわず焼き尽くしたということ等。
奇怪な事実が数々ある。
〔 註 〕
この七月十二日に銃殺せられた将校達と引離されて、刑の執行の遅れていた村中大尉は、
この将校達処刑後の七月十九日に、左のごとき感想文を綴つている。
七月十九日、今日は香田兄ら十五士の初七日なり、
午前入浴場より刑場を見る。
以前と趣を異にして、赤土が堆まれあり、
嗚呼 相澤中佐外十五士の鮮血は、この赤土に濺そそがれあるか。
夕刻遠雷頻りに鳴り、四辺暗澹あんたんたり、
すなわち一詩を賦して口吟微吟して悲しむ。
嗚呼、尽忠無私至誠純情十五士 今や亡し、
然れども、余には呼べば答える感をなさしむ。
七月十一日を想起するに涙新あらたなるものあり。
余と磯部氏とは前夕 ( 十一日夜 ) 同志と一緒なりし獄舎より、
最南位にある一新獄舎に移さる。
十二日朝、十五士の獄舎より 国家を斉唱するを聞く。
次いで 万歳を連呼するを耳にす。
午前七時より、二、三時間 軽機関銃、小銃の空包音に交りて、小銃の実包音を聞く、
すなわち死刑の執行なること手にとるごとく 感ぜらる。
磯部氏遠くより余を呼んで
「 やられていますよ 」
と 叫ぶ。
余 東北方に面して坐し、黙然合掌、
噫 感無量、鉄腸も寸断せらるるの思あり。
各獄舎より 「 萬歳 」 「萬歳 」 と叫ぶ声頻りに聞ゆ。
入所中の多くの同志が、刑場に臨まんとする同志を送る悲痛なる萬歳なり。
磯部氏また叫ぶ
「 私はやられたらすぐ血みどろな姿で、陛下のもとに参りますよ 」
と、
余も 「 僕も一緒にいく 」
と 叫ぶ。
嗚呼 今や一人の忠諫死諫の士なし。
余は死して維新の招来成就に精進邁進せん。
後に聞く、
この朝、香田兄の発唱にて
「 君が代 」 を斉唱し、かつ 「 天皇陛下萬歳 」 「 大日本皇国萬歳 」
を三唱したる後、
香田兄が
「 撃たれたら直ぐ 陛下の御側に集ろう。 爾後の行動はそれから決めよう 」
というや、一同意気いよいよ昂然として不死の覚悟を定め、従容しょうよう迫らず、
いささかも乱れたるなく、歩武堂々刑場に望み刑に就きたりと。
今や 「 死而為鎮護国家之忠鬼 」 と大書したる前に端坐して、
十五士のため、法華経二巻を読誦くしょうし終るや、
遠雷変じて閃々せんせんたる紫電となり、豪雨ついて沛然はいぜんたり。
十五士中一人が
「 しばらく湯ケ原で避暑し、一週間後に東京に帰つて活動を開始しよう 」
と いいたりという。
十五士雷雲に乗じて帰りくるか。
前詩を口吟して英魂を慰めんとするに、
涙また両頬を伝つて声を発するあたわず。

死の直諫無視せらる
私は叛乱将校達が、多くの点において納得の行かぬ取扱いを受けながら、
なお最後に係官に頼んで宮城遙拝所をつくつてもらい、
「 天皇陛下万歳」
を 奉唱して死んだ心境を思うと、誠に彼らのために涙なきをえぬのである。
彼らが あの期におよんでなお陛下の万歳を奉唱したのは
「 自分達の採った手段は如何に間違っていたにせよ、自分達の奮起した動機が、
立国の本義に照らし、わが国体を護らんとする一念にあつたことは、
やがて陛下に御理解を願う時が必ずある 」
と 確信し、かつ
「 自分達の死が、日本国の上下の反省の材料となつて、国運が栄えるように 」
と 祈つてのことであると思う。
もし当時の軍首脳部や重臣達が、彼らのこの心事をくわしく天皇に奏上して、
その御理解をえていないとするならば、その人達も帝国憲法と軍人への勅諭に照らして、
当然処罰せらるべき人達ではあるまいか。
〔 註 〕
あの叛乱将校中、最も思慮の深かつた安藤大尉。
この人は陛下の軍隊を勝手に動かすことの重責を感じて、最後まで起つに躊躇した人であるが、
その人が形勢いよいよ逆転して、叛乱将校達討伐の軍が迫つた際
「 ・・・六中隊だけは最後まで闘うのだ。
陛下の御心にわれわれが尊皇軍であつたということが、お分り願うまで頑張るのだ。
昭和の陛下を後世の〇〇〇にしない歴史をつくるために、闘わねばならぬ 」
と いつた言葉を思い合せて、血涙を絞らざる者は憂国の士ではあるまい。

叛乱将校達を叛逆者として処刑したことは、
わが上層部があれほどの事件を何んの反省の材料ともせず、
ただ 不逞の徒の許すべからざる暴挙として、
一方的な憎しみだけで処刑したことを意味するのであるが、それでよいであろうか。
たとえば、叛乱将校達を憤激せしめた統制派の人々は、
天皇の御名において叛乱将校達を銃殺し終れば、
あとは自分達が全く勝ち誇つた気分で、軍部を指導してよいものであつたか。
また、たとえば 西園寺元老、牧野重臣、岡田首相、鈴木侍従長らの命拾いをした人達は、
これも自分達の側には何の怠慢も、不明もなかつたものとして、
その後の長寿を誇つてよいものであつたろうか。
叛乱将校達を極刑に処したのはよい。
ただ その代りには彼らが わが国政の運用に関し、死をもつてなしたる直諫は、
十分に生かしてやるだけの各種の処置が、絶対に必要であつたと思う。


皇軍はあの時に亡んだ

率直にいえば、叛乱将校達を叛逆者として処刑したとき、
大元帥陛下の帥ひきい給う皇軍 ( すなわち天皇の軍隊 ) は 亡んだのである 。
彼らを銃殺のために撃つたあの銃声は、
実は皇軍精神の崩壊を知らしめる響きであつたのである。
しかも、その銃には菊の御紋章が入つているのである。
大元帥陛下の御紋章の入つている銃で、
刑死の瞬間まで尊皇絶対を信念とした人々を、
極度の憎しみで射殺したのである。
この深刻なる不祥事の国運におよぼす悪影響を思うて、戦慄せざる者は神経の麻痺者であろう。
〔 註 〕
もし当時の陸軍大臣、参謀総長、教育総監 ( あるいは総理大臣、内大臣 )
らのうちに人物がいたならば
「 如何に大罪を犯したりとはいえ、その動機が尊皇に発している以上は、
しかして最後の日まで彼らの尊皇の信念が変らぬ以上は、
菊の御紋章入りの銃をもつて叛乱将校達を射殺すべきではない。
さようなことをすれば、軍首脳部みずから尊皇心の崩壊を招くこととなるから、
彼らの死刑は別の方法によるべきである 」
ということにすれば、あの事件を機会に一層尊皇心を涵養することさえもできた次第であるが、
なにぶんにも西園寺元老を始めとして、尊皇の大嫌いな人物が、
政界および軍部の上層部に揃つていたのであるから、そのようなことを考える者もなかつた。
かくして尊皇を口にする者は冷笑または痛罵つうばを受ける、
昭和末期の事態が招来せられたのである。

それはまた同時に一般人にたいしても
「 爾後日本を万邦無比の国体などと考える者は、不逞の徒であるぞ 」
と いう断案が下つたことも意味した。
後日の悪質無謀なる大戦争への突入、
それはわが万邦無比なる国体精神のうえからいうならば、
絶対に許されざる侵略戦争であつたが--そうしてその結果の敗戦降伏は、
すでにこの時に運命づけられたのであることを知らねばならぬ。
いま一度、繰返してこれをいえば
「 万邦無比の国体 」 観念を帰来いたわが上層部や、一部の学者、新聞人らは、
ここで他日の侵略国なみの大戦争に日本が引入られる運命を、自ら招いたことになつたのである。
なお、それがすでに侵略戦争であつた以上は、
わが国が 「 天佑を保有し 」 えなかつたことも不思議ではあるまい。
日本は明治以来幾度か戦争を遂行した。
そうしてそのたびごとに宣戦の詔勅にあるごとく、
「 天佑を保有し 」 えた。
しかし、今度の戦争には、天佑は敵国にあつて、日本の側にはなかつた。
それは日本が科学の力において不足であつたのみならず
「 天佑を保有する 」 資格なき、侵略国になりさがつていたからである。
「 天佑を保有し 」 という宣戦詔勅を奏請しさえすれば、
侵略戦争にでも天佑があると考えた当時の当局者は愚かなるかな。

一般国民はそのことをしらず、相変わらず明治時代同様に、
天皇陛下万歳の心境に徹して邁進さえすれば、
かならず 「 天佑を保有し 」 うる国体であると信じ、
いわゆる必勝の信念をもつてあの大戦争にのぞんだ。
そこに日本国民の一大悲劇の原因がある。
その犠牲の如何におびただしかつたかを想え。
それでも、
「 日本が負けてよかつた 」
とは、日本人たる私は如何にしてもいいたくない。
しかし実際においては、
もし日本が戦勝をしていたならば、あの統制派の軍指導者達のやり方から想像すれば、
その後如何に多くの罪悪か、東亜の天地において行われたかを、
想像するだに戦慄をおぼえる。
おそらくその後に犯した罪悪は、他日、日本民族の滅亡に値するほどの
大したものであつたに相違ないと察せられるのである。
〔 註 〕
叛乱将校処刑当時より、統制派軍部のはなはだしき圧迫干渉のなかに、
二十二士の遺骨を護り通して、
その慰霊祭を怠らなかった賢崇寺の藤田俊訓老師にたいしては、
遺族の諸氏とともに私達の感謝措く能あたわざる処である。