天皇と靑年將校のあいだ (7)
二・二六事件が起きた翌日、
天皇の弟宮である秩父宮は、任地の弘前聯隊から急拠上京している。
上京の意志は、已に二十六日、
もう一人の弟宮、高松宮を通じて宮内省に届いている。
宮内省としては、
「 遠方に御出にて御心配遊ばされ、御見舞の為に御帰京のお思召ということであれば、
我々としてそれを御止め申すべき筋合ではありませんが、
高松宮は東京の現在の状況は御承知のこと故、
しかるべく御判断を御願いする外はないと存じます 」
と 高松宮に答えている。
はっきり言えばあまり来ては戴きたくない、ということである。
それは、かねてから秩父宮と青年将校の接近が噂されていたからである。
二十七日の 『 木戸日記 』 には、
「 秩父宮の御帰途を擁し、行動軍が御殿に入込むとの計画ありとの情報あり 」
と 明記されている。
嘗て 秩父宮は歩兵三聯隊にあって、
特に安藤輝三大尉とは極めて親密な関係であった。
この秩父宮と青年将校が、はたして思想基盤を同じくしており、
蹶起行動についても何らかの合意があったかは不明である。
ただ 秩父宮上京によって、
青年将校達が宮を擁して何かを画策するのではないかという観測は、
かなり広範囲に流れていたらしい。
それがどのくらい事実に基づくものか、あるいは単なる風聞に過ぎないかは、
今のところ決めてになる材料は見当たらない。
亦、そういう風聞を天皇がどのように聞取り、受取っていたかもわからない。
天皇と秩父宮との間に、ある対立があったのではないかということは、
しばしば人々の想像として語られているが、
当時の責任ある記録文書でそれを明確に証拠だてるものはない。
それに触れるのはかなり憚り多いことだからであろうか。
(・・・リンク→ 「 陛下と秩父宮、天皇親政の是非を論す 」 )
が、イギリスのジャーナリストである L・モズレーが戦後に出版した 『 天皇ヒロヒト 』 では
外人らしい表現でそのことに触れている。
それによると、
二人のあいだには幼少期から一種の緊張関係があったという。
ヒロヒトは皇位継承者として、短い欧州旅行を除いては、
生涯ずっとしきたりのワクにはめこまれて生きてきた。
然し 秩父宮は海外留学を許され、みずから妃を選ぶことが許され、
時代の発展について心に思ったことを語ることを許された。
だからヒロヒトはこうした皇弟をうらやむだけでなく、
反感さえ抱かれたことを否定してもムダであろう。
秩父宮も妃殿下や少数の側近に対してだけであったが、
天皇のことを « 鈍行馬車 » などと謂ったりした。
一九三〇年代初期のクーデターのうち 少なくとも二度は、
天皇裕仁と秩父宮とを入れ替えようとするものであった。
秩父宮は天皇の競争者の役を担わされたことになり、
天皇自身にとっても、そうでないとは思えなかった。
この競争関係を感じ取った青年将校は、秩父宮を戴くことを決めていた。
権力を握り計画どおり、過激なファシスト政権を樹立した暁には、
秩父宮を表に立てて影から操ろうというわけで、
秩父宮の同意は疑いなしと勝手に決め込んでいた
---というように、モズリーは記している。
・
ところで、状況してくる秩父宮に対しては、各派の勢力が途中までお迎えに行き、
さまざまな情報を伝達しようとしている。
とにかく二十七日の午後五時頃上野駅に着いた秩父宮は直ちに皇居に入り、
高松宮と会見の後、天皇、皇后両陛下と会食をしている。
二十六日の蹶起行動を迎えて以来、焦慮と不安に苛立っていたはずの天皇が、
わざわざ皇后を陪席させて会食したという事実に、
ある政治的交渉を想像してみてはいけないであろうか。
たぶん天皇は、けんめいに秩父宮を説得したのではなかったか。
それを裏付けるように、
翌二十八日には、天皇は広幡侍従次長に次のように感想を漏らしているのである。
「 高松宮が一番宜しい。
秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなられた 」 と。
( 『 木戸日記 』 )
この後秩父宮は、嘗て親密だった蹶起将校のところへ、鎮圧説得に赴くのである。
青年将校の中には、それを秩父宮の裏切りととった者もあった。
尤も 宮中内部に接近していた元老西園寺公望は、時々、こういうことを語っている、
「 まあ、自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれども、
木戸や近衛にも注意してもらいたいが、よほど皇室のことは大事である。
まさか陛下の御兄弟にかれこれいうことはあるまいけれども、
しかし取巻き如何によっては、
日本の歴史にときどき繰返されたように
弟が兄を殺して帝位に着くというような場面が相当に数多く見えている。
かくの如き不吉なことは無論ないと思うけれども、
亦 今の秩父宮とか高松宮とかいう方方にかれこれいうことはないけれども、
あるいは皇族の中に変なものに担がれて
なにをしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、
平素から相当に注意して見てもらわないと、
事頗る重大だから皇室のために亦日本のために、
この点はくれぐれも考えておいてもらわねばならん 」 と。
( 『 西園寺公と政局 』 )
西園寺公の言い方は、極めて婉曲えんきょくであるが、
外人のL・モズレーが率直に書いたと同じ内容をさしているのかも知れない。
モズレーの既述が正しいとすれば、二・二六事件発生直後から、
天皇が甚だ強烈な意志決定
---しかもそれは、
立憲君主の明治憲法以来の慣習からすれば頗る異例なことであるが---
を したことの、真の理由が垣間見られはしないであろうか。
もし、蹶起軍の意図が秩父宮擁立のクーデターであるとしたら、
已に軍の命令系統を踏み破っている行動部隊は、
天皇そのものをも攻撃目標にすることもあり得る、
と 天皇は予想したのだったかも知れない。
天皇は、国家秩序の破壊や軍隊の私兵化を怖れただけでなく、
もっと直接的な個人感情に左右されながら、
みずからの危険を怖れたのだったかも知れない。
これは、モズレーの叙述の上に建てられる一つの仮説である。
只、様々な謎を含む二・二六事件に、
この仮説を適用すれば、
謎は かなり鮮明に解かれたことになるだろう。
二・二六事件の真の主役は天皇であった、
と 冒頭に謂った所以である。
・
二・二六事件は、
蹶起部隊を叛乱軍と規定し、青年将校を銃殺刑に処したことで終りを見た。
この事件は、
青年将校達の計画が挫折、失敗しただけではなかった。
これを契機に、統制派、つまり彼等の謂う 「 軍閥 」 は二重の効果をあげることに成功する。
一つは、
不祥事の粛正を名目に、部内の皇道派を徹底的に追い払った。
さらには
政財界や一般国民に対し、
こういう不祥事の起きたのは政財界が腐敗しているからだとし
その改革を迫るというかたちで、軍部独裁の政治体制を着々と進めていった。
それが第二次大戦に真直ぐに繋がる道であったことは、いうまでもない。
戦後の歴史書はしばしば、
「 二・二六事件によって、日本はついにファッシズムに突入し、第二次大戦を迎える 」
と 簡略に記して、
恰も二二六事件がそれを目指したかのような誤解を与える。
事情は逆である。
青年将校達を葬った勢力が、ファッシズムと戦争に突入していったのである。
これもまた 天皇の意志であった、ということはできない。
事件後の天皇は再び、立憲君主として、
輔弼機関の決定上奏してくるものを充裁する平常の地点に踏み止まるのだから。