天皇陛下
何と云ふ 御失政でありますか
何と云ふ ザマです
皇祖皇宗に 御あやまりなされませ
・
現代のエスプリ
二・二六事件
編集・解説 利根川裕
NO92
昭和50年3月1日発行 定価790円
目次
昭和51年(1976年) 10月26日 出逢いし此の書籍
これまで再三 開いては眼をとおした
数ある記事の中で、特に私の関心を惹いたのは ( 目次参照・・クリック)
新井勲著 『 日本を震撼させた四日間 ( 二・二六事件青年将校の回想) 』
和田日出吉著 『 青年将校運動とは何か 』
の 二点
此を 熟読、浄書した
然し
その外の記事に 殊更 関心を惹くものに出逢うことはなかった
ところが
書籍との出逢いから 43年経った
2019年(平成31年) 4月
革めて書籍を開いた私は、
これまで やり過ごしてきた一つの記事を認め
此を 初めて精読・浄書したのである
『 機が熟す 』
とは、斯様なこと を謂うのであろうや
概説
天皇と靑年將校のあいだ
利根川 裕
目次
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天皇と靑年將校のあいだ 1 一君萬民、君臣一界の境
日本の陸海軍は、天皇の軍隊であった。
そして 天皇と軍隊の関係は、
その制度においても倫理においても、
他の近代国家とちがった特殊なものであった。
それは しばしば、
「 万邦無比 」 とか 「 国体の精華 」 と
称されて 益々昂揚されたものであったが、
この特殊世界における純粋培養体は、
その独善性を含めて 青年将校だったとも謂える。
天皇が自分の統帥する軍隊に要求する制度 と
倫理の純粋結晶の一つの現れが青年将校であった。
青年将校を生んだのは天皇であり、
それは天皇の生んだもののなかの 「 傑作 」 であった。
・
天皇と靑年將校のあいだ 2 天皇制の至純を踏み蹂ったのは天皇自身であった
処刑されてゆく青年将校はじめ、その同調者達は、
彼等を敗北に追い込んだ統制派の策謀に万斛の恨みを抱く。
青年将校達の天皇帰一の至純な運動も、
統制派によって穢けがされ 歪められ、ついに葬られた、というわけである。
本来なら天皇に届くはずの彼等の忠誠心も
ファッショ的軍閥によって遮られてしまった、というわけである。
然し、果してそうだったのか。
青年将校達の意図を踏みにじったのは、果して統制派だったのか。
実は、どの勢力よりも断固として青年将校を許さない大権力があったのである。
他でもなく、それは、天皇自身であった。
・
天皇と靑年將校のあいだ 3 極めて特殊で異例な天皇の言動
四日間を通じてみられる天皇の言動は、 極めて特殊なものである。
天皇は如何なる輔弼機関の決定をも待たずに、
初めから即刻鎮圧の意志決定をしており、
各機関の消極的抵抗を叱咤激励して、
自己の意思を貫徹させようとしているのである。
立憲国の君主として、これは極めて異例な事といわざるを得ない。
天皇と青年将校とは、
なににもまして、もっとも対立した関係にあったのである。
そしてこのことを、青年将校達は 少しも知らなかった。
・
天皇と靑年將校のあいだ 4 天皇が天皇に向って叛亂したようなもの
天皇は何度も、自分の大命によって成立した内閣が
軍部のために瓦壊した事例を経験したし、
自分の統帥命令を俟たずに出兵した事例をも体験していた。
そういう鬱積が、二・二六事件に対して爆発したのでもあったろう。
( 尤も、青年将校側からいえば、
そういう軍部勢力こそ軍閥として 彼等の打倒せんとしたものではあったが )
天皇は、青年将校達が謂う
天皇帰一の理想国家をそのまま信じこむには、
遙かに近代官僚国家体制に通暁していたし、
自分の権力と責任がその体制下にあるものであることを十分に自覚していた。
青年将校達は、天皇という存在をあまりにもロマンティックに構想していたが、
天皇制国家の最高権力者である天皇は、
みずからをロマンティックな存在だとは少しも考えてはいなかった。
青年将校が信じていた ( あるいは心事ようとしていた ) 天皇と、
彼等を ためらいなく叛乱軍と呼ぶことのできた天皇、
この 二つの天皇は、余りにも違い過ぎる。
とはいえ これは、青年将校達が白昼夢を見ていたのだったということではない。
二つの天皇があったのである。
竹山道雄氏は、二・二六事件は
「 天皇が天皇に向って叛乱したような事件だった 」
という言い方でそのことを表現している。
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天皇と靑年將校のあいだ 5 天皇制の二重構造を見破った北一輝
明治憲法の草案を作成し、
日本最初の首相を務めた伊藤博文は、
この二重性恪を巧みに操作することにより 明治国家を運営することができた。
その際、天皇は、
国民全体に向かってこそ絶対的権威、絶対的主体として現れているが、
天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、
天皇の権威はむしろ名目的なものに過ぎず、
天皇の実質的権力は 各機関の担当者がほとんど全面的に分割し代行するシステムであった。
そしてこの二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、
伊藤の造った明治国家が成立っていたのである。
こういう二重の構造を、
久野収氏は 「 顕教 」 「 密教 」 という用語でこう説明している
顕教とは、
天皇を無限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈システム、
密教とは、
天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈システム である。
はっきり謂えば、
国民全体には、天皇を絶対君主として信望させ、
この国民のエネルギーを国政に動員した上で、 国政を運営する秘訣としては、立憲君主説、
即ち 天皇国家最高機関説を採用する という仕方である。
( 『 現代日本の思想 』 )
ところで、この二重性が衝突することなく回転し得たのは、
伊藤の運営上の手腕であったと同時に、
明治天皇に国民統合の求心力があったからでもある。
だが、この国家運営は、やがて伊藤博文が死に遭い、
明治天皇が崩御するとともに、矛盾と弱点を次第に露呈し始める。
北一輝は已に、
最初の著作 『 国体論及び純正社会主義 』 で、果敢にその欺瞞性をあばいた。
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天皇と靑年將校のあいだ 6 大御心は大御心に非ず
なんぞはからん、
天皇は、君側の誰よりも早く、誰よりも強く、
そして天皇みずからの発意として、
青年将校を暴徒と呼び、
早く討てと命じ、
彼等が自殺するなら勝手にしたらいい、
と 言い放ったのである。
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青年将校達は、天皇の名により叛徒とされ処刑された。
然し、彼等はそれが天皇の真の判断ではなく、
君側の奸によって曇らされた天皇の形式的判断だと思って死んでいった。
だからこそ、 死にあたってもなお、
彼等は 「 天皇陛下万歳 」 」 を 叫ぶことができた。
戦後に公にされたいくつかの文書は
甚だ特殊で異例な天皇の強烈の意志を明るみにだした。
青年将校達は、それと知らないで死んでいった。
若しそれを知っていたら、
彼等は絶望という言葉ではとても事足りないほどの
徹底的な絶望を味わねばならなかったことになる。
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天皇と靑年將校のあいだ 7 二・二六事件の謎
もし、
蹶起軍の意図が秩父宮擁立のクーデターであるとしたら、
已に軍の命令系統を踏み破っている行動部隊は、
天皇そのものをも攻撃目標にすることもあり得る、
と 天皇は予想したのだったかも知れない。
天皇は、国家秩序の破壊や軍隊の私兵化を怖れただけでなく、
もっと直接的な個人感情に左右されながら、
みずからの危険を怖れたのだったかも知れない。
これは、
一つの仮説である。
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最初の頁
昭和 ・ 私の記憶 『 二・二六事件 』
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