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往時のスーチー女史
アウンサン・スーチーさんは時の人です。彼女の率いるNLDが選挙で圧勝し「大統領の上」になるとのことです。そのニュースで見る度に、京大東南アジア研究センターに留学した彼女の姿を想起します。いやセンター長で、彼女の恩師おいわれた矢野暢(とおる)教授を想い起こしてしまいます。
矢野教授はすぐれた政治学者で、またスウェーデン王立科学アカデミー会員でもありました。当時(1980年後半)、教授はNIRA(総合研究開発機構)の理事の職にあって私の上司でもありました。私の処女出版「どこでどう暮らすか、日本人」の出版記念パーティの折には教授が呼びかけ人代表でした。
しかし極めて激しい性格で、また率直に言って権威主義的で野心家でした。ある時、こう発言して私たちを驚かせたものです。「昔、京都には公家がいて京都の文化と権威を維持していた。その公家のいなくなった現代、京都の文化と権威を維持するのは京大教授である」と。
ほどなくして「キャンパス・セクハラ」の告発を受け、京大を辞します。東福寺に身を隠すものの、マスコミに追い立てられるようにして日本を離れ、ウィーンで客死するのです。63歳。その性格通りの激しい人生でした。
しかし矢野教授の凄さはその政治的、国際的な判断力です。スーチーさんを京大に連れてきたのも彼。そして前後して上海で発見した朱建栄さん(東洋学園大教授、今をときめく中国研究学者)を京大に連れてきたのも彼なのです。ちなみに朱さんと私はNIRAで席を並べることになります。
同時期に、同じ矢野教授に薫陶を受けたことスーチーさん、朱建栄さん、そして不肖私。NIRAを通じてのそんな奇縁の存在を楽しみながらも、20年たった矢野教授の死と功罪を改めて想い起こす、昨今のスーチーさん騒動というものです。