嶋津隆文オフィシャルブログ

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国立の革新市政の、構造的な不作為性

2008年04月21日 | Weblog

国立市の市長選からまる一年がたちました。その後のこの街の革新市政の問題点をどう捉えているかを、今回ここに記します。それは当事者として街を駆け巡った者の、一つの義務ではないかと考えるからに外なりません。

現関口市長が何を考えているか分からない。言葉がコロコロと変わり、不信感が募る。こういう声をよく耳にします。とりわけ国立駅の東側ガード下道路(3・4・10号線)の拡幅など、まちづくりを本当に進めるのかととくに案じられています。もっともな心配です。しかしそうした街の整備姿勢への曖昧さは、上原、関口某といった個人的な問題というよりは、国立「革新」の体質から出てくる不作為志向の結果ではないかと私には思えます。

上原市長の時代に国立のまちの整備は著しく遅れました。国立駅周辺のまちづくりなどは10年近く、しかも1000万円前後の委託費をかけて内外の検討会を重ねたにも拘らず、市のプランをまとめず、JRとの交渉にも入らず放置されました。明和マンションや3角駅舎のパーフォーマンスに目を向け、本当のまちづくりを心がけなかったのです。

関口市政になってから、確かに新規に駅周辺まちづくり協議会を発足させました。南部地域(矢保)の整備計画もスタートされようとしています。こうした動きをみると、前上原市長とは異なる開発志向をもつかのように見えます。しかしコトはそんなに楽観的な状況ではありません。

2か月前の市民を集めての駅周辺まちづくり協議会では、市の態度に市民委員から多くの不安が出されました(3月6日ブログ参照)。いわく「モデルプランは市財政の状況から適当か」「費用対効果のバランスが取れるか不安を感ずる」「JRとのコミュニケーションが図られていない」云々です。いずれの委員も、財源計画等の抜かれたプランづくり、すなわち実現にむけての気迫のない態度に著しく疑問を持っていたのです。

私も行政に長くかかわってきただけに、まちづくりに大事なことはコスト(財源)と時間(スケジュール)であると常々言い続けてきました。とくに国立の駅周辺整備などは巨額の費用が想定され、高架化のJRのスケジュールも決まっているだけに、市民や関係者の合意をとるため、背中に火が付いた状態にあるケースなのです。それにも関らず費用対効果の検討など大事な数値は未だに明示されません。これでは空論ばかりの会議になるのは当然です。

昨年、市による国立新駅のデザインの公募という呼びかけがありました。市民からのアイディアを広く募り、それをJRに認めさせようというものでした。しかしそのプランをあれこれ議論させているうちに、JRはコトを自分たちで決定し、市の意向は無視されました。まさにこれが、国立のまちづくりの典型的な姿なのです。

ただここで気付かなくてはいけないことがあります。こうした議論ばかりに時間をかける「民主主義ごっこ」というのは、この国立の街の革新市政の属性であるということです。まちづくりのシンドサは対立するニーズの調整にあります。駅周辺でも図書館や保育所の欲しい人、ショッピング街や駐車輪場の欲しい人などバラバラです。高層化が必要という人、低層でいいという人もいます。この対立するニーズの調整は為政者にとっては火中のクリなのです。火傷したくないと考えれば、議論だけで時間を費やす手法をとるのは当然でしょう。

まして国立の場合、おカネもありません。東京都からのまちづくり交付金も実は市が勝手に描いている一方的な期待に過ぎません。都との交渉が要ります。JRとの本格的な調整も未着手です。そうした交渉や調整をまとめることは凡そ容易ではありません。力がなければ、その限界はすぐに露呈してしまいます。かてて加えて革新政党内部での対立もあります。3・4・10号線など街の整備に反対する共産や社民のような存在もいます。本格的に改革改造を進めれば、自らの立脚基盤である革新共闘体制を壊してしまうことも警戒されるのです。

果たして残された選択肢ということになれば、「不作為」ということになってくるというものです。空想的民主主義の風土のもとでは、あれこれとの(変革を避けての)議論三昧が大いに有効な手法になります。考えてもみれば「身の丈財政」といい、「修複型まちづくり」というのも、要はすべての現状を肯定し、その改革改良を回避することを正当化するマジックワードに外ならないともいえます。職員(組合)の厚遇という既得権の保護も、革新勢力の保身を図る、不作為路線の延長線にあるのです。

やるやるといって、結局やらないというのが国立の革新市政の歴史です。ポーズだけを演出することで、結局この国立のまちづくり等は進められず、崩壊させられていくのです。この1年の革新市政のたどたどしい改革姿勢やまちづくりの足跡を見るとき、改めて「革新」のもつ不作為の構造の危険性に、私たちは気づかなくてはならないと考える昨今です。

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