嶋津隆文オフィシャルブログ

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大学入学式で思う日本社会と団塊世代

2008年04月07日 | Weblog

わが松蔭大学の入学式が厚木のキャンパスで今日もたれました。大山を背にした「森の里」と称せられるかの地は、ふんだんの桜と若草に包まれ、いかにも新入生歓迎にふさわしい春の風景を作っていました。そして小じんまりとした大学ではあるものの、400人近い、まだ高校生のあどけなさの残る新しい学生たちには、それぞれの希望が確実に感じられたものです。

しかし同時に考え気が塞いだのは、この新しい人たちの歩んでいくであろうわが国の未来についてでした。若者の各々の希望を受け止めるだけのキャパシティがいまの日本にあるのだろうか。・・・およそ肯定することなど出来ない事態であることを、私たちは感じないわけにはいかないのです。少子高齢化と負担増。格差の拡大。知力の低迷。何よりもそうした社会を形成した一因にわが団塊世代のあることに気づくだけに気が滅入ったのです。

例えば1.29という水準にまで下がったこの国の出生率。私がかつて身を置いた研究機関NIRA(総合研究開発機構)の試算では、この日本の人口は100年後には現在の3分の1の4300万人に、500年後にはわずか13万人になると予測しています。この数字の人口は縄文前期の水準といわれ、要は民族が消滅することを意味しています。

子供を生むか、生まぬかは全く個人の自由です。いやしくも戦前のように国家や社会が口を出すことがあってはなりません。こうした価値観を強調し続け、今日、もはや孫が欲しい、子供が欲しいということさえ口にはできない社会風潮を生んでしまったのです。それをつくってきたのが権利至上を叫んできた、戦後民主主義の申し子たる団塊世代なのです。

あるいは10~20年の短期的な点からも大きな問題はあります。それは私たち団塊世代を中心とした高齢者層の増加です。病気や寝たきりとなっていく大量の私たちを、ここにいる若い世代に負担するよう求めることとなります。しかし彼らは何とも戸惑うことになりましょう。戦後の高度成長とともに、ふるさとを捨て、親を捨てて町場に住んだ団塊の親たちの姿をこの子供たちは後ろからじっと見ていたからです。

もっと短期的には、この若者たちが卒業する数年後、はたして彼らの人生を受け止めるだけの雇用マーケットを準備されているだろうかということです。バブルのはじけた90年代に、大量のニート、フリーターを生んだのが団塊世代といわれます。当時50歳前後といった会社の中堅層であった団塊は既得権を保持し、若い世代の雇用を結果的に拒んだのです。そうした上で拡大した今日の若年の低賃金雇用形態は、明日の労働市場をも構造的に貧困なものにしているに違いありません。

豊かであったはずのこの国の戦後社会が、いつのまにかすっかり様変わりしてきてしまいました。そうした事態を引き起こしたにはだれか。自己中心主義と社会性の軽視。こうした戦後民主主義の歪みを生んだのは、やはり団塊世代と言って過ぎることはないようです。

自意識過剰だよ! それが団塊の鼻持ちならないところだよ! 

そう笑う人もいるかも知れません。しかし今一度混迷する今日の戦後社会を振り返ってみるとき、やはり私たち団塊世代は、ある種のオトシマエともいうべき行動を次世代と社会にはとるべきものではないか。そう改めて思う入学式の帰途でありました。

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