フリオ・コルタサル、『石蹴り遊び』

 かねてから読みたかった作品。コルタサルは短篇もとても面白かったので、いよいよ手に取った次第。
 『石蹴り遊び』、フリオ・コルタサルを読みました。


〔 ――そうだったのよ、一方の側にピアノ、他方にヴァイオリンがあって、そこからソナタが聞こえていたんだわ、でも、もうおわかりでしょ、結局わたしたちは出会っていなかったのよ。わたしには直ぐわかったわ、オラシオ、でもあのソナタ、とっても美しかったわ。 〕 86頁

 漂流…。どこまでも、いつまでも漂流。たどり着くべき岸辺がまったく見えてこないよう…! と、延々と果てしなくだだ漏れ続ける饒舌な思惟の流れに浸かって、息も絶え絶え…であったことよ。ふう。ずしりと重たい本を抱え込んだまま、ここしばらくの間とり憑かれていた言葉の洪水。恋人たちのまき散らすアンニュイな雰囲気と、時折のぞく不気味な狂気にはとても惹きつけられた。 
 異邦人たちが、パリの自由区を彷徨うように暮らしている。恋人同士が、或いは気の置けない仲間たちが過ごす、無為な時間だけがそこにある。彼らの唇には常に煙草がさし挟まれ、濛々たる紫煙の中ではディープなジャズ談議がゆるゆると繰り広げられる。 
 そしてそんなお膳立ての中、物憂く懶惰な恋愛やいささか陳腐な三角関係は、なし崩しに破綻していくのだ。 

 世界苦を病む主人公オリベイラと、私生児を持つ恋人のラ・マーガ。パリという街の風景に溶け込むように、ふわりふわりと出かけていく、地に足の着かない恋人たち。その恋が絶頂の最中だった時には、いつもわざと待ち合わせの場所を決めない逢瀬さえ、まるで僥倖みたいな偶然(“およそ偶然とは程遠い”偶然)に導かれて、必ず出会える二人だったのに…。 
 己の膨大な思念に蝕まれていくオリベイラは、その素晴らしい恋人を失わざるを得ない事態へと自らを追い込んでいくようにしか、私には見えなかった。 恋は一度失うことによってのみ、永遠に胸に抱けるのだと信じていたかの如く。

 物語は大きく、三つに分かれている。第一部の「向う側から」、第二部の「こちら側から」、第三部の「その他もろもろの側から」。
 「向う側から」の舞台はパリで、話の中心はオリベイラとラ・マーガだが、「こちら側から」は、ラ・マーガを探し求めるオリベイラがブエノスアイレスに戻ってからの話となる。そして、「その他もろもろの側から」には、作者の言葉で読んでも読まなくても良いとされる、おびただしい断片のような章が収められている。とりわけ、作家モレリのノートからの抜粋が多く含まれているが、これが読みにくかった。 
 私はいたって素直に、指定表にある順番通りに読んでみた。第一部も素敵だったけれど、楽しめたのは第二部の展開の方だろうか。でも実は、第一部にも第二部にも、唖然とするほどに異様な場面(雰囲気になれてしまうと異様に感じないが、実は凄く異様)があって、何ともかんとも解釈致しかねる感じが堪らなく面白かった。
 細部を味わうように、少しずつ再読してみたい作品。

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