ボフミル・フラバル、『あまりにも騒がしい孤独』

 すっかり味を占めた態の、「東欧の想像力」シリーズ。先に読んだ2作に比べるとかなり短い作品だが、濃厚な読み応えには遜色ないので嬉しくなった。(来月にはまた一冊加わるそうなのでそちらも楽しみ)

 『あまりにも騒がしい孤独』、ボフミル・フラバルを読みました。
 

 帯の惹句にもあるように、“鮮烈”という言葉がぴったりだった。そしてまたかなり、いや相当、グロテスクな世界でもあった。私の中の東欧のイメージが、俄かにどんよりとした独特な明暗を帯びて、水圧プレスさながらに迫ってくるようだった。

 冒頭を読みだして即、思わずぎくりと反応せずにはいられないのが、主人公ハニチャの仕事の内容だ。古紙処理係。古紙や本を潰し続けて、なんと35年だという。  
 シシュフォスの苦業にも譬えられる、地下室での終わりなき作業。水圧プレスによって古紙が潰され、“花屋から出たしおれた茎、問屋から出た紙、期限の過ぎたプログラムや乗車券、アイスクリームの包み紙”…などなどが一緒くたに圧縮された紙塊になる。…最初、想像しただけで胸苦しく、暗鬱な気分に陥りそうな仕事に思えたのだが、肝心のハニチャがこだわりと誇りを持って淡々とこなしているので、そんな見当違いな印象は払拭されてしまう。古紙に埋もれ文字にまみれ、自分の思想と本の中のそれとの区別もつかなくなってしまったハニチャ。そうして己自身が、一冊の書物のようになってしまったハニチャ。その一人称による乾いた語り口は、時に滑稽でもあり少年のように稚拙でもある。でもその中身はやっぱり不気味だ。

 そんなハニチャのこだわりの一つに、読み終えた掘り出し物の本を紙塊の中に納める儀式がある。その本たちは、例えば食肉公社から回ってきた血まみれの紙やら段ボールやら交尾する肉蠅の群なんかと一緒くたになって紙塊となるのだ。何なのだろう…この、聖なるものと俗なるものとが圧倒的な力によって均されていく強烈なイメージ。エラスムスとニーチェと肉蠅のたかる段ボールとが、古紙であるという一点だけで乱暴に一括りにされ、それまでの属性を剥ぎとられて形を奪われ、均されていく鮮烈なイメージ。…くらくらと目眩がした。 
 壊してしまうこと。一旦、全てを無に帰すること。その先にあるものを見据えること。そこにあったのが残るべき物語ならば、形を変えながらきっとどこかに残っていくはず…と。

 訳者の解説によればチェコ語には、“幻想的でさえあるような不条理な現実”を指した「カフカールナ(カフカ的状況)」という言葉があるそうだ。小民族であるチェコの人々にとって、現実の“不条理”は至ってありふれた日常的なものであったということから生まれた言葉らしい。

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