マルグリット・ユルスナール、『黒の過程』

 『ハドリアヌス帝の回想』が素晴らしかったのと、“孤高の錬金術師”という響きに大いに心惹かれたことから手に取った。そしてまたしても、圧倒された。
 ユルスナールへの憧憬の念がふつふつと湧き起こる。より完璧なものに近づけるため、自作に手を加え続けたという話にも頷かされる。高みを目指す妥協性のなさと、己に向けた厳しさ。想像するだけで胸が痛い。

 『黒の課程』、マルグリット・ユルスナールを読みました。


 素晴らしい読み応えだった。物語の抱きかかえているものが、あまりにも大きい。
 舞台となるのは、16世紀のフランドル。従兄弟同士である二人の若者が、フランスへと向かう街道で、偶然出会う場面から物語は始まる。二人の若者とは、“権力を求める冒険者と知識を求める冒険者”…すなわち、16歳のアンリ=マクシミリアンと20歳のゼノンである。意気揚々と世俗的な夢を語るアンリ=マクシミリアンとは対照的に、巡礼姿のゼノンには、目の前の事物よりも高次なことにばかり心が向かいがちな傾向が既に見られる。そして四辻にあたると、前者は大街道を選び、後者は細い道をとる。

 主人公ゼノンの軌跡を辿るのみでなく、そのゼノンを遠く近く取り巻く人々の人生をも描き込んでいくことで、物語は厚みを増し重層的になっていく。冒頭にあらわれるアンリ=マクシミリアンの他に、ゼノンの母親イルゾンドや、イルゾルドの結婚相手となる富裕な商人のシモン・アドリアンセン、ゼノンの異父妹マルタ…と、多彩であり、それぞれの造形も興味深い。また、旅の果てに居つくことになる町で、ゼノンとコルドリエ会修道院長が心を通わせていくところなど、私はとても好きだった。

 読み進めていくうちにわかってくるのは、主人公ゼノンが、時代の過渡期における狭間のような場所で、どうにも身動きが取れなくなっていく…ということ。ゼノン自身の迷いもあるけれど、当時の民衆のどうにもならない蒙昧さが、さらに、ゼノンの才能が希求する先を阻む。真実を求め、知の高みを求める者の、駆けあがろうとする足を掴んで引きずり下ろすのは、信じたいことだけを信じ続けようとする、凡庸な人々の愚かさだ。 
 ゼノンを欺く者の手によるデッサンが、同じフランドルの画家ボスの世界を思わせる。そしてその暗いイメージが、“ルネサンス時代の裏面”と結びついた。ゼノンが生きなければならなかった場所に、明るい地中海の光が届くべくもない…(だからこそ、《牢獄》を照らす一筋の光を信じる)。

 ゼノンは架空の人物だが、錬金術師が異端思想の持ち主として宗教裁判にかけられることは実際にあり、また、ゼノンの思想面や科学的探究などは、実在した哲学者や科学者のそれに基づいているそうだ。
 どんな風にゼノンが人生の終焉を迎えることになるのか、はらはらしつつも概ね予想はつきながら読んでいた。が、その描き方には圧倒されたとしか言いようがない。 

 ユルスナールが20歳のころに着想を得たこの物語は、“作者がその生涯をともに生きた作品のひとつ”でもある。その意味の持つ重みを思うと、そんな凄い作品を読めたことが嬉しい。つまるところゼノンとは、ユルスナールのことでもあるのだろう…。

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