井上荒野さん、『あなたの獣』

 『切羽へ』がすごく好きだったので、読んでみた。確信犯的な隙間がとても素敵で、読んでいて何度もくらくらした。危うくて、真水のようにひんやりした空気感。

 『あなたの獣』、井上荒野を読みました。


〔 臨月になった妻のお腹は驚くほどまるく膨らんでいて、その曲線は、その頃いつも僕の頭の中にあった。
 だから、僕はしばしば砂丘のことを考えた。〕 7頁

 あえて何も詳らかにはしないまま、張りつめた気配だけを孕んで物語は始まる。臨月をむかえた妻の傍らに、静かに横たわる男櫻田。彼は、まるく膨らんだ妻のお腹を眺めながら、胸のうちには何処とも知れない砂丘を思い描く。触れば、さらさらとくずれてしまいそうな…。
 例えばそんなふとした場面で、少しだけ何かが引っかかる。のどに小骨が引っかかったみたいに、呑みこみにくい違和感が残る。この男は、新しい命の誕生が当たり前に嬉しくはないのだろうか…と。そんな箇所に何度もぶつかる度に、もやもやと落ち付かない気分にさせられる。捉えどころのない主人公の虚ろさが、じわじわと不気味に滲みだしてくるようだった。

 章ごとに、時間が行きつ戻りつする。シャッフルされた物語の向こうから、色んな角度から浮き彫りにさてくる櫻田のことを、パズルのピースのように隙間に嵌め込む。 
 捉えどころなく得体の知れない、底知れぬ虚を抱えたような櫻田と、そんな彼にかかわった女たち。静かに諦めた女、欲しくて欲しくて躍起になった女、櫻田の何かを見透かしながら逃げて行った女…。櫻田も、そして女たちも、何かがちょっとずつ過剰で、あまり尋常とは言えない気がした。底の知れぬ虚は、何を持ってしても満たされることはない。
 捉えどころのなさは、時には魅力だ。そして魔力だ。それは私にもわかる。得体の知れない櫻田の尻尾だけ、最後に一瞬摑めたような気がしたものの、すぐさまするりとすり抜けていった。儚い感触だけが残された手のひらを、思わずまじまじと見つめてしまう読後感だった。

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