多和田葉子さん、『ボルドーの義兄』

 毎日のように歩く道、白木蓮の蕾がほころんできた。すぐにほぐれて散ってしまう花だから、じいっとみる。足をとめさせる白さ。とどめておけない白さ。

 そろそろ多和田作品を読みたい…と思っていたタイミングで、うきうきと手に取った。思いがけない装丁に意表を衝かれ、にやり。こちらの白さは、深い企みを隠した白だった。

 『ボルドーの義兄』、多和田葉子を読みました。

〔 「あなたは自分のアイデアの泉に恋しているだけで、他の人間は必要ない。文字通りナルチス、ただし木霊は聞こえてこない。」 優奈は、勝ち誇ったように叫んだ。「そう、泉に恋したい。本当に泉に恋してしまった女の話をこの間、読んだの。」 〕 46頁

 短く刻まれた章立ての一つ一つに、漢字一文字があてられている。それがことごとく鏡文字になっているので、いきおいまじまじと見つめさせられる。その字面によっては、反転させられただけでかなり奇妙な記号に変容してしまう漢字もあり、長年使い慣れたはずの漢字の“はね”や“はらい”が、見慣れぬ異質な形となって目に飛び込んでくる。
 そしてまた、ぷつりぷつりと途切れるエピソードとエピソードを繋ぐ箇所で、そんな風に“一つの漢字をトキホグス”ことに意識を集中させられるので、短い作品なのにつっかえつっかえ読んでいるような気分になる。気まぐれに繋がれたようで実はそうでもない、言葉たちの奔放なイメージから与えられる浮遊感を楽しんでいると、すぐにまた反転した漢字があらわれる。その企みめいた揺さぶりに、軽く酔わされた具合になった。

 エピソードがかなり多く、しかもそれらが巧妙に錯綜しているので、そちらに気を取られていると主筋の方を忘れそうになる。…と言っても、そもそもそんなに大きな動きのある話ではない。
 物語は、主人公の優奈がボルドーのプラットフォームに降り立つ場面から始まる。が、そこからすぐさま話はぐんぐんと時間を遡り、過去のエピソードたちが回想の中から数多に溢れだす。 

 優奈がボルドーへとやってきたのは、「フランス語が習いたい」という彼女に、それまで一緒に暮らしていたレネが、二ヶ月間空家になる義兄の家を借りることを、勧めたのがきっかけだった。優奈本人がどれだけその話に乗り気になったかは、かなり疑わしい。或いはレネとの行き詰った関係から逃げ出すようにして、旅立ったのかも知れない。少なくとも、フランス語を習う地がボルドーであることに何ら必然性を感じていないにも関わらず、ただ受け身な立場で流されてきている印象を受ける。それまでもフランス語を習おうとしながら、縁がなく叶わなかったという話もあり、何と言うか、「この人は本当にフランス語が習いたいのかしら?」と思わせられるのだ。言葉、言語への執拗な拘りと、フランス語への執着の希薄さが妙にアンバランスで、それが面白かった。
 それまでたゆたうようだった物語が、終盤になって俄かに、目まぐるしく入れ替わるイメージの渦巻きに煽られ、ぐらぐらと揺れ始める。吃驚リして、息を呑んだ。 

 ページを繰るごとに目の前をよぎる、細くて真っ直ぐなマゼンタの線。閉じた状態じゃなくて読んでいるときの、親指で押さえられて斜めになった小口が綺麗だった。

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