退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「宗教あるいは宗教以前」について

2014-03-06 02:46:29 | Weblog
雨。夜になって晴れる。

「ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題」読了。

「宗教」が結局はわれわれが生きるために必要な要素である「第三項」の存在を
明らかにしているあたりが興味深いところ。

何事かを「正しい」と保証するためにはそれを決める「第三項」が欠かせず
その「根拠の根拠」は「紋章=目に見えるもの」として示され認められるのだということ。

たとえばキリスト教における絵画や音楽や教会は
「神=正しい者」による「秩序」を「体現」して人々を納得させるカラクリ。

同時に「聖典=正典」はさまざまな解釈によって
それ自身の「正しさ」を補償されることになり。

それをなぜかと問えば「理由」などない。
「根拠」は作品および解釈の「荘厳あるいは膨大」によって「演劇的」に作られるだけ。

そうした「堆積」が続けば続くほど
「正しさの疑いなさ」はますます「自明なこと」に。

「空虚」という「ゼロ記号」がここでも現れるのだとすると
わが国における「天皇制」との共通項もほの見えてさらに興味は深まる次第。

著者の他の作品も読まねば。
というより読みたくなる魅力がここにはある。

先日久方ぶりにNHKスペシャルを観たのだけれど
「ビッグデータ」を扱った内容の薄さに驚く。

それらの解析によって以前にはわからなかったことがわかるのはいいとしよう。
震災当日の首都の大渋滞を「抜け道」を知っていたタクシー運転手は避け得たらしいのだが。

仮に「抜け道」が一時的に空いていたとして
その情報が一般に明らかになればそれがまた別の渋滞を生むだけではないのか。

あるいは運転者全員が同時に「状況」を知ることができたとして
それはむしろどの道を行くべきか迷った挙句の「新たな混乱」をもたらすだけ。

なるほど救急車のような緊急車両が病院にたどりつくためには役立つのかもしれない。
ただしそのためには「一般への公開」を敢えてしないという必要が出てくる。

かつてチャーチルが自国の情報把握をドイツに隠すために
ある土地が空襲されると知りつつそれを公開しなかったようなことをすることになるはずで。

それよりもっと単純にそのような状況での「車での移動」はマズいことを言えばいいだろう。
そうだとすれば「ビッグデータ」とは実に「マッチポンプなもの」でしかなく。

これが「科学」だとするなら「宗教以前のもの」と言わざるをえない。
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