退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『しあわせ芝居』に気付く不幸と消費が進んだ結果あるいは『韓国風エクソシズム』の映画」について

2024-08-26 03:21:45 | Weblog
くもりときどき晴れ。スコールも。

「チボー家の人々 一九一四年夏 Ⅱ」読了。

後半はジャックとジェンニーの関係の「復活」。
そういうものかと思いつつ。

「第一次大戦が起きるかどうか」は「各国の思惑」が絡んで。
ラストにはアンヌのアントワーヌへの電話が再び。

桜田淳子「しあわせ芝居」を思い出したり。
「相手にとっての自分の位置」を知ってしまうことの哀しさよ。

荒川和久・中野信子「『一人で生きる』が当たり前になる社会」を引き続き読む。

繰り返すが「消費は人を孤独にする」と書いたのは福田恆存だったか。
その形式が進めば「結婚も趣味」になり「愛も買い物」になると。

独り者の男子の支出が「食べ物」に偏るのにふむふむ。
自分で料理すればいいのにと思うのだけれど。

もっとも女子も男子も「自分だけ」なら簡単でいいと思うのが「基本」か。
そのあたりに実はわれわれの「利他性」が潜んでいるのやもしれず。

もちろん自分のために作るのも結構。
ただし「他人に見せるためのそれ」は微妙。

ナ・ホンジン「哭声」(’16)をようやく観る。

156分の長さはあまり気にならず。
冒頭から「韓国の美しい風景」が引きのキャメラで映し出される。

「理解不能な現実」に「祈祷師」を頼るのは「よくあること」。
「キリスト教の国」だけに「悪魔」は捨てがたい模様。

國村隼は本作で評価されたよう。
たぶん当人は「普通のこと」をしただけのはずだけれど。

いささか「犯人探し」にこだわりすぎた趣き。
ラストまで曖昧なので「結論」が出ても「そうですか」。

「二項対立」という「わかりやすいパターン」ではないぞというのはわからなくもないが。
「韓国風エクソシスズム」だと納得することにする。
コメント
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