晴れ。猛暑日はいつ終わるのか。
ロジェ・マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々 父の死」を読む。
チボー氏の死がこのように描かれる理由はと言えば。
「生」があるからだろう。
生きている者にとって「恐ろしいもの」を「認識できるもの」にしたかった模様。
ただし「死」を経験出来ない事実は変わらず。
「安楽死=苦しむ姿を見かねて死期を早めること」は悪くない。
薬が発達していない当時ならなおさら。
アントワーヌが父親の書き残したものを読むシークエンスでは。
「人は死んだ後でないと評価出来ない」ということらしく。
簡潔に言えば人は他人のことは「わからない」。
それが親族であろうとなかろうと。
後半の「キリスト教談義」をどう捉えるのかは人によって判断が分かれるはず。
「宗教」をどうしても必要とする人々がいることだけは確かなのかも。
マル激を観る。
今回は「ものの見方」を変えるための「デザイン」について。
小さなユニットにおいては「回復が可能であること」をあらためて。
肝心なのは「人と人のつながり」だったり。
その土地と人材に関する「確かな情報」を手に入れることが大切で。
「楽しさ」を体験することも同様に。
宮台真司の「享楽のない正義」が「正義のない享楽」を生み出すという指摘にうなずく。
数学の命題で言うところの「裏」が成立してしまうカラクリよ。
「享楽がなければ正義がある」が「享楽があれば正義がない」に。
単純な論理がこの世界を「貫通」していることを覚えておこう。
望ましいのは「享楽とともに正義があること」は言うまでもないのだとして。
三池崇史「神さまの言う通り」(’14)を観る。
福士蒼汰はなるほど悩むはずだと思う出来。
いわゆる「役者」としては全くの未完成だから。
神木隆之介の「あやしさ」は流石。
山崎紘菜は悪くはないが微妙で染谷将太は「消える」のが早すぎる。
村上虹郎も同様に。
リリー・フランキー、大森南朋の存在が「謎」なのも気になるところ。
池谷のぶえ、高島礼子も忘れずに。
本作の「とぼけた理不尽ぶり」はいい感じ。
要は「運次第」だったり。
「神さま」など到底信じていないあたりがなかなか。
ロジェ・マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々 父の死」を読む。
チボー氏の死がこのように描かれる理由はと言えば。
「生」があるからだろう。
生きている者にとって「恐ろしいもの」を「認識できるもの」にしたかった模様。
ただし「死」を経験出来ない事実は変わらず。
「安楽死=苦しむ姿を見かねて死期を早めること」は悪くない。
薬が発達していない当時ならなおさら。
アントワーヌが父親の書き残したものを読むシークエンスでは。
「人は死んだ後でないと評価出来ない」ということらしく。
簡潔に言えば人は他人のことは「わからない」。
それが親族であろうとなかろうと。
後半の「キリスト教談義」をどう捉えるのかは人によって判断が分かれるはず。
「宗教」をどうしても必要とする人々がいることだけは確かなのかも。
マル激を観る。
今回は「ものの見方」を変えるための「デザイン」について。
小さなユニットにおいては「回復が可能であること」をあらためて。
肝心なのは「人と人のつながり」だったり。
その土地と人材に関する「確かな情報」を手に入れることが大切で。
「楽しさ」を体験することも同様に。
宮台真司の「享楽のない正義」が「正義のない享楽」を生み出すという指摘にうなずく。
数学の命題で言うところの「裏」が成立してしまうカラクリよ。
「享楽がなければ正義がある」が「享楽があれば正義がない」に。
単純な論理がこの世界を「貫通」していることを覚えておこう。
望ましいのは「享楽とともに正義があること」は言うまでもないのだとして。
三池崇史「神さまの言う通り」(’14)を観る。
福士蒼汰はなるほど悩むはずだと思う出来。
いわゆる「役者」としては全くの未完成だから。
神木隆之介の「あやしさ」は流石。
山崎紘菜は悪くはないが微妙で染谷将太は「消える」のが早すぎる。
村上虹郎も同様に。
リリー・フランキー、大森南朋の存在が「謎」なのも気になるところ。
池谷のぶえ、高島礼子も忘れずに。
本作の「とぼけた理不尽ぶり」はいい感じ。
要は「運次第」だったり。
「神さま」など到底信じていないあたりがなかなか。