「東京の流儀」を読んでいて、手繰り寄せられる同時期の自分の記憶。
前記事に続き、いよいよ短大に進学し東京に上京してからのことだ。
我が家は貧乏で、親は4年制大学に行くことには反対だった。しかし、無理やり4年制大学の文芸学部を第一志望とし、某短大を滑り止めとしたところ、当然のことながら、短大に進学することになった。とはいえ、そこでさえ、私には良い成績は納められなかったし、英語の授業は1日目にして脱落。なんとかフランス語の初歩で単位を取って卒業した。我が人生においては、英語が致命傷。
苦手な英語で挫折は当然のことながら、なんと短大では一生の道にしようと思った「演劇」に挫折してしまうのである。
ところで、以下は「東京の流儀」の中の「遊び人の六本木」での福田和也氏の記述である。
「トラボルタの夏だった。矢沢永吉の「時間よ止まれ」が始終かかっていた。渋谷でビールを飲んでから、ビージーズばかりがかかるディスコティックに行き、ぬるいジン・フィズをなめ、不器用にタバコを吸って、灰皿の周りを汚し、ほとんど踊らないで溜まっている。」
そうそう、あの頃は全くこんな世界だったのだ。福田氏は高校生だが、私は田舎から出て来た芋女子短大生。東京の世界は未知の世界だった。
ジョン・トラボルタの「サタデーナイトフィーバー」の世界で、矢沢永吉もそのとおりだ。
私は短大で、迷うことなく演劇部に入った。ところが、私が文学座・民藝・俳優座・青年座・前進座などの劇をイメージしていたのとは裏腹に、この部はブロードウェイミュージカルを目指していたのだった。そして、劇中の踊りがジョン・トラボルタであり、音楽がビージーズである。
演劇部員はディスコに通っていた。先輩がニューヨークを舞台にした脚本を書いて、それを上演するのだ。
演劇部の先輩に連れられて観に行ったのは、東京キッドブラザーズのミュージカルで、柴田恭兵・純アリスなどが出ていた。この部は、そういうものを目指していたのだ。
私にはどうもなじむことができなかった。
演劇部員は本当に普通じゃない。ビールは飲むは、煙草は吸うはである。18歳の女が2つの鼻の穴から2本のタバコの煙を吐く。妙にサマになっている。私には全然合わないタイプなのだけど、何かに向かって取り組んでいる人たちはキライではなかった。
私も一緒にビールを飲み、たまにタバコを勧められ、メンソールの入った“サムタイム”はそう悪くはないと思った。でも、やはりこの世界は私が求める空間とは違っていた。
私も劇に脇役で出演し、最後のフィナーレで全員ダンスの場面では、端っこの目立たない位置で踊ることになっていたんだけど、結局、あまりにも下手なので踊りの場面は出なくてよいということになったのだった。
私は1年の秋の学園祭公演を最初で最後にして、演劇部をやめた。
私はディスコには一度も行ったことがない。社会人になってからは「クラブ」というようになったが、それも行ったことがない。
ところで、トラボルタの「サタデー ナイト フィーバー」だが、これは当時、演劇部で踊りを踊るために、どんなものか見なくてはと思い、1人で映画を観にいったのだ。渋谷か新宿だったと思う。演劇部の仲間はもうとっくに見た後だったので、今さら見る人はいない。
一方、いつも一緒に授業を受けている仲間は居たのだが、その人たちはこれまた正反対のタイプだった。昼休みに一緒にラーメン屋に行っても、テーブルの下にある少年マガジンをそれぞれに読みふけるような人たちで、私も仕方なく少年漫画を読んだ。
彼女たちは、ジョン・トラボルタやディスコには全く興味がなかった。
映画館は、当時は自由席で、いつ入っていつ出ても良いのだった。
私は映画館になんかほとんど入ったこともないので、チケットを買って適当に入っていったら、映画の途中で終わりころだった。満席で座れなかったので立ってみていた。
それから一旦終わって、次の回が始まったので最初から見た。一通り見たので、どんなもんかわかった気がした。
後日、近所のアパートに住む別の友人と話した。その友人はまたちょっと違うタイプで別のクラスである。部活はやっていなくてバイトをしている。地方出身者だ。
ダンスと酒とたばこが好きで、その人のクラスの友達とディスコに入り浸っている。
彼女の話によれば、私は「サタデー ナイト フィーバー」の本質・言わんとしていることを全然理解していないらしい。英語字幕版だし、慣れない映画館で緊張して見ていたせいもあり、確かにトラボルタの人間像とか、この映画の主題などを理解するどころではなかったに違いない。
一応「文芸」を志すものとして、文学や演劇に関して、自分は人にはわからない感性と分析力を持っていると自負していたのだが、映画作品に関しては全く理解できていないと指摘されて不本意であったが、その通りだろう。
今はアマゾンプライムで観ることができるので、このあいだちょっと見てみようかと思ったが、数分で面倒くさくてやめてしまった。過去の記憶も全然なし。
トラボルタの片手を上げて踊っている当時のポスターだけが記憶に残っている。
授業では「演劇論」は取っていた。2年からは演劇のゼミに入りたかったのだけど、そのゼミを選ぶことのできるクラスに入れなかった。また入れたとしても、ゼミ選択の希望も通るとは限らない。そうやって、人間は思わぬ方向に流されて行く。
短大はたったの2年間で短い。これが4年制大学だったら、その倍はあったのだから、もっと何かできたかもしれない。
短大は2年になると、すぐに就職を考えなければならなかった。
せめて出版社に入ろうとしたが、就職したのは印刷会社のような出版社だった。そこで編集を希望するが、校正部へ配属され、つまらない文書をひたすら点検する毎日。
その後、人を相手にする別の職業に就くも、能力が足りず長続きしなかった。やはり黙々と書類に向かって働く“陰キャラ”が、自分にお似合いの仕事らしい。
ところで、福田氏は「東京の流儀」で、六本木の飲食店や書店についても書いているが、私には全然わからない店ばかりだ。
六本木は、学生時代は全然行ったことが無かったと思う。
その後は、六本木ヒルズ、ミッドタウン・森美術館・テレビ朝日・毛利庭園・国立新美術館くらいは行ったことがあるけど、滅多に行かないし、行くのは昼間。あまりなじみのない地域である。
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