山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

ライブは1人で行くもの?

2018-08-08 21:15:35 | 音楽
ライブについて検索していたら、ライブは1人で行くものだとか、どうだとかいう論争がでてきた。

ライブに行けない理由の1つに「1人ではいけないから」というのがあり、連れがいないと行く勇気が出ない人がいる。

それを見ると、私も似たところがあり、一緒に行ける親しい人がいれば心強いなあと思う。
そこで、アラサーの娘を誘ってみたわけだが、みごとに断られたのであった。

うちの娘はサービス業なので、平日は結構遅くまで仕事をしているし、土日は冠婚葬祭以外に休みを取ることは考えられない。
しかし、たとえば11月1日の夜にライブがあるわけだが、この日は木曜日である。そこで、この日に娘が休みを取る、あるいは早退するなどして行けたらいいなと思ったのだ。
もちろん費用はこちら持ちである。絶対にすばらしいライブだと思うので、行って損は無いと思うよ。

しかし、娘は仕事のほうが大切だとのたまったわけで・・・みごとに振られてしまった。
バンドマンのファッションとか髪型とか、娘の仕事にも役に立ちそうだけどな~~~と思うのだが・・・本人に興味が無いのだからしょうがない。

私自身も、若い時にはライブなんか、なんの興味も無かったのだから、誘われたって行かなかったに違いない。だから、娘もアラカンになってから音楽に興味を持つかもね。
それにまあ、好きなアーティストは人それぞれだからしょうがないなあ・・・。
娘にとっては仕事時間を削ってまで行くような魅力はないってことなのだろう。

そして、最初に書いた論争なんだけど、このように連れが欲しくて誘った場合、その連れが必ずしもそのアーティストや音楽を好きなわけではない場合も多く、そんな人にはライブに来てもらいたくない人たちもいるそうである。

そして、人気のあるライブの場合は、チケットを買いたくても売り切れてしまって、買えなかった人などが発生するわけであり、もし付き合いで仕方なく来るような人がライブに行き、ぜひとも見たかった人が行けないなんて不幸な事が起きる場合もある。だから、1人がイヤだからと言って、どうでもよい連れを連れてくるなという意見もあるようだった。

中には、付き合いで来た人が、その音楽を気に入ってファンになる場合もあるから、一概には言えない。

でも、総合すれば、苦労して連れを探すよりは、行きたい人が自分1人で行くのが、問題なさそうである。

気の合った友達同士で、好きなものも同じで、一緒に行く人がいたら、それはそれで幸せなことだと思うけど、大人になると、それはあんまりないかな~。

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「行けないけど」はNG

2018-08-08 15:24:19 | 音楽
ある落語家の人が「『行けないけど頑張ってください』は本当に要らない」とか言った(書いた)そうだ。
もう3年くらい前の話らしい。
「行けないけど」って言う言葉は余計であって、それだったら黙っていてほしいそうだ。
それは、寄席やライブなど同じことであり、アーティストにとっては、来てもらわなくては意味がないから、正直、聞きたくないことばらしい。
それは、デーモン小暮氏も同意見だそうである。

私は最初、別にこの言葉でもいいんじゃないかと思っていた。
本当に用事があったりして行けない場合もあり、「けっして興味がないわけではなく、行きたい気持ちはやまやまだけど、行くことが不可能なのです」という意味であり、「でも応援してますよ」と伝えたい。
行く気がなくて行かないのか、行く気があって行けないのかの区別をつけたいと思ったのである。

でも、落語家やアーティストにとっては「行けない」という事実がそもそも、どんな理由であろうと「ネガティブ」な精神影響を受けてしまうということなのである。

それが、事実だからしょうがない。

だったら、「行けない」という言葉は使わないことにしよう。

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しかし、何かと使ってしまいがちな状況。

お金がないから、行けない。
忙しいから、仕事があるから、いつもいつもいけるわけじゃない。

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アーティストのライブは、飲食店に喩えられることが多い。
今回の「行けなけど頑張って」も、たとえば、ある人が、ラーメン屋を開店したところ、知人が「私は食べには行かないけど、頑張ってくださいね。繁盛することを祈ってますよ」なんていっても、なんか白々しいのと同じだ。黙って食べに来て、おいしいと言って欲しいのはわかる。「頑張って」という応援の一言よりも、1回でも利用してほしいだろう。

ただ、利用したいと思っても、なかなかできないという現状もある。
たとえば、とても高級なレストランだと敷居が高すぎて気おくれしてしまう。おいしそうで一度食べてみたいけど、どうも入り口が入りにくい。「いちげんさんお断り」みたいな店もある。

とてもおいしいので、たまには入るが、予算的に年に1回がいいところだという店もある。

そういう店が、経営困難になって閉店してしまうことがある。
一度食べてみたかったのに、閉店しちゃったとか、たまに食べに行ってたんだけどつぶれちゃったなんてこともある。
つぶれてしまってから、残念だというのだったら、なぜ度々食べにきてくれなかったんですか?ということになる。

でも、その頻度は客側の事情なので、お店の希望通りにはならないわけだ。

利用しないと、物理的に継続して行くことは困難です。
どんなにすばらしいレストランだろうと、アーティストだろうと、どうにもならないんだよね。

ファンはファンで、散財してしまう人だっているだろう。
ライブがあればいつでもどこでも出かけていくし、CDやMVが売りだされれば次々に買う。

そうやってアーティストトの経済基盤を支えてあげたいと思う人もいるかもしれない。
もちろん演奏される音楽がすばらしいからこそできることだ。

どれだけ、身を尽くしたらいいのだろうか。
そもそも、そんなことをつきつめて考える必要もないのだろうけど、
ありったけの音源すべてを買いつくすことも実際にはできないわけだ。

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まあね、何をどうしようと、自分の自由なんだから、自由にやろうよ。
でも、「行かない」とか「行けない」とか、あんまり言わないことにしよう。

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右と左

2018-08-08 06:56:55 | 日記2018
いつも読ませていただいているブログに、右と左のわからない人のことが書いてあった。
そういう症状で、脳に病的な原因があるものは「ゲルストマン症候群」というのだそうだ。
調べてみると、この場合は、「右左が区別できない」以外に「計算ができない」「親指か小指かわからない」等の症状もあるそうだ。

境雅人がゲルストマン症候群らしく、右と左がわからなくて、計算もできないのだとか?

実は、うちの娘も時々「右と左がわからない」と言っている。冗談かと思っていたが、これまで何度か本人が訴えてきたので、日常生活に不便があるくらいわかりにくいらしい。
右だ左だと言われても、とっさにはわからないようである。ただ、数学の計算は得意なほうなので、問題はなさそうだ。

だが、大人になっても、なんで右と左がわからなくなるのか不思議である。

小さい子供には「お箸を持つ方の手が右よ」などと教える親が多い。
だから「右は、箸をもつほうだろ、ペンをもつほうだろ、ハサミをもつほうだろ、覚えられないわけなかろう」と大人になった娘に言うが、それでもわからないんだそうだ。

箸を持つ方が「右だっけ左だっけ?」という迷いになるのかな?

ところで、私の場合は、子どものころ左利きだったので、箸や鉛筆をもつほうが左だった。
当時は爪切りというものがなくハサミで爪を切っていたが、右手で左手の爪を切り、左手で右手の爪を切っていたのを覚えている。左で切るのは切りにくかったが切っていた。今では左手でハサミは使えない。

小さい頃は、鏡文字を書くので、どっち向きが正しいのかわからなくなってしまうため、右で文字を書くようになった。
そうすると、どっちの手でも絵や文字を書けるようになったし、箸も使えたので、ますますどっち側が右か左かわからなくなったのである。

それは、幼稚園の頃だったと思うが、左手首にいつも輪ゴムを嵌めていた。そして輪ゴムのあるほうが左だと教えられた。左手首の腕時計の位置にホクロがあった。そっちが左だと思っていた。

・・・ところで、そのホクロなんだが、今は全くないどころか、小学生のころには既になかったのである。
ホクロというのは、年齢とともに大きくなるはずなのに、影も形もない。
あれは、ホクロではなかったのだろう。親が書いたに違いない。
こっちの手が左という記憶の中でのみ、輪ゴムとホクロが登場するのである。
まあ、それのおかげで左がどちらかを覚えたということらしい。
それは、父がやったのかな?もう既に他界しているので、聞くこともできない。
鉛筆・箸・ハサミは通用しないので、腕時計をつける方が左ということで、代わりに輪ゴムを使ったのだろう。

今、校正の仕事をしているが、文書の中で結構右と左の間違いが多いことに驚く。上下の間違いも多い。
私自身も、このブログに運転のことを書くことが多いが、うっかり右折・左折や右側・左側を逆に書いていることもよくあり、しばらくたってから読み直して驚いて直したりする。
読んでいる人には全然意味が通じかっただろうと思って焦る。右左がわからないわけでもないのに間違えるのだ。人間は右と左を間違えるもの。

右だとか左だとか方向は混乱するものの、右翼だとか左翼だとか、右派とか左派とかはっきり違うものもある。
しかし、どっちに進むか、どっちに寄るかはやっぱり迷うものかな。

カズオ・イシグロの「浮世の画家」を読んでいる(中断したまま)が、そのなかに「みぎひだり」という店の名前が出てくることを思い出した。その名前にしたことに意味があるのかもしれないが、こんな名前の店は実際の日本にはほとんど存在しないと思うので、かなり違和感がある。


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今朝、横断歩道で

2018-08-08 00:25:26 | 日記2018
横断歩道を徒歩で渡ろうとしていたら、車がやってきた。

一緒に渡ろうとしていた自転車の若い女の子は、安全確認もよくしないで渡りかけたので、道路にでっぱったところで危うく停まった。

おいおい、君は歩行者じゃない、軽車両なんだから、ちゃんと一時停止しなさいよ、と思う。
歩行者の場合、いくら横断歩道が歩行者優先だとはいえ、自分の命を守りたいので、安全確認をして、車列がとぎれるのを待つ。
自転車だって、車とぶつかったらひとたまりもないのに、なぜ停まらないんだろう。

車は自転車をよけるようにして、速度も落とさず通り過ぎていく。1台、2台。

すると、意外にも3台めが停まったのだ。かなり離れた停止線のところにきちんと停まった。
4台めがすぐ後ろに続き、その後ろは来ていない。

私は、反対側から車が来ていないことを確かめ、停まった車にお辞儀をして横断歩道を渡る。
自転車の女の子も交差道路を横切った。

停まってくれた自動車は、白のベンツだった。大きくてゆったりしたセダンである。

横断歩道を渡り終えてから振り返ってみると、ドライバーは中年の男性。

紳士だなあ~。

ああいう人は、物心ともに余裕のある人なんだろうな~~

車のナンバーも本人が決めた番号のようで、笑顔を連想させるものだった。

その人の生き方がわかるよね。

もし停まってくれた車が、ダンプカーだろうと、軽自動車だろうと、軽トラックだろうと、タクシーだろうと、なんだって有難いし、気持ちが良いことに変わりはないけど、
ベンツの紳士はそれなりに印象深かった。

今朝は、良い始まりだな~と思っちゃった。

追記:8/8
昨夜、寝るときふと思った。
ベンツって車幅が広いよね。自転車が出っ張って停まっていたので、通り過ぎるには邪魔だったと思う。
大きくよけないといけない。
だから、先に渡らせてしまったほうがよいと判断し、停まったのかもしれない。

でも、気の短い人だったら、すごい速度でよけて走っていくことだろう。
この人の表情は穏やかだったので、やっぱりゆったりした人なんだと思う。






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