山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

こども嫌いな私

2005-09-24 10:42:18 | 未分類過去
姉は子供が大好きで優しく、昔から親戚や近所の子供に親切に接していたので、とても人気があり、子供がなついた。だから、音楽教室の先生というのは姉にとって天職であり、教室勤務をやめて個人でピアノを教えても口コミでどんどん生徒が増えた。姉は、実際ピアノの腕はよくない。しかし、教えるのがうまいらしい。結婚してからは何度か引越し、個人レッスンだけしているが、どこに行っても生徒集めに苦労したことがなかったようだ。50を過ぎた現在は、さすがに世のなかの子供の数が減ってきたこともあり生徒は以前より少なくなった。夫の収入も充分にあり、収入を得る必要もないので、もうやめようかと思っているらしいが、何の営業活動をしなくても、まだ数人の生徒が姉のところに通ってきていて、毎年発表会などにも出演させている。そして、私がパートタイマーで週20時間働いてやっと稼ぐ金額を、姉は週7時間も教えれば稼いでしまう。

姉が子供好きであるのは、父親譲りである。父は子供の心が分かる人で私が小さいときもよく遊んでくれた。ダイアモンドゲームやトランプなどの卓上ゲームの相手にもなってくれたし、珍しく雪が降るとそりなど作って近所の斜面にもっていって、のせて滑らせてくれたりなどした。
一方、母は忙しいということもあるのだが、ゲームが嫌いだからトランプなどはいっさいしない。一度、人形の服が欲しいといったら、赤い布で服を作り始めたから楽しみに待っていた。ところが最後のところで、母は服にボタンをつけず、人形に着せると糸で縫い付け始めた。私は着せ替えをして楽しみたかったので大いに抗議し、結局脱がせてそのままになった。
父は室内家具や建具の仕事をしていたが、ある日いらなくなったレースのカーテンのきれいな布を見つけてきて人形のウエディングドレスを作ってやるといいだした。そして父は得意になって一生懸命作ってくれたのだが、針仕事ができないため、レース生地の袖の部分などを業務用のボンドで貼り付けようとした。それは結局うまくいかなかった。ドレスはだめだったが、父は、私のために木工で人形の洋服ダンスやベットなどを作ってくれた。
母は手先が器用なので実際の人間が着る服は洋裁でも編み物でもよく作ってくれた。人形の服を編んでくれたこともあったし、ぬいぐるみもたくさん作ってくれたから、いい母なのだが、基本的に夢がなく、遊び心もなく、子供の心を理解しない人である。姉の話によると、姉が小学生のころ母の日に自分のお小遣いで買えるものを探した結果、栓抜きを買って母に上げたそうだが、母からはこんなものいらないと冷たくあしらわれてしまったと言う。
また、母にとっては花火などはもっての外で、あれはお金を燃しているのと同じだといっていた。祭りなども嫌いで縁日で売っている綿アメなんかは少量の砂糖に過ぎないから高い金を出して買うのはバカだという。誕生日やプレゼントなどもしない。クリスマスツリーなどを用意するのもすべて父だった。母ほどではないが、私が実用的な考えをする傾向にあるのは母の影響を受けている。

子供が好きであるか嫌いであるかは、環境もあるだろうが生まれつきの性質もあると思う。 母は長女で下に妹や弟がたくさんいるが、面倒見のいい性格ではないし、小さい子に進んで声をかけている様子は見たことがない。子供好きな人は、子供を見れば寄っていってちょっかいを出し自ら遊ぼうとするが、母はそうではないし、私も同じだ。

さらに、私は子供の時から近所や親戚の赤ん坊や幼児をかわいいと思ったことがなく、むしろ異常に怖くて、いっさいかかわりをもちたくないと思うのであった。
それが、どうしてなのかずっとわからなかったのだが、ひとつ思い当たることがある。
私がもの心ついたころ、母はエミちゃんという美容院の赤ちゃんを預かっていたことがある。家にエミちゃんの写真があるので覚えているが、エミちゃんはやっとおすわりができるくらい、生後6~7ヶ月くらいだったと思う。エミちゃんがうちに来たときは妹ができたようでかわいいなと思い、興味津々だった。
しかし、母は幼稚園に行くか行かないかの私に、よその赤ちゃんであるエミちゃんをいじらせなかった。一方、姉はもう3~4年生になっていたから、進んでエミちゃんの面倒をみていた。
ある日、姉がエミちゃんをコタツの上に座らせると、エミちゃんはそのままばたんとうしろにひっくり返ってコタツ板に頭をぶつけ大泣きをし、母がその音と鳴き声に血相を変えて飛んできて、こんな赤ちゃんをコタツの上に座らせるバカがあるかと姉を叱った。私はそばで見ていたが、ますますエミちゃんには近づかないほうがいいと思った。
末っ子である私には赤ちゃんに接するという機会はあまりなかった。同じころだと思うが、母と親しい近所の人が、やっと歩くくらいの小さい子をつれて玄関の前で立ち話をしていた。赤ちゃんには「いないないばあ」をして笑わせるもんだと思った私は、母に「いないないばあしようか?」と言った。すると母は「そんなことしたってだめだ」といった。私は遠慮がちに自分が思ったことをしてみたが、母の言うとおり相手は喜ばなかった。たしかに、いないないばあをするには相手は大きすぎた。
そのようなことから、自分は赤ん坊とかかわりを持ってはいけないという刷り込みができてしまったのだと思う。また、相手が子供に限らず、人に向って私が何か言うときに、母がどう思うか、そんなバカなことを言うもんじゃないなどと叱られるのではと思い、私はいつでも自分のほうから人に働きかけることを非常に恐れるようになった。

私にとって、小さければ小さいほど子供は怖い。その後、親戚が幼児をつれてくると、中学生のころなどは自室にとじこもってひたすら親戚が帰るのを待っていたりした。

正確に言えば、私は子供が嫌いなわけではなく、子供に働きかける自信がないということは自分にもわかっていた。
高校生のころのある日、母の一番下の弟夫婦が急にうちにやってきて、何やら急いでいたのだが、そのお嫁さんは私が義理の姉の子供だろうと見ると、突然赤ん坊を私のひざに乗せ、ちょっと抱いててねといってどこかに行ってしまった。私が子供嫌いで小さい子の面倒などは見ない子だということは親戚の多くは知っているので、普通私にそんなことを頼む人はいないが、そのお嫁さんは結婚したばかりで私の特質など知らなかったようである。
そのときが私が初めて赤ん坊を抱いたときであると思うし、赤ん坊を触ってはいけないという刷り込みが解かれたときだったのかもしれない。ほんの数分間のことだったが、私を信頼して預けてくれたことが意外であり、嬉しかった。
その後も赤ん坊にはどう働きかけたらいいのか、私にはわからなかったが、姉が子供を産むと、その子は他人の子ではないから、触ってもいいんだという安心感があって、普通に接することができたし、自分の子はやはりかわいい。そして、自分の子を育てれば、他人の子も怖くなくなり、子供に対するトラウマはなくなっていった。

それでも、私は子供より大人のほうが好きである。自分の子を幼児だからかわいがったということはなく、何歳であろうと自分の子だからかわいいのであり、大人に成長していく子供が好きである。私が面倒を見てかわいかった当時の過去の子供の姿には関心がなく、一人前に自分で何でもできるようになった今現在の子供に関心がある。

しかし、夫は、うちの子も3歳のころはかわいかったなあなどといつも言っている。かといって、夫は幼児が好きなわけではなく、子供が小さいときに世話をしたわけでもないのであるが、単に、反抗もしないで天心無垢でかわいい姿をしていた3歳のときの姿がなつかしくて仕方がないらしい。世の中の子供も、3歳が一番だ、それを過ぎたらかわいくないなどと言っているが、確かに幼児期のかわいらしさは格別ではあるものの、私には3歳の子供の価値はそれほどわからない。
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