ぶらぶら人生

心の呟き

買い物に…(春一番)

2020-03-19 | 身辺雑記
 昨日、出かける予定だったが、気乗りしないままに日延べした。
 お彼岸のお供え物と食糧を買い求めるための外出である。

 今日は青空が広がり、暖かい一日だった。が、しばしば帽子に手を添えなくてはならないほど、風が強かった。
 春一番が吹いたと、夕べのニュースが伝えた。夜になっても、風の唸りが聞こえてくる。

 10時過ぎのバスに乗る予定で家を出た。が、途中、咲き誇る紫木蓮を眺めているうちに、バスが通過してしまった。

 
 春陽を喜んでいる紫木蓮。

 次のバスは、1時間後である。いったん家に帰ることにした。
 近道をして、廃校になった中学校の通学路を歩いた。
 校舎に近い庭に、梅の赤い花が咲いていた。これはこれで美しい。
 この梅も、実を結ぶのであろうか。気が向いたとき、出かけて確かめてみよう。

  

 バス停で見上げた空。
 軽やかな雲が遊んでいる。

 

 イオンで買い物をする前に、食事をすることにし、<旬珈趣陶>に立ち寄った。
 カレーライスとコーヒーをいただく。

 
  (サフランライスのカレー)

 

 明日はお彼岸の中日。
 食糧のほかに、お供えの花などを求めて帰る。

 相変らず、マスクをしての鬱陶しい外出が続く。どんな経緯を辿って、コロナウイルスは収束するのだろう?!
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木々の芽立ち

2020-03-18 | 小庭の四季
 木々の芽立ちを楽しめる季節になった。
 春日和の庭に出て、嬉々として、形や色に見入ったのは、以下の植物。
 私はとかく花ばかりを眺めて、その木肌や葉の個性を見落とすことが多い。
 芽立ちの季節には、それぞれがそれぞれに美しい!

 (このブログを開いてくださる方、新芽🌱の木の名前をお分かりでしょうか?)

 

 

 

 上・紫陽花 中・ビオウヤナギ 下・金木犀
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津田医院へ

2020-03-17 | 身辺雑記
 津田医院へ行き、定期検査を受ける。
 身体の痒みや湿疹は、なかなか快癒しないけれど、2月に処方の<ルパフィン錠>は中止してもらうことにした。私の体には、効きすぎるようで、就寝時に飲んだ薬の影響が長く続き、昼間にも眠気に襲われる。そんなだらしない生活に不快を覚えて。

 コロナウイルスの流行により、朝夕の検温を始めた。
 朝は平温だが、夕方は少々高めで、37度をこえることが多い。
 私自身は熱に強く、別に不調を感じるわけではないけれど、一応、先生にお話した。

 早速、胸部のレントゲン検診を受けることになった。
 異常はみられないとのこと。
 まずは安堵する。

 高齢になると、自身の不具合が、老いのせいなのか、体に病が潜んでいるの分かりにくい。よほど頑健な高齢者以外は、多分私と同じような、もやもやした気分を抱かれることが多いのだろう。


 帰宅して気づいたのが、ニラバナの開花である。
 強めの風が、小ぶりの花を揺るがせていた。


 

 

 杏子は満開となった。
 毎年、実を三つ四つしかつけない小木である。
 それでも、朝に夕に可憐な花を眺めて、心和んでいる。

 
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『木に会う』から『一握の砂』へ

2020-03-15 | 身辺雑記
 書棚から、『木に会う』(高田宏著)を取り出して読んだ。
 ひと時、高田宏さんの文章が気に入っていて、求めた本である。
 私と同世代のはず、ご健在なのだろうかと、インターネットで調べてみたところ、2015年に他界されたことを知った。
 
  

 エッセイは、どこからでも読める自由さがいい。
 「木のない世界から」の最後に、石川啄木の短歌二首が引用されていた。

   森の奥
   遠きひびきす
   木のうろに臼ひく侏儒の国にかも来し

   世のはじめ
   まづ森ありて
   半神の人そが中に火や守りけむ

 『一握の砂』の歌とある。
 女学生のころ、その歌集を諳んじた記憶があるのに、初めて読む歌のような気がした。
 多分心が幼くて、記憶に留め得なかったのだろう。

 そうと分かっていても、『一握の砂』を確かめたくなり、歌集を開いた。
 <秋風のこころよさに>の章に、上掲の歌は確かにあった。

 『木に会う』から『一握の砂』へと、活字に親しむ日となった。
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蕗の薹ほか

2020-03-14 | 小庭の四季
 朝のうち春雨。のち青空が広がった。
 庭に出てみる。
 待ちに待った蕗の薹が開いてくれた。
 <ギャラリーうつわ>の庭では、2月に春を告げていたのに。
 これから二つ三つと、次々に春の彩りを楽しませてくれるだろう。

 

 花壇の花キャベツも、伸びた茎の先に花を開き始めた。
 白い花は、昨年植えたものだが、名前を思い出せない。

  

   芍薬も、茎色鮮やかに伸び始めた。

   

 昨日から花弁をほどき始めた杏子は、今日も花数を増やしてくれた。
 ひとときの華やぎ!

 
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バス散歩

2020-03-13 | 身辺雑記
 定期検診を受けて来ようと、津田医院へ出かけた。
 生憎の休診。

 買い物に出かける予定はなかったけれど、帰宅するにはバスの待ち時間が長すぎる。
 街へ出るバスはすぐ来ることが分かって、予定もなく街へ出た。
 車中で、食事処を考えた。
 何かが食べたいという気持ちもないまま、消去法でポニーを選んだ。 
 グラントワ前で、バスを降りる。
 が、食欲がわかない。病院での待ち時間を考え、バッグに文庫本を入れて出たので、コーヒーをいただいて、その間、本でも読もうかと思案しているとき、家方面へ向かうバスが停留所に向かってくるのが見えた。
 途端に帰宅を決め、バスに乗った。

 乗車すると、幾年ぶりであろうか、Mさんに声をかけられた。
 大正15年生まれで、4月が来れば94歳のMさん。
 すこぶるお元気そうである。耳が少し遠くなったと話された。が、通路を挟んだ席同士で、会話は通じ合った。
 7歳年上だが、私にはない強靭さが感じられる。
 身体の芯の強さに加え、精神的な強さも比較にならない。
 私など、春風邪をひかないようにと、必要以上に警戒しているが、Mさんはマスクもしておられない。コロナウイルスへの怖れなど微塵も感じておられないようだった。

 1時間半のバス散歩。二度途中下車して。
 帰りは、Mさんとお話して。


 昨日、久々に歩いた市道で、散歩中の三人の方に会った。私のように気まぐれの散歩ではなく、毎日歩いておられるのだろう。
 一人目も二人目も女性であった。近隣の人であろうとは思いつつ、どなたかも分からず、黙礼をしてしてすれ違った。
 三人目は、二本の杖をついた男性であった。同じように頭を下げた。
 と、「お元気そうで……」と挨拶されてびっくり。声を聞いただけでは、誰かが分からず、「どなたでしょうか?」と尋ねた。
 「Mです」と言われて驚いた。一番下の妹と同級生である。
 幾度もお話しているのに、全く分からなかった。しばらく会っていないとはいえ、気づかないとは! 付属物の二本の杖と、帽子と、マスクが、人相を変えていたのかもしれない。
 立ち止まって、近況を話す。

 下の写真は、そのM・Sさん宅の庭の花。(市道から花を楽しませてもらった。)
 私の家庭とは違って、計画的に花が育てられ、よく手入れされている。
 二種のクリスマスローズなど。

 

 

 

 

 


  
  散歩の帰途に眺めた山陰本線(ローカル線の寂しさ)
  旅に出たくなる。
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辛夷と木蓮

2020-03-12 | 散歩道
 今朝、LINEメールで下の写真が届いた。
 辛夷? 木蓮? と、思案しつつ眺めた。
 (右下の花は椿であろう。)

 送り主のSさんに電話で確かめたところ、
 「祖父が植えたもので、昔から眺めてきた古木ですが、さあ木の名前は?」
 との返事だった。
 木々の花、野草の花など、咲いていることには気づいても、その名前を知らないことは多い。Sさんにとっては、樹木名は知らなくても、おじいさんを忍ぶよすがとなっているのだろう。
 Sさんが77歳だから、樹齢はゆうに100歳を超えているに違いない。
 

 楚々とした純白なら辛夷、少し淡黄色を帯びておれば木蓮。
 花弁が薄く小ぶりなら辛夷、やや重厚感があり大ぶりなのが木蓮。
 樹下に立てば、見分けを間違えることはないのだが、写真での判断は難しい。

  

 木蓮や辛夷は、桜に先立って咲く。
 二つの樹木を比較すれば、木蓮の花がやや早く、ほどなくして辛夷が咲くように思っていた。
 が、今日の散歩で、両者の咲き時は、ほぼ同時であるらしいと知った。

 

 Tさん宅の辛夷の古木。
  一昨年、家の山手に大きな辛夷の木があると教えていただいて見に行った。
 そして、今日、その古木に再会した。この辛夷もかなりの樹齢であろう。  
 Tさんは不在だったので、樹下には行かず、庭先から眺めさせてもらった。
 

 以下は、散歩の途次で出会った木蓮の花。
 紫木蓮は、まだ蕾の状態である。

 

 
 (上の紫木蓮は、同じ樹木。)

 蕾が膨らんでゆくのを車窓から眺めていた白木蓮。
 その花を目指して、久しぶりに遠出をした。
 今日、白木蓮は、予想どおり満開のときを迎えていた。
 崩れやすい命を、にぎやかに咲き誇っていた。

   

  
  (上の白木蓮は同じ樹木。)

 さらに足を伸ばし、国道を外れて、灯台への道を辿った。
 途中に、紫木蓮の大樹があることは、かつての散歩で知っていた。遠回りを覚悟の上で、今日の咲き具合を確かめることにした。
 こちらの紫木蓮も、まだ蕾を閉じたままであった。しかし、間もなく華やぎのときを迎える気配であった。

  

 5500歩余りの散歩となった。
 国道を逸れると、上りあり下りありの坂道である。
 久々に歩く、私にとっては少々骨の折れる道のりであった。
 しかし、このところは、コロナウイルスの感染を恐れて、外出を控え気味の生活だったので、散歩で気分転換を楽しめた。

 灯台へ下りる小径に近づいたとき、鶯の囀りを聞いた。
 思わず歩度を緩め、耳を傾ける。
 繰り返し繰り返し、春の到来を歌いあげていた。
 聴覚で春を感じるのは、やはり鶯の声である。
 
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春の憂鬱

2020-03-11 | 身辺雑記
 杏子の花は、開花間近である。(写真)

 


 自然には、のどかな春が訪れようとしている。
 だが、このところ、心は決してのどかとは言えない。

 今日は、3月11日。
 『東日本大震災+原発事故』から9年目を迎えた。
 震災当日、テレビ画面で、大津波が東日本の広域に大災害をもたらす未曾有の凄まじさを目の当たりにした。
 あれから9年!
 形の上では、復興しつつあるかに見えるけれど、今日改めてテレビ画面で見る景は、なんだか積み木細工のような、空疎な眺めである。
 失われたものは、失われたままで、旧には復してはいない。
 その地をわが故郷として生きてきた人たちにとっては、故郷喪失だけでなく、心の傷が大きすぎて、9年前の傷口は癒えていないのであろう、と。
 復興とは、被災地の人々の心が、真に安らぐ日のことであろう。が、それは、簡単に得られるものではないだろうと、虚な復興景(?)を眺めながら思う。
 さらに、原発の「トリチウム水」の処理は、今後どうするのであろう?

 コロナウイルスの拡大も、心を曇らせる。
 日常の平穏が、老女なりに奪われて。

 この春のうれいは、古来から遣われる「春愁」とは、全く性質の異なる憂い(憂鬱)である。
 ウイルスという目には見えない、不気味な存在に脅かされ、心身が晴れないのである。
 
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十三夜の月影

2020-03-08 | 身辺雑記
 家の中にこもる生活が続いている。
 施設へゆくのも、なんとなく躊躇われて。
 この時期、買い物以外で、ぶらぶらするのはまずいのではないかと思案して。その上、私自身、勝手に警戒心を抱きすぎている一面もある。自らの病歴から考えて、感染しやすい体質かもしれないという自信なさがあって。

 このところ、心理的に面白くない日々である。
 程度の違いはあっても、多忙な人以外は、多くの人が似たりよったりの心境なのだろう。
 面白くないだけでなく、私などは、コロナウイルスのせいにして、のらりくらりと暮らしているようなところがある。

 女子マラソンの一山麻緒さん、立派な記録!
    
 今日は十三夜。
  

  
  8時過ぎ、雲間に。

 
 10時過、夜空はくまなく晴れ、星空となっていた。
 しばらくお月さまとお星さまを眺めて、庭に立つ。
 
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街へ出る

2020-03-06 | 身辺雑記
 当県・当市には、コロナウイルスの感染者が出ているわけではないのに、私自身は、自分自身の行動に規制をかけているようなところがある。多くの人もそうなのであろうか?

 健康に絶対的な自信がないからだろうか?
 感染者第一号になって、行動の一部始終を尋ねられるのは嫌だし、さらに人に迷惑をかけるのは申し訳ないと思う。

 テレビを見ていると、県や市町村に感染者が出るごとに、氏名は伏せられているけれど、男女別や大まかな年齢などが、県別、市町村別に伝えられる。
 そこまで公表しなくてはいけないのだろうか、と思ったりする。
 テレビでニュースを見聞きするごとに、私同様、気分の晴れない人が多いのではないだろうか。
 私は私。自由に散歩を楽しんだり、家にいる時間が長ければ、こういう時こそ本を読めばいい。そうと分かっていながら、好きな読書も楽しめない。

 このところ、体も心も動きが鈍い。
 今日は、朝から紺碧の空が広がって、穏やかな春日和であった。
 塞いでいても仕方ないと思い、午後、買い物に出かけた。
 湿疹がなかなか癒えないうえに、正体不明のぶよぶよの疣が突如生じたので、漢方薬局で相談することも兼ねて。

 読みたい本が目の前に幾冊も積み上げてあるのだが、なかなか読めない。
 夕方、手に取ったのは、幾度も読み返した詩集『深呼吸の必要』(長田弘)である。
 付箋をつけている、とあるページを開く。

 二段落からなる散文詩の、その最後は、次のように結ばれる。

 ……… (略) ………どこかへゆくためにで
 はなく、歩くことをたのしむために街を歩く。
 とても簡単なことだ。とても簡単なようなの
 だが、そうだろうか。どこかへ何かをしにゆ
 くことはできても、歩くことをたのしむため
 に歩くこと。それがなかなかにできない。こ
 の世でいちばん難しいのは、いちばん簡単な
 こと。

  

 さりげない表現に、そうですね、とうなずきつつ読む。
 今日の一日をふりかえりながら。

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