書棚から取り出して読み直した本。
幸田 文著の『木』
発行当時の新聞の切り抜き[1993(平成3)年4月13日・朝日新聞]が入っていた。
発行当時の新聞の切り抜き[1993(平成3)年4月13日・朝日新聞]が入っていた。
これを読んで、注文したのだろう。
この本は、作者の逝去後に出版されたことも、記されている。
(切り抜きの下の部分は省略)
幸田文[1904(明治37)年〜1990(平成2年)]
私の母とほぼ同世代である。
幸田文のエッセイを読みつつ、時代的背景に、母を重ね合わせて考えることが多い。
その父・幸田露伴[1867(慶応3)年〜1947(昭和22)年]は、『五重塔』などで著名な作家。
慶応3年生まれといえば、夏目漱石[没年は1916(大正5)年]も、同年生まれである。
私は、本を読むとき、著者の生没年が気になる。どの時代を生きた人であるかによって、その人の一面を予想できると思うからである。
『木』は、作者・幸田文の感性で捉えられた木々について書かれたエッセイ集である。
大地に立ち尽くす生きた木の話ばかりではなく、枯死した木の話もあれば、木材と化した木の話もある。
不平不満の多い私などとは全く違って、確かに木は、雨の日も風の日も、暑さ寒さの中でも、ただ立ち続けている。人間にはかなわないな堂々とした存在かや魅力があり、もし私も生まれ変わりが可能なら木になりたいと、思ったこともある。
エッセイの題名として登場する木は、えぞ松・藤・ひのき・杉(屋久杉)・やなぎ・ポプラなどであるが、文中には、その他の木々についても書かれているし、木に咲く花の話も出てくる。その他、木にまつわりつつ、火山灰の話なども出てくる。
北は北海道から南は屋久島に至るまで、各地の自然の現象と関わりつつ、木々にまつわる話が出てくる。作者の年齢を考えると、おそらく編集者や介添の人がいての旅であったのだろうと思われる。
これらの話が、『学燈』に掲載されたのは、1971年1月号〜1984年6月号までである。67歳ころから80歳にかけて、折々発表された作品ということになりそうだ。
(学燈社は、私の年齢では懐かしい出版社であるが、若い人には馴染みのない出版社ということになるのだろう。戦後にでき、2009年まで続いた出版社である。)
いずれの作品も、味わい深いものであったが、私の一押しは、『藤』というエッセイであった。そこには、親子三代の話(もちろん幸田露伴)も出ていて、木にまつわる話として、心惹かれる内容であった。
田舎育ちの私は、幼い時から山林に囲まれて生活していたので、木は馴染み深いものであった。しかし、それを格別な思いで眺めることもなく、自然の一部として受け止めていたに過ぎない。
私が、初めて意識した一本の木、それはクスノキの大樹であった。
戦時中の小学校1年から、国民学校4年を終了するまで通った、江津の嘉久志小学校(とっくに廃校となっている)の校庭に、その大樹は立っていた。しかも、校庭のど真ん中に、王者のように高く、広がりもある存在だった。
ひ弱で幼い私にとっては、非常に偉大な存在に思えた。どんなに頑張ってみても、クスノキにはかなわないと思ったことを覚えている。
当時、学習課題を早く終えた者から校庭に出て遊ぶことを許される授業があった。特に算数の時間など。唯一得意だったのが算数で、単純な計算はいつも早く終えることができた。
校庭に出ても、鉄棒や砂場で遊ぶでもなく、私は必ずそのクスノキの大樹の下に行った思い出がある。
後年になって、クスノキに会うため、思い出の学校の跡地を訪ねてみた。
思い出のクスノキは、校庭のあった敷地に存在していた。が、すでに初老の私の目に入ったクスノキは、決して大樹ではなく、極々普通の大きさの木であった。(子ども時代の記憶は、このクスノキに限らず、概して実景より大きく感じていたように思う。)
ただその姿、樹形の思い出に狂いはなく、そのことに満足した。
嘉久志小学校には、他にも思い出がある。
これもクスノキ同様、途轍もなく大きく感じていた鉄製の校門の思い出。
その厳つい鉄の門は、日露戦争の時、日本海で沈没した露艦イルティッシュ号の部品であると聞いていた。これも実在のものより大きく感じていた可能性が大だが、クスノキと違って、確かめようがない。大東亜戦争のさなか、鉄の不足から、その門は赤い大きな襷をかけられ、供出された。私たちは手を振って見送った。(各家庭の鉄瓶など、鉄製品がみな供出させられた時代である。)
書きつつ、これもかつてのブログに書いたような気がしてきた。
老人は、とかく同じことを繰り返す、厄介でみっともない癖? がある。(認知症の初期的状況)
ブログは、そろそろやめ時かもしれないと思いつつ、一つの生きがいのようにも思えて続けている。が、思い出を書くのはやめて、新鮮な素材だけに留めるべきかもしれない。
先日のブログで、大平桜の出てくる「石見カルタ」のことを書いたが、この露艦のことも、「石見カルタ」の一枚にあった。
「ロカン イルティシュ ワキノウラ」(露艦 イルティシュ 和木の浦)と。
普通には、「イルティッシュ号」とも呼んでいたように思う。
嘉久志小学校といえば、2年生のとき、クラス一同、雪の校庭に座らされたこともあった。奉安殿の前に、みな神妙な顔をして座った。
当時は教室に暖をとるための囲炉裏があり、火遊びをしたのが罰の原因であった。
蛇足の文章が長くなってしまった!
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