久坂部羊作『廃用身』
(幻冬舎文庫・平成17年4月30日刊)
この小説を読み始めたのは、何日であっただろう?
同時期に注文した佐藤眞一さんの認知症に関する本を2冊読んだ後であったのは確かである。
読了したのは、日記によると、21日である。
それから1週間以上が経ってしまった。
小説の読後感をまとめるとなれば、花の写真に一文を書き添えるようなわけにはゆかず、いたずらに日を重ねてしまった。が、今日は簡単に感想を記しておこう。
友達のRさんに、久坂部羊さんの名前を聞くまで、医師であり作家でもある<久坂部羊>という人について、私は全く知らなかった。もちろん小説を読んだこともなかった。すでに多くの作品があり、周知された作家であるにもかかわらず。
小説『廃用身』には「まえがき」があり、普通の小説とはかなり趣が異なっており、私は<これ、エッセイなの?> と、数ページは自問しながら読み進めた。
この小説を読み始めた日(その日のブログにも書いたことだが)、<廃用身>という初めて目にする言葉に接してまず驚いた。
病んで身体の自由を失った人々の苦労や介護の大変さなどが延々とと述べられている。小説というより、説明的な文であるかのように……。
小説の[第二章 新しい老人医療を目指して]の「当てにならない痴呆判定テスト」では、<改定 長谷川式簡易知能診査スケール>を提示したり、「老化予防の“かきくけこ"」では、患者たちに問う形で、
「か=感動」「き=興味」「く=工夫」「け=健康」「こ=好奇心・『恋』」
が、大切だと説いたりしてある。
確かに、<感動・興味・工夫・健康・好奇心や恋>、いずれも、老化予防にとって大切な事柄である。
こうした文章を読んでいるときは、その柔らかな話に救われるのであるが、病む老人とその介護問題が描かれた部分に至ると、心が苦しくなる。
安泰な老後などあり得ないのだろうか? と。
この小説では、「超高齢者社会への新しい処方せん」として廃用身を切断する「Aケア」が13人の患者に施された経緯が仔細に描かれている。
廃用身は、本人とっても介護人にとっても、負担となっている部分である。それを切断することによって、血流が良くなり、認知症の改善される場合もあったという。(しかし、あるべき手足がなくなるという不自然さは免れない。不具の身となることを容易に受けいられるものかどうか?)
そして、小説の前半の最後には、
<この新しい療法が、さまざまな問題や矛盾にもかかわらず、お年寄りの新しい福音となることを心より願って、擱筆します。>
と、記されている。
画期的な提案であるが、そこまでして老いた人間が生きることに執着しなければならないものか?
私などは、むしろ本人の希望に従って、安楽死の選択できる世の中にならないものかと思ったりしている。
私はちょうど10年前、尊厳死協会に入っており、ただ生き延びるだけの治療はしないという意思表示はしている。が、そこにさらに安楽死が認められれば、もっと老いの日々を安穏に生きられそうな気がするのだが……。
この小説は、上掲の<擱筆>を宣言されたにもかかわらず、そこで終わらず、『廃用身』を書き下ろすよう勧めた<矢倉俊太郎筆>という形式で、さらに書きつがれるのである。
☆ 編集部註ーー封印された「Aケア」とは何だったのか 矢倉俊太郎
と題された文章に、小説の半分以上が費やされている。
小説前半に書かれた「Aケア」は、喧々囂々の批判を浴び、それに携わった「わたし」(医師である漆原糺)は、紆余曲折の末、自殺する。その妻も。
後半は、矢倉俊太郎が、医師漆原糺という人物像を追う形の小説となっている。
読者の私としては、後半部分に小説の面白さを感じた。
が、高齢者社会への一つの警鐘が問われたのは前半の部分である。
結果的に見ると、二段重ねの重箱に、沢山盛り込まれたご馳走を目の前に置かれた感じの小説であった。
これから先、さらに高齢化は進むであろう。
そこにパラダイスはあるのかどうか?
高齢者の生きやすい世になればいいが、あまり大きな夢は描けないような気がする。
(要領よくまとまらないままに……。)
(幻冬舎文庫・平成17年4月30日刊)
この小説を読み始めたのは、何日であっただろう?
同時期に注文した佐藤眞一さんの認知症に関する本を2冊読んだ後であったのは確かである。
読了したのは、日記によると、21日である。
それから1週間以上が経ってしまった。
小説の読後感をまとめるとなれば、花の写真に一文を書き添えるようなわけにはゆかず、いたずらに日を重ねてしまった。が、今日は簡単に感想を記しておこう。
友達のRさんに、久坂部羊さんの名前を聞くまで、医師であり作家でもある<久坂部羊>という人について、私は全く知らなかった。もちろん小説を読んだこともなかった。すでに多くの作品があり、周知された作家であるにもかかわらず。
小説『廃用身』には「まえがき」があり、普通の小説とはかなり趣が異なっており、私は<これ、エッセイなの?> と、数ページは自問しながら読み進めた。
この小説を読み始めた日(その日のブログにも書いたことだが)、<廃用身>という初めて目にする言葉に接してまず驚いた。
病んで身体の自由を失った人々の苦労や介護の大変さなどが延々とと述べられている。小説というより、説明的な文であるかのように……。
小説の[第二章 新しい老人医療を目指して]の「当てにならない痴呆判定テスト」では、<改定 長谷川式簡易知能診査スケール>を提示したり、「老化予防の“かきくけこ"」では、患者たちに問う形で、
「か=感動」「き=興味」「く=工夫」「け=健康」「こ=好奇心・『恋』」
が、大切だと説いたりしてある。
確かに、<感動・興味・工夫・健康・好奇心や恋>、いずれも、老化予防にとって大切な事柄である。
こうした文章を読んでいるときは、その柔らかな話に救われるのであるが、病む老人とその介護問題が描かれた部分に至ると、心が苦しくなる。
安泰な老後などあり得ないのだろうか? と。
この小説では、「超高齢者社会への新しい処方せん」として廃用身を切断する「Aケア」が13人の患者に施された経緯が仔細に描かれている。
廃用身は、本人とっても介護人にとっても、負担となっている部分である。それを切断することによって、血流が良くなり、認知症の改善される場合もあったという。(しかし、あるべき手足がなくなるという不自然さは免れない。不具の身となることを容易に受けいられるものかどうか?)
そして、小説の前半の最後には、
<この新しい療法が、さまざまな問題や矛盾にもかかわらず、お年寄りの新しい福音となることを心より願って、擱筆します。>
と、記されている。
画期的な提案であるが、そこまでして老いた人間が生きることに執着しなければならないものか?
私などは、むしろ本人の希望に従って、安楽死の選択できる世の中にならないものかと思ったりしている。
私はちょうど10年前、尊厳死協会に入っており、ただ生き延びるだけの治療はしないという意思表示はしている。が、そこにさらに安楽死が認められれば、もっと老いの日々を安穏に生きられそうな気がするのだが……。
この小説は、上掲の<擱筆>を宣言されたにもかかわらず、そこで終わらず、『廃用身』を書き下ろすよう勧めた<矢倉俊太郎筆>という形式で、さらに書きつがれるのである。
☆ 編集部註ーー封印された「Aケア」とは何だったのか 矢倉俊太郎
と題された文章に、小説の半分以上が費やされている。
小説前半に書かれた「Aケア」は、喧々囂々の批判を浴び、それに携わった「わたし」(医師である漆原糺)は、紆余曲折の末、自殺する。その妻も。
後半は、矢倉俊太郎が、医師漆原糺という人物像を追う形の小説となっている。
読者の私としては、後半部分に小説の面白さを感じた。
が、高齢者社会への一つの警鐘が問われたのは前半の部分である。
結果的に見ると、二段重ねの重箱に、沢山盛り込まれたご馳走を目の前に置かれた感じの小説であった。
これから先、さらに高齢化は進むであろう。
そこにパラダイスはあるのかどうか?
高齢者の生きやすい世になればいいが、あまり大きな夢は描けないような気がする。
(要領よくまとまらないままに……。)
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