今日は、母の祥月命日である。
昨夜、母のことを思い出しながら、国民学校五年生の頃、音楽の時間に習った歌を口ずさんだ。
♪ 母こそは 命の泉
いとし子を 胸に抱きて
ほほ笑めり 若やかに
うるわしきかな 母の姿
1番だけは歌えるけれど、その後の歌詞は出てこない。
作詞家・作曲家は誰だろう?
私は、上記の歌詞を小声で歌いながら、PCで検索した。
<歌 母こそは ?>と記入して。
題名「母の歌」 野上弥生子作詞・下総皖一作曲
文部省唱歌として、昭和18年に作られた歌と分かった。
私の記憶は、間違っていなかった。
私はその年、国民学校の五年生であった。
その当時は、野上弥生子(1885~1985)という、有名な小説家の名前さえ知らなかった。
もちろん作曲家・下総皖一(1889~1962)についても。
2番、3番の歌詞は、下記のようになっている。
♪ 母こそは み国の力
おの子らを いくさの庭に
遠くやり 心勇む
雄々しきかな 母の姿
母こそは 千年(ちとせ)の光
人の世の あらんかぎり
地にはゆる 天つ日なり
大いなるかな 母の姿
昭和18年といえば、戦争末期。
息子を戦場に送る母をあえて賛美し、鼓舞する目的もあったのであろう。
特に、私の記憶からは消えていた2番の歌詞には、作詞の目的があらわである。
戦後は、歌われることのなかった歌に違いない。
したがって、この歌を習ったのは、ごく一部の世代であるはずだ。
私にとっては、1番の歌詞だけでいい。
PCの曲に合わせ、繰り返し歌っているうちに、母の姿が重なった。
母の慈しみ、深い愛に包まれて育った日々が、思い出された。
私は長女で、どこか間抜けていたし、体も弱く、不器用でもあった。
手のかかる子供だったにちがいない。
それでも、母は、私のありのままを重んじて育ててくれた。
厳しかったのは、しつけだけだった。
先週、NHKの<あさイチ>が、「母が重い」というテーマで、母と子の関係を採り上げていた。
母との距離の取り方に、悩みを抱えている人が多い、というのだ。
私にとっては、驚きであった。
私は子どもを持たないので、母と私の関係でしか、母子の在り方を考えられない。
が、私が母となっていたら、果たして私の母のような母でありえたかどうか、その番組を見ながら、考えさせられた。
母と娘の関係は、現代社会に存在する病巣の一つかもしれない、と改めて考えた。
戦後69年、じわじわと、母と娘、娘と母の在り様も、変わってきたということなのだろう。
話が逸れてしまったが、母の祥月命日の今日も、慈母として母を偲べることを幸せに思う。
(余禄 作曲家・下総皖一は、「ほ、ほ、蛍が灯をともす」の<蛍>を作曲した人でもあることを、PCで知った。)
今朝、近所の庭に咲いていた百日紅と桔梗の花。
昨夜、母のことを思い出しながら、国民学校五年生の頃、音楽の時間に習った歌を口ずさんだ。
♪ 母こそは 命の泉
いとし子を 胸に抱きて
ほほ笑めり 若やかに
うるわしきかな 母の姿
1番だけは歌えるけれど、その後の歌詞は出てこない。
作詞家・作曲家は誰だろう?
私は、上記の歌詞を小声で歌いながら、PCで検索した。
<歌 母こそは ?>と記入して。
題名「母の歌」 野上弥生子作詞・下総皖一作曲
文部省唱歌として、昭和18年に作られた歌と分かった。
私の記憶は、間違っていなかった。
私はその年、国民学校の五年生であった。
その当時は、野上弥生子(1885~1985)という、有名な小説家の名前さえ知らなかった。
もちろん作曲家・下総皖一(1889~1962)についても。
2番、3番の歌詞は、下記のようになっている。
♪ 母こそは み国の力
おの子らを いくさの庭に
遠くやり 心勇む
雄々しきかな 母の姿
母こそは 千年(ちとせ)の光
人の世の あらんかぎり
地にはゆる 天つ日なり
大いなるかな 母の姿
昭和18年といえば、戦争末期。
息子を戦場に送る母をあえて賛美し、鼓舞する目的もあったのであろう。
特に、私の記憶からは消えていた2番の歌詞には、作詞の目的があらわである。
戦後は、歌われることのなかった歌に違いない。
したがって、この歌を習ったのは、ごく一部の世代であるはずだ。
私にとっては、1番の歌詞だけでいい。
PCの曲に合わせ、繰り返し歌っているうちに、母の姿が重なった。
母の慈しみ、深い愛に包まれて育った日々が、思い出された。
私は長女で、どこか間抜けていたし、体も弱く、不器用でもあった。
手のかかる子供だったにちがいない。
それでも、母は、私のありのままを重んじて育ててくれた。
厳しかったのは、しつけだけだった。
先週、NHKの<あさイチ>が、「母が重い」というテーマで、母と子の関係を採り上げていた。
母との距離の取り方に、悩みを抱えている人が多い、というのだ。
私にとっては、驚きであった。
私は子どもを持たないので、母と私の関係でしか、母子の在り方を考えられない。
が、私が母となっていたら、果たして私の母のような母でありえたかどうか、その番組を見ながら、考えさせられた。
母と娘の関係は、現代社会に存在する病巣の一つかもしれない、と改めて考えた。
戦後69年、じわじわと、母と娘、娘と母の在り様も、変わってきたということなのだろう。
話が逸れてしまったが、母の祥月命日の今日も、慈母として母を偲べることを幸せに思う。
(余禄 作曲家・下総皖一は、「ほ、ほ、蛍が灯をともす」の<蛍>を作曲した人でもあることを、PCで知った。)
今朝、近所の庭に咲いていた百日紅と桔梗の花。
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