ぶらぶら人生

心の呟き

母を偲ぶ

2014-07-29 | 身辺雑記
 今日は、母の祥月命日である。
 
 昨夜、母のことを思い出しながら、国民学校五年生の頃、音楽の時間に習った歌を口ずさんだ。

    ♪ 母こそは 命の泉
      いとし子を 胸に抱きて
      ほほ笑めり 若やかに
      うるわしきかな 母の姿


 1番だけは歌えるけれど、その後の歌詞は出てこない。
 作詞家・作曲家は誰だろう?

 私は、上記の歌詞を小声で歌いながら、PCで検索した。
 <歌 母こそは ?>と記入して。

 題名「母の歌」 野上弥生子作詞・下総皖一作曲
 文部省唱歌として、昭和18年に作られた歌と分かった。

 私の記憶は、間違っていなかった。
 私はその年、国民学校の五年生であった。
 その当時は、野上弥生子(1885~1985)という、有名な小説家の名前さえ知らなかった。
 もちろん作曲家・下総皖一(1889~1962)についても。

 2番、3番の歌詞は、下記のようになっている。

    ♪ 母こそは み国の力
      おの子らを いくさの庭に
      遠くやり 心勇む
      雄々しきかな 母の姿

      母こそは 千年(ちとせ)の光
      人の世の あらんかぎり
      地にはゆる 天つ日なり
      大いなるかな 母の姿


 昭和18年といえば、戦争末期。
 息子を戦場に送る母をあえて賛美し、鼓舞する目的もあったのであろう。
 特に、私の記憶からは消えていた2番の歌詞には、作詞の目的があらわである。

 戦後は、歌われることのなかった歌に違いない。
 したがって、この歌を習ったのは、ごく一部の世代であるはずだ。

 私にとっては、1番の歌詞だけでいい。
 PCの曲に合わせ、繰り返し歌っているうちに、母の姿が重なった。

 母の慈しみ、深い愛に包まれて育った日々が、思い出された。
 私は長女で、どこか間抜けていたし、体も弱く、不器用でもあった。
 手のかかる子供だったにちがいない。
 それでも、母は、私のありのままを重んじて育ててくれた。
 厳しかったのは、しつけだけだった。

 先週、NHKの<あさイチ>が、「母が重い」というテーマで、母と子の関係を採り上げていた。
 母との距離の取り方に、悩みを抱えている人が多い、というのだ。
 私にとっては、驚きであった。
 私は子どもを持たないので、母と私の関係でしか、母子の在り方を考えられない。
 が、私が母となっていたら、果たして私の母のような母でありえたかどうか、その番組を見ながら、考えさせられた。

 母と娘の関係は、現代社会に存在する病巣の一つかもしれない、と改めて考えた。
 戦後69年、じわじわと、母と娘、娘と母の在り様も、変わってきたということなのだろう。

 話が逸れてしまったが、母の祥月命日の今日も、慈母として母を偲べることを幸せに思う。

 (余禄 作曲家・下総皖一は、「ほ、ほ、蛍が灯をともす」の<蛍>を作曲した人でもあることを、PCで知った。)



     今朝、近所の庭に咲いていた百日紅と桔梗の花。

      

      
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