お昼過ぎ、草花舎へ食事に行った。
いつものならいで、雨上がりの庭を歩こうとして、初めて気づいた。カバンの中にカメラがないと。
ああ、また忘れ物!
草花舎に着く前には、遠近両用の眼鏡ではなく老眼用をかけて外出したことに気づいた。
一日に、いくつのトンチンカンをすれば気が済むのだろう?
昨日は、Mさんの葬儀から帰って、家の中にい続けるのが、心理的に不安になり、草花舎に出かけた。
草花舎は、ありがたいことに、歩いていける範囲にある。
心を紛らせるための申し分のない場所として。
音楽を聞きながらコーヒーを飲み、書棚の本を手にして読んでいれば、気分が少しは晴れるのだ。
昨日は、辺見庸著『しのびよる破局』を手に取った。
辺見さんの文章は、扱われる話題が深刻なだけに、一見堅苦しげだが、論理が整然としているので、難解すぎるということはない。
しかし、昨日は、同級生の葬儀のあとだったので、少々問題が重すぎた。
本を棚に返し、代金の支払いをして帰ろうとしたとき、財布からいつものお昼代を差し出そうとして、Yさんに「コーヒーだけだから…」と、指摘された。
払い忘れたり、払いすぎたり、悪意はないのに、怪しいことをする。
昨日も今日も、トンチンカンばかり。
「頭がいよいよおかしくなったのかしら?」
そう案ずる私に、Yさん曰く。
「頭の中に、何か気がかりな大事(だいじ)があると、余ごとに頭が回らないのでは?」
全くそうだ。
<何か気がかりな大事>は、人によって異なるものである。
今日は、食事の後、長田弘著の『アメリカの61の風景』を拾い読みした。
作者が車でアメリカを旅し、詩人の捉えた風景を表現した、ロード・エッセイである。
長田弘は好きな詩人の一人であり、詩同様、表現の巧みさに感心した。
草花舎へ出かける前に、ソコロのSさんがパソコンの点検に来てくださった。
「ブログにあった、まど・みちおさんの詩、面白かったですね。耄碌との付き合い方が…」といった意味の話をされ、あの詩の載った詩集をよかったら貸してほしいと言われた。
早速探してみたが、例によって、すぐには見つからなかった。
詩題はなんだったかも気になり、草花舎から帰ってから本を探した。
『いわずに おれない』(写真)であった。居間の机の上で見つかった。
詩題は、<トンチンカン夫婦>だった。
幾度読み直しても、愉快である。
老いに伴うトンチンカンを笑い飛ばし、<天の恵み>と受け止める姿勢が頼もしい。
が、私のトンチカンには、ユーモアを欠く。間抜け加減に面白さがない。
しかし、まどさんの、次のような体験談は、至極似ている。
<あの机で詩や手紙を書きます。でも書こうとすると、ペンがないとか消しゴムがないとか探してばっかりで、必要なときに必要なものが見つからないのです。>(P149)
私も、こういったことは珍しくない。
今朝は、料理に使いたくて、買い置いたはずの<カツオパック>を探した。
あの大きなものが、どこに雲隠れしたのだろう?
探す場所は限られているのに、と思うけれど、探すときには妙に雲隠れする。目の前にあっても見つからない。
(草花舎へ出かける前に、やっと見つけることができたのだが…。あるべき位置にやはりあった。)
昨日の朝から姿を消した<万歩計>は、ちょっと探しようがない。
家の中の、どこかにあるだろうとは思いながら、昨夕、薬局で新しいのを求めてきた。
歩く歩数は少なくても、少しでも多く体を動かすために、つけておかなくては気がすまないのだ。
<トンチンカン夫婦>を読みなおした後、気に入った詩をさらに見つけた。
少し長いが、引用しておこう。
詩題は、「私たちは」である。
私たちはどこでどうしていようと
「そこ」とか「ここ」とかの
見える「場所」で
見えない「今」の一瞬一瞬を
かぎりなくつづけているのだが
つづけながらにふっと気がつく
つづけているのは私たちではなくて
見えない「時間」の方がひっそりと
つづいているんだなと
そしてそう気がつくと夜が明けるように
わかってくるのだこの老人にも
「時間」こそは母なる宇宙ご自身なのだと
私たちこの世の存在物の残らずを
その胸に抱きつづけていてくださる…
しかも有難いことにそのやさしさの外へ
こぼれ出ることだけは
たとえ一瞬でもチリ一つでも
こんりんざいできっこないんだと…
まどさん独特の時間の捉え方である。
なるほどなあと思うのだ。
いつものならいで、雨上がりの庭を歩こうとして、初めて気づいた。カバンの中にカメラがないと。
ああ、また忘れ物!
草花舎に着く前には、遠近両用の眼鏡ではなく老眼用をかけて外出したことに気づいた。
一日に、いくつのトンチンカンをすれば気が済むのだろう?
昨日は、Mさんの葬儀から帰って、家の中にい続けるのが、心理的に不安になり、草花舎に出かけた。
草花舎は、ありがたいことに、歩いていける範囲にある。
心を紛らせるための申し分のない場所として。
音楽を聞きながらコーヒーを飲み、書棚の本を手にして読んでいれば、気分が少しは晴れるのだ。
昨日は、辺見庸著『しのびよる破局』を手に取った。
辺見さんの文章は、扱われる話題が深刻なだけに、一見堅苦しげだが、論理が整然としているので、難解すぎるということはない。
しかし、昨日は、同級生の葬儀のあとだったので、少々問題が重すぎた。
本を棚に返し、代金の支払いをして帰ろうとしたとき、財布からいつものお昼代を差し出そうとして、Yさんに「コーヒーだけだから…」と、指摘された。
払い忘れたり、払いすぎたり、悪意はないのに、怪しいことをする。
昨日も今日も、トンチンカンばかり。
「頭がいよいよおかしくなったのかしら?」
そう案ずる私に、Yさん曰く。
「頭の中に、何か気がかりな大事(だいじ)があると、余ごとに頭が回らないのでは?」
全くそうだ。
<何か気がかりな大事>は、人によって異なるものである。
今日は、食事の後、長田弘著の『アメリカの61の風景』を拾い読みした。
作者が車でアメリカを旅し、詩人の捉えた風景を表現した、ロード・エッセイである。
長田弘は好きな詩人の一人であり、詩同様、表現の巧みさに感心した。
草花舎へ出かける前に、ソコロのSさんがパソコンの点検に来てくださった。
「ブログにあった、まど・みちおさんの詩、面白かったですね。耄碌との付き合い方が…」といった意味の話をされ、あの詩の載った詩集をよかったら貸してほしいと言われた。
早速探してみたが、例によって、すぐには見つからなかった。
詩題はなんだったかも気になり、草花舎から帰ってから本を探した。
『いわずに おれない』(写真)であった。居間の机の上で見つかった。
詩題は、<トンチンカン夫婦>だった。
幾度読み直しても、愉快である。
老いに伴うトンチンカンを笑い飛ばし、<天の恵み>と受け止める姿勢が頼もしい。
が、私のトンチカンには、ユーモアを欠く。間抜け加減に面白さがない。
しかし、まどさんの、次のような体験談は、至極似ている。
<あの机で詩や手紙を書きます。でも書こうとすると、ペンがないとか消しゴムがないとか探してばっかりで、必要なときに必要なものが見つからないのです。>(P149)
私も、こういったことは珍しくない。
今朝は、料理に使いたくて、買い置いたはずの<カツオパック>を探した。
あの大きなものが、どこに雲隠れしたのだろう?
探す場所は限られているのに、と思うけれど、探すときには妙に雲隠れする。目の前にあっても見つからない。
(草花舎へ出かける前に、やっと見つけることができたのだが…。あるべき位置にやはりあった。)
昨日の朝から姿を消した<万歩計>は、ちょっと探しようがない。
家の中の、どこかにあるだろうとは思いながら、昨夕、薬局で新しいのを求めてきた。
歩く歩数は少なくても、少しでも多く体を動かすために、つけておかなくては気がすまないのだ。
<トンチンカン夫婦>を読みなおした後、気に入った詩をさらに見つけた。
少し長いが、引用しておこう。
詩題は、「私たちは」である。
私たちはどこでどうしていようと
「そこ」とか「ここ」とかの
見える「場所」で
見えない「今」の一瞬一瞬を
かぎりなくつづけているのだが
つづけながらにふっと気がつく
つづけているのは私たちではなくて
見えない「時間」の方がひっそりと
つづいているんだなと
そしてそう気がつくと夜が明けるように
わかってくるのだこの老人にも
「時間」こそは母なる宇宙ご自身なのだと
私たちこの世の存在物の残らずを
その胸に抱きつづけていてくださる…
しかも有難いことにそのやさしさの外へ
こぼれ出ることだけは
たとえ一瞬でもチリ一つでも
こんりんざいできっこないんだと…
まどさん独特の時間の捉え方である。
なるほどなあと思うのだ。
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