脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

うちのクラブのちょっとした組織論

2018-03-07 | Weblog

日本のスポーツは欧米に比べてメンタルな部分で30年ほどおくれている。語学にうといスポーツはさらに10年は遅れていると思っているが、うちには電話もふくめてスポーツ関連のことで相談を受けることが多いときで1年に2回ほどある。話を聞いていて、そういう指導者たちは、視野が狭い、体育会系独特の一方的な考え方しか理解できない、おそらく教養が足りないからまともな会話ができないんじゃないかと疑っている。中には親がしっかりしていて、子供も賢かったらこわがって会話をさけると言うような話も聞くが、群れをまとめていくためにはある程度の教養がなければ、まともなコミュニティは形成できないと思っている。スポーツはからだを動かすのが目的であるが、しかし指導者は頭を使って群れを率いなければ、まともな人間はついてこないし、群れそのものがずれていくであろう。

まず私が感じることはそれしかできない日本人の指導者は説明がきちんとできない、対話力が非常にとぼしいと言うことである。本人たちは一方的な意見をおしつけてたたみかけることが説明だと思っているのだろうが、しかし語彙力や知的教養的な部分がとぼしいと、そう言った考え方は単に押し付けである。聞く側としても納得できないこともあるだろうし、教養のレベルが違えばそれはなおさらなこと、もう少し相手に何かを伝えるための教養を身に着けることは必要なことだ。例えば子供のボクシングに関しても欧米では、医学論文が出ている。それはちょっとしたレポートでも読めるのだが、親からこういう論文が出ていて、子供のころから競技させることは危険ではないのかと聞かれたらどうこたえるのだろうか?もちろんうちのクラブには親がDRとか、そういうことが理解できる人、DRの人たちも在籍しているので、多少専門的なことを聞かれることも十分ありうるし、現に倫理的なことを含めたうえでそういうことを聞かれたこともある。そういうことを聞かれた時に軽く当てているとか、危なくなったらとめるとか、子供の言い訳のような説明では納得がいかないだろうし、こういう時はきちんとその論文のことも理解して説明する必要があると思う。

うちのクラブのアドバンテージは、肝心なことを聞かれたときにあいまいにしない、きちんとそれを説明できる能力がある。そしてどういう人が来てもきちんと対話できるということだ。さっき親がしっかりしていて子供が賢いとその子供をこわがってまともに会話しようとしない、できないと言ったが、それはコンプレックスがあるからだ。きちんと学問を研鑽して、教養をもたないから自信が持てない、自信が持てないから自分よりも上の人間とは会話できない、だから自分に従順なものや同じようなレベルの人間たちによくしてかたまるのだと思う。そしてそういう人間たちが集まってDQN学校のレベルになっていくとしたらそれは問題だ。こういう人間たちが大多数を占めると組織はだんだんとおかしくなっていく。あいさつとか礼儀とかわけのわからないことを言ったところで、根本的にはそこに集まる人たちの質をかえなくてはかわらない。ある次元できちんと物事を理解し、対話できる能力を持った人間たちが集まらないと、パワハラや体罰などの問題は単に何々するなと言うことで片付けられてしまう。そしてまた時間がたてばまた同じようなことを繰り返すだけである。こういうことを繰り返すのは学習能力がたりないからだと思っているが、私はもう少し指導する人間たちは、知的教養のレベルをあげて群れをひきいていく必要があると思う。自分のクラブのことで恐縮であるが、うちのクラブは言葉なども含めて知的な部分を大事にしている。中高生に英語を教えたり、語学を教えるのはまさにそういう部分を大事にしているからだが、そういう部分で群れを率いようと試みるとまず群れは暴力的ではなくなる。うちのクラブではマスでカーッとなって敵意むき出しでなぐりかかっていくものはまずいない。うちではよく冗談であの人危険だといじっているが、しかし敵意むき出しになったり、自分本位ではないので暴力的ではなく、安心して見てられる。こういう本能的な部分は単に何々するなと言う規則だけではおさえることができない。暴力的でないというのは自分勝手や恣意的ではないということであるが、やはりこういう自発的なよい部分を助長しようと思うならばその群れの知的レベルをあげることが不可欠だと思っている。今何かギリシャ哲学から学べとか、そういう風潮があるらしいが、ギリシャ時代の政治はまさに哲人による政治をかかげていたと思う。

 

 


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