自分はアメリカに大きなものをおいてきている。
ボクシングの「やりのこし」である。
そしてそれから何年もの年月を通して再びジムにおとずれた。
その時ジムは何も変わっていない昔のままであった「確かあそこで悔しさのあまり唇をかんで悔しがっているところを、ジョージが「強くなりたいか」と声をかけてくれた場所だ、なんて思い出しながらずっとながめていた。すると何人かの人間が自分のところに近寄ってきた。
「YOUだろ」!信じられないことだが、それは当時一緒にボクシングをしていた連中だった。彼らは引退してここでボクシングを教えている。その後、彼らから当時自分も含め、学生時代ボクシングを競技していた人間が今何をしているかということを聞いた。本当に懐かしかった。心がいやされた出来事であった。
引退した後は、決してここを訪れることはないと思っていた。
しかし10年の歳月が、自分の心を変えここへと運んでくれたのだ。
思い出はすぐには思い出にはならない、だから思い出である。
自分のように、最後の試合でまけて大きなやりのこしをしてしまったが、しかし時がそのことを解決し、大きな思い出へとかえてくれたのだ。
若い人に「試合に出てみないか」というとよくこういう答えがかえってくる。
「試合にでてみたいと思うが負けるのがいやだ」、中には負けたら一生懸命やったことが無駄になってしまい、ショックだからというものもいるが、でも勝ってもまけても、本当に一生懸命がんばったならば、必ずそれは大きな思い出として、自分の心の中に残り満されのころであろう。
確かにまければその時は大きなショックかも知れない、しかしそれは10年後20年後に大きな思い出となることであって、10年後20年後、自分の生き方を振り返った時、何もなかった人生を生きるよりも、たとえまけても、こういう思い出をつくるほうが、はるかに自分を誇れると思う。
本当に自分はやったと思うから言わせてもらうが、勝ったとか負けたとかせこいことを気にするよりも、とにかくやってみることである。
よくトロフィーやメダルのたぐいを、大事に家においてかざっている人がいるが私はよくわからない。悪いとは言わないが自分はあんなものくだらないのでなくしてしまった。
自分にとって大きなことは勝つとか負けるではない、あのでかい大国の中でひとりで立ち向かっていったことが、何よりも自分にとっての大きなほこりであり、大きな思い出であるのだから、あえてそんなものにこだわる必要がない。