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ジンメルの「社会学の諸形式の研究」から見たいじめの一考察

2018-03-27 | Weblog

「排除されていないものは、包括されている」
これは「社会学の諸形式の研究」の中で書かれたジンメルの言葉である。この言葉は差別の構造を表した言葉であるが、差別には差別する側と差別される側があるのだが、しかしそれを傍観しているものも、差別している側と同じであるというジンメルの立場を表した言葉である。

文学博士に森田洋司さんという人がいる。
この人がいじめの研究の中で、いじめの被害について言及しているが、いじめの被害の大きさは、いじめっこの数ではなく、傍観者の数に相関すると言っている。
すなわち差別を傍観したり、無関心である人の存在は、そのいじめている人間に無言の指示を与え歯止めをきかなくさせているというのだ。

私は宗教学が専門なのでユダヤ教の掟について言及したいが、ユダヤ教の教えにこういう教えがある。「You shall not give false testimony against your neighbors」これはモーセの十戒の掟で日本語訳では「隣人について偽証してはならない」となっていると思う。しかしこの言葉は、何々するなというただ否定するだけの消極的な言葉ではない。おそらくその当時現代社会のように、科学的な鑑識やそういったたぐいのものがなかったので、裁判においては人の証言と言うのが重要な証拠であり、その裁判で裁かれる人間を生かすも殺すも、まさにその人間の証言次第であったからで、もちろんそういう環境で偽証するなというのはあたりまえなわけだが、しかしこの言葉はもう一つ積極的な意味をもっている。それは知っていることはすべて証言しなさいと言う、積極的にあなたは真実をそこで語りなさい、そうでないと偽証していることと同じことなんですよと言う意味である。

こういうことを言えば、ジンメルの研究者に違うと指摘されるかも知れないが、私はジンメルの差別について考える時、ユダヤ教が彼の考え方に非常に密接にかかわっていると思う。実際彼はキジナウムというユダヤ人の共同体の学校に入学し、そこで教育を受けているし、彼自身もユダヤ人である。おそらくこのかれのこの言葉の背景には少なからずとも、そのユダヤ教の影響があるというのが私の見解であるが、差別を何も感じないで何も行動を起こさないのは、差別するのと同じだという「排除されないものは包括される」というのは、まさに偽証するなと同じことではなかろうかと思う。

現在でも事実いじめというのはあるようだが、この言葉は今のいじめをとりまく環境にいる私たちにとって考えさせられる言葉である。私がいじめについて考えるようになったのは、ここにそういう子供たちが来たり、親が相談にくることがあってそうなったわけだが、その中でいじめを問いなおした時に思ったことは、私もそうであったが、まわりが本当にこのいじめにたいして解決しようとしているのだろうか、ただ単純にいじめられなければいいということだけで、終わっていないかと言うことである。少し難しくなるので割愛するが、ジンメルのこの言葉は今のいじめをとりまく、私たちに提言している。いじめというのはいじめられる側といじめる側の問題だけではない、それを取り巻く全体の問題でもある。すなわち共同体でそれを解決していかなくてはならない問題でもある。少し前から欧米社会ではこのいじめに対して、まわりの人間がそれをどう考え対処していくかということが問題になっているが、問題になっているのはいじめをなくそうではなく、いじめをゆるすなである。たぶん日本はまだいじめが、そのいじめられている子といじめている子、そして教師や親という中でしか問題にしていないが、しかしこれはそれをとりまく全体の問題であって、もう少しまわりの人間にも、このジンメルの言葉のように責任をおわすことも必要であると思う。




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