脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

The book of leviticus 

2016-08-24 | Weblog

とか愛読書までとはいかないが孫子の兵法をよく読むのだがその作戦篇にこうある。「敵を殺すものは怒なり。敵の貨を取るものは利なり」これは私の好きな言葉だ。大方の意味は敵を殺してしまうのは思慮をうしない憤怒にかられたのでよくない、しかし敵の敵の物資をうばいとって利用することはその利を冷静に判断するものだと言う意味である。試合になるとどうしても相手をたおしてやるとか意気込みがすごいが、しかしそれだけの大舞台であるから自分が成長することも考えてきちんと戦術自分がやるべきことを備えて挑むことが賢明である。何をすべきかどう戦うかという戦術は日ごろのシュミレーションがきちんとできていなければできないものだ。よく秒殺してやると言って逆にまけてしまう人間がいるが、非常にみっともない、こういうタイプはきちんと自分の戦術をシュミレーションできていない勢いだけで言っているのだと思う。戦いにはシュミレーションが大事である、そしてそのシュミレーションは多くの大舞台いわゆる試合を経験することにより確実なものになっていくものだと思う。最近オリンピックでも年をとった人間が有利で20代後半以上の人間が活躍できるのもこういったトレーニングが盛んで経験によって戦略や戦術を練れるからだろう。

だいぶ前にある大学関係者にイスラム教のウンマを研究しているのだが何かいい文献はないかと聞かれた。イスラムは日本語の文献がとぼしいので英語ならたくさんあると答えたら、翻訳するのに時間がかかるからいいといわれたのだが、ウンマはイスラム独特の宗教的な共同体であり、イスラム教の教えに基づいて形成されている共同体でその共同体は縦軸によって構成されるものでもなくお互いが平等と言う立場で助け合いによって形成されているそれ自体は非常に正しい共同体である。最近イスラム過激派によるテロが多発しているが、よくイスラム教徒がテレビのコメントで言うのは、あれはイスラム教の教えではないと言うことである。そういう共同体において信仰を固く守ってきたイスラム教徒は過激派などのテロ行為を見てあれは違うと思うだろうし、確かにそれはそうである。しかし問題なのは彼らの神学ではないかと思う。欧米の大学などでの宗教学科やキリスト教学科などは比較宗教学(どの学問所謂文系と言う学問においても基本であるが)があってたいていは他の宗教と比較したり哲学的な思想と対峙したりして考え方を広げていくのだが、おそらくイスラム教の神学を学ぶ機関はそれが大学などの最高学府であってもただ信仰をたかめるためのものだと理解している。もうだいぶ前たぶん私が学生の頃だと思うがローマ法王が他の宗教にも救いを認めたが、これは非常に過激な言葉で、キリスト教の根本をくつがえしかねない言葉であった。しかし学問のレベルがあがり、そして人間の生活がかわった今、地球は回っているというレベルで我々は生きているわけではないのでいろいろな宗教や思想などと対峙して世界を考えていく必要がある。このローマ法王のpantheism 的な発想はドラスティックではあるけれども平和と言う視点に立って考えれば正しいメッセージであるとも考えられる。ここからは少し主観的になるが何千年前の教義や教えに固執していると考え方が閉鎖的になりそして攻撃的になる。よく聞くのがある宗教の信者に間違えて豚肉のちょっとしたエキスをつかったとかで怒りをあらわにして抗議されて賠償金をとられたとかいう話であるが、彼らはこういう信仰的なことになると人がかわったように相手を攻撃するのだ。聖書で豚肉や甲殻類などを食べることを禁じているのは(book of leviticus参照)菌などによる病気をおそれたからで、そういう生活の知恵が書かれたのが聖書であって、科学が進んだ現在は何千年前とは違うのだからある程度科学的な視点をもって宗教を理解して行くことも必要ではないかと思っている。だいぶ前にある評論家よりも前に挙げたミシャルウエルベックの「服従」と言う小説はある意味フランスの未来を予言した警告本であっても過言ではない。

 

 

 

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