うちのクラブでは子供にあいさつは強制しないが、しかしそれはいかげんであるということではない。一応うちのクラブにはひとつの理念があるのだ。うちのクラブはコミュタリアニズム的集団である。コミュタリアニズムと言うのは共同体の価値観は個人の価値観よりも優先されると言うことで、全体を通して正しい行いとは何かということを考えて選び取っていくことである。例えば子供で時々大人が声をかけているのに素通りして行く子供がいる。ほんと何もなかったように話しかけたり挨拶しているのに何も気にせずスーッと行く子がいるが、こういう子供には私は注意することが多い。まあ事情を抱えている場合は別であるが、なぜ注意するかと言うと必ずこの子たちは大人の世話になるからで、マスひとつにしても大人があえて子供のために時間をつくって相手をしてくれる。協力なしにトレーニングができない、そういうコミュニケーションの必要性を教えるためだ。当たり前だが話しかけても相手を何とも思っていない、かかしのように無視するようではマスをしてあげてくださいなんて言えないからだ。だからそれが理解できる年齢にではあるが、なぜいけないのかと言うことを説明して注意するようにしている。さらに私はまわりから見てこりゃあかんやろと言うようなことには注意するのだが、その時決して「お前のために」と言うようなことは言わない。指導者でもことある度にこういう文句をつけて言う人間がいるが私には理解できない。確かに結果的にはその人間のためにはなるのだろうが、しかしなぜ注意するときでもその人間を中心において考えなくてはならないのか。実際に迷惑がかかったり不快な思いをしているのは相手であったりその共同体であるのだから、君のやっていることはまわりに迷惑がかかるとか不快になるんだよということをはっきりとなぜかということを伝えなくてはいけないのだろうが、しかし日本人は相手の気持ちに入りすぎるのだろうか、間違った部分にはそれはダメだと踏み込めずつい納得さそうとするのだ。私は小さいうちから共同体感覚と言うものをはっきりと意識させ自分は社会の一員なんだと言うことを芽生えさせていくことは大事だと思う。日本人はしかる時善悪を区別させるよりもむしろ相手を納得させる。本来ならば共同体あるいは社会につながるものとしてそういう善悪を判断して共同体に迷惑をかけないというのがコモンセンスであるのだが、そういうコモンセンスをしっかりと意識させることで人に迷惑をかけたら罰せられて当然だ、悪いことをしてはいけないという考え方にもつながると思う。私は道徳教育と言うのはこうだからこうしましょうとか心にうったえかけて相手を納得させるのではなくて、徹底して善悪について話し合い社会的ルールや規範を教えるものだと思っている。ユダヤの戒律の十戒と言うのはまさに何々するなという厳しい戒めであるが、こういう厳しい戒めをもって道徳教育を展開していくことも必要だと思っている。うちのクラブはコミュニタリアンである。私はどうしたらみんなが平等に楽しくトレーニングできるかということをたえず考えているが、性別や立場年齢など違う人たちを平等に正しく導いていくのはやはり共同体と言うものをしっかりとらえて何が正しいことで必要なことかと言うことを考えてみんなが楽しく平等にトレーニングできるようにしなくてはならないだろう。
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