昨日SKYPEのメッセージボードにMay I call?という伝言が、さっそくSureとメッセージをおくったら、ある友人からのコールがあった。
「何?」と聞くと、実は私は今落ち込んでいて、悩んでいるその気持ちを共有してほしいというような、いかにも英語的な相談の持ちかけ方であるが、親しい友人であるので、Carry on(続けて)と話を聞いてあげた。
で話はどういうことかというと、彼女は化学か生物かは忘れたが、その教員になりたくて試験をうけたのだが、しかし教員試験に落ちたらしく、そのことでひどく落ち込んでいてどうしたらいいのかわからない様子で、私にMr Hoyoungなら落ち込んだ時にどう立ち直るんだと聞いてきたのだ。
さらに彼女は「こんなにだめだったら、もう次の試験は受けることができない」と弱気になるので。こう言った。
Teacherって試験に通ることなのか、むしろその試験をパスしてからが問題で、そこから本当に君の試練が試されるんじゃないのか?今確かに試験に落ちて君のプライドが気づ付けられたようだが、そんなことにこだわっていてはだめだ、ドイツ語で職業をベルーフというが、これは招命(導き)と言う言葉にも訳されるが、もしその仕事に君が何かの指名を感じているならばギブアップすべきではない、なぜなら君がその仕事に何か導きのようなものを感じているならば、試験におちるということはテンポラリーなことで、そこであきらめたら君がその召命に答えていないからである。もしその召命があるならば、人間と言うのは必ずあるべきところに存在するものだ。
彼女はキャソリックであるので、すべてのことには神が介入すると言う立場であるが、そういう宗教的なことを考えての励ましであったのだが、しかし私が思うに最近の人というかアジア人と言っていいのかわからないが、こういうことにもろい人が多いような気がする。
今回の件も私にしてみれば、たかだが試験である。
のちに少し落ち着いた時にたかだか試験ぐらいでくよくよすんなよと言ったのだが、ペーパーなんかに縛られてたまるかと言うのが、私の意見である。
以前からアメリカではスポーツ選手に対して、スポーツをテンポラリーにとらえるのではなく、人生と言う長いスパンでとらえたときにスポーツはどの位置にあって、どれぐらいのスパン競技できるかと言うことを考え人生の設計プランを立てていくと言うようなことが、スポーツ科学の分野でとりいれられてきたそうだが、それはスポーツだけではなく、教育にも必要なことではないだろうか、たぶん試験に落ちればだめととらえるのは、テンポラリーにしか自分の人生を見ていないからであり、もし自分が生きていくと言うことを考え、長い目で見れば、そういう結果にはならないと思っている。
私が日本のクラブに懸念があるのは、スポーツをおおげさに考えるところである。
一生懸命やるのはいいが、少し異常さえ感じる。おのずと連帯責任を強いられ、みんながみんなやらなくてはならないと感じているのだろう、練習をしないとだめだと言うレッテルをはられ、監督から努力しろというようなことを言われ、時にはあきれるほどの武勇伝を語って煽るのがいるが、こんなところにいて窮屈ではないのか、それでも彼ら彼女らが順応することに驚いている。
ついでに言わせてもらうが、よく選手を煽る時にある成功者の例を出したり、自分の武勇伝を語るが、一体そんなことを言って何になるのか、どうなるかというのは選手ひとりびとりの問題であって、それぞれ個性と言うものが存在する。
であるのに俺はこうだとか彼はこうだと言って煽るのは、いわゆるにんじんをぶらさげて走らせているようなもので、私に言わせれば集団において「俺はこうだ」などと自分を強調すること自体間違いであって、こういうやり方が個性のない単細胞な人間を育てるのである。
しかしむこうではそういう日本のようにテンポラリーにスポーツをするという雰囲気はなかった、むしろ彼ら彼女らは長い目でその競技を見ていたので、エンジョイしていたと思う。
確かに一部の人間は一生懸命やっていたが、しかしそうは言っても全体がそういう雰囲気ではなく、おそらく全体がよほどハングリーでない限り、スポーツは自由なもので、楽しむためのものだというのが、彼ら彼女らの考えで、おそらくこれは向こうの人間がスポーツを人生の中での選択の一つとしてとらえているからで、あまり根拠のない発言で無責任な言葉かもしれないが、もしわれわれがもっとこのスポーツをエンジョイできる環境をつくるならば、おそらく多くの人間がこのことによって救われるであろう。
たいていのスポーツの競技は英語でPlayという言葉が使われるが、基本的にはスポーツは遊びにつながっていて、肩の力を抜いて楽しんで競技できるのがスポーツであり、そのことによっていやされていくのではないだろうか。
人生は長い、スポーツをすればかえってそのことが見えてくることもある。その長い人生の中で自分は今だけを生きるのではなく、その先に向かって生きているのだと言うことをおぼえることも大事である。
「何?」と聞くと、実は私は今落ち込んでいて、悩んでいるその気持ちを共有してほしいというような、いかにも英語的な相談の持ちかけ方であるが、親しい友人であるので、Carry on(続けて)と話を聞いてあげた。
で話はどういうことかというと、彼女は化学か生物かは忘れたが、その教員になりたくて試験をうけたのだが、しかし教員試験に落ちたらしく、そのことでひどく落ち込んでいてどうしたらいいのかわからない様子で、私にMr Hoyoungなら落ち込んだ時にどう立ち直るんだと聞いてきたのだ。
さらに彼女は「こんなにだめだったら、もう次の試験は受けることができない」と弱気になるので。こう言った。
Teacherって試験に通ることなのか、むしろその試験をパスしてからが問題で、そこから本当に君の試練が試されるんじゃないのか?今確かに試験に落ちて君のプライドが気づ付けられたようだが、そんなことにこだわっていてはだめだ、ドイツ語で職業をベルーフというが、これは招命(導き)と言う言葉にも訳されるが、もしその仕事に君が何かの指名を感じているならばギブアップすべきではない、なぜなら君がその仕事に何か導きのようなものを感じているならば、試験におちるということはテンポラリーなことで、そこであきらめたら君がその召命に答えていないからである。もしその召命があるならば、人間と言うのは必ずあるべきところに存在するものだ。
彼女はキャソリックであるので、すべてのことには神が介入すると言う立場であるが、そういう宗教的なことを考えての励ましであったのだが、しかし私が思うに最近の人というかアジア人と言っていいのかわからないが、こういうことにもろい人が多いような気がする。
今回の件も私にしてみれば、たかだが試験である。
のちに少し落ち着いた時にたかだか試験ぐらいでくよくよすんなよと言ったのだが、ペーパーなんかに縛られてたまるかと言うのが、私の意見である。
以前からアメリカではスポーツ選手に対して、スポーツをテンポラリーにとらえるのではなく、人生と言う長いスパンでとらえたときにスポーツはどの位置にあって、どれぐらいのスパン競技できるかと言うことを考え人生の設計プランを立てていくと言うようなことが、スポーツ科学の分野でとりいれられてきたそうだが、それはスポーツだけではなく、教育にも必要なことではないだろうか、たぶん試験に落ちればだめととらえるのは、テンポラリーにしか自分の人生を見ていないからであり、もし自分が生きていくと言うことを考え、長い目で見れば、そういう結果にはならないと思っている。
私が日本のクラブに懸念があるのは、スポーツをおおげさに考えるところである。
一生懸命やるのはいいが、少し異常さえ感じる。おのずと連帯責任を強いられ、みんながみんなやらなくてはならないと感じているのだろう、練習をしないとだめだと言うレッテルをはられ、監督から努力しろというようなことを言われ、時にはあきれるほどの武勇伝を語って煽るのがいるが、こんなところにいて窮屈ではないのか、それでも彼ら彼女らが順応することに驚いている。
ついでに言わせてもらうが、よく選手を煽る時にある成功者の例を出したり、自分の武勇伝を語るが、一体そんなことを言って何になるのか、どうなるかというのは選手ひとりびとりの問題であって、それぞれ個性と言うものが存在する。
であるのに俺はこうだとか彼はこうだと言って煽るのは、いわゆるにんじんをぶらさげて走らせているようなもので、私に言わせれば集団において「俺はこうだ」などと自分を強調すること自体間違いであって、こういうやり方が個性のない単細胞な人間を育てるのである。
しかしむこうではそういう日本のようにテンポラリーにスポーツをするという雰囲気はなかった、むしろ彼ら彼女らは長い目でその競技を見ていたので、エンジョイしていたと思う。
確かに一部の人間は一生懸命やっていたが、しかしそうは言っても全体がそういう雰囲気ではなく、おそらく全体がよほどハングリーでない限り、スポーツは自由なもので、楽しむためのものだというのが、彼ら彼女らの考えで、おそらくこれは向こうの人間がスポーツを人生の中での選択の一つとしてとらえているからで、あまり根拠のない発言で無責任な言葉かもしれないが、もしわれわれがもっとこのスポーツをエンジョイできる環境をつくるならば、おそらく多くの人間がこのことによって救われるであろう。
たいていのスポーツの競技は英語でPlayという言葉が使われるが、基本的にはスポーツは遊びにつながっていて、肩の力を抜いて楽しんで競技できるのがスポーツであり、そのことによっていやされていくのではないだろうか。
人生は長い、スポーツをすればかえってそのことが見えてくることもある。その長い人生の中で自分は今だけを生きるのではなく、その先に向かって生きているのだと言うことをおぼえることも大事である。