この前ニーチェを日記で取り上げて以来、オリーヴの会員の人たちが読みだした。
感想はほとんどがためになるとか、おもしろいということだが、ニーチェは格闘技を試みるものにとって、刺激的でもある。
ニーチェの文は全体を通して理解しなくても、最近出されたニーチェの言葉という本がベストセラーにもなっているように、部分的に光る言葉がちりばめられているので、それなりに読めないことはない。彼の人間の生を肯定し、ひたすら生きる姿はある意味励ましにもなる。
私自身も専門ではないが、若い時は彼の快刀乱麻を断つような文章に魅力を感じ、読んだものである。
しかし前にも言ったがニーチェはしんどい、なぜなら人間の弱さやみにくさをするどくとらえ、表現しているが、弱さを認めない、人と比較して肩肘をはる哲学で、その真理に至ってはニヒリズムであり、彼はそれを能動的なとらえかたをしているのだが、しかし結局彼の行きついた先は、永劫回帰においてすべておこったことをまる飲みして生きる究極の自己愛であるからである。
しかし彼ほど人生に悩み苦しんだものはいないであろう。彼の哲学はあたかも二律背反しているようである。
最後は発狂して死んだらしいのだが、おそらく「ツアラトツストラはかく語れり」は、彼の心の葛藤を表しているのだろう、ここには彼の自分の生き方にたいする悩みや葛藤、そして注意深く読むと感傷的ともいえる部分がその文章に垣間見られるのだが、われわれはこの部分を見逃さず、よく理解して読む必要があるだろう。
確かに彼の文章はロジック的に説得力があり、いつの間にか自分が高い位置に存在しているかのごとく思わせることもしばしばあろう。しかし彼自身も神と人間のはざまの中で、もがき苦しんだ人間で、私はこの傷ついた部分が彼の脱却できない何かであり、おそらくこれこそが彼の言う彼自身のルサンチマンで、人間と言うのは根本的には弱くもろいものだということを表しているのではないだろうか。
人間は究極的にはみにくく、弱い存在である。しかしその弱い存在だからこそ、かた意地をはらずにそれを認めることでいくらか楽にされていく、そして本当の自分になるということは、まず根本的な弱さを受け入れることからはじまる。
彼は植物が他を押しのけて大きくなろうとするように、人間も強くされていくことが自然の目的であり、強くなっていくことが人間本来のあり方であるようなことを著書「力への意志」で語っているが、しかし人間はその弱さを認めることができるから本当に人を思いやれることができるわけであって、その相手を思いやり究極的には、アウシュビッツで子供とともにガス室におくられたコルベ神父のように、他者とのかかわりの中に自分の存在意義を見出すならば、自己犠牲をはらってでも人を助ける強さになるのではないか。
人間と言うのは究極的には、支え合って生きなければならない存在である。
だからこそ人間は自分の弱さを知り、他人の弱さを顧みて助け合うことで、お互い人間は強くされて行くのである。
ニーチェの考え方は高尚ではあるが孤独である。しかし他人とのかかわりを無視して、自分の存在を肯定できるかというのが私の意見であるが、人間とは相互関係の中でどう生かされ、生きるのかということが重要な生き方であり、のちの自分の価値を決定するものだと思っている。
逆説的に言うならば人間は弱いからこそ存在価値があるのだ、それぞれの弱さを認め合い、そして助け合う中にこそ人間らしい生き方があるのだ。
最後にパスカルのことばでこういう有名な言葉がある。
「人間は考える葦である」これはまず人間と言う存在がいかにもろいかと言うこと、葦という植物は非常にもろく、風などが強くふいてしまえばそれらはもろくもくずれさるのである。
しかし人間は自分がもろくても唯一自分は何者であるか知りうることができる。そういう知性と言うものが人間には託されている。当然そこで、ニーチェのような超人思想もありうるが、しかし私は人間は弱くてもろい存在で、それを認めて生きるところに、真の生きる意味を見いだすことができると信じている。
感想はほとんどがためになるとか、おもしろいということだが、ニーチェは格闘技を試みるものにとって、刺激的でもある。
ニーチェの文は全体を通して理解しなくても、最近出されたニーチェの言葉という本がベストセラーにもなっているように、部分的に光る言葉がちりばめられているので、それなりに読めないことはない。彼の人間の生を肯定し、ひたすら生きる姿はある意味励ましにもなる。
私自身も専門ではないが、若い時は彼の快刀乱麻を断つような文章に魅力を感じ、読んだものである。
しかし前にも言ったがニーチェはしんどい、なぜなら人間の弱さやみにくさをするどくとらえ、表現しているが、弱さを認めない、人と比較して肩肘をはる哲学で、その真理に至ってはニヒリズムであり、彼はそれを能動的なとらえかたをしているのだが、しかし結局彼の行きついた先は、永劫回帰においてすべておこったことをまる飲みして生きる究極の自己愛であるからである。
しかし彼ほど人生に悩み苦しんだものはいないであろう。彼の哲学はあたかも二律背反しているようである。
最後は発狂して死んだらしいのだが、おそらく「ツアラトツストラはかく語れり」は、彼の心の葛藤を表しているのだろう、ここには彼の自分の生き方にたいする悩みや葛藤、そして注意深く読むと感傷的ともいえる部分がその文章に垣間見られるのだが、われわれはこの部分を見逃さず、よく理解して読む必要があるだろう。
確かに彼の文章はロジック的に説得力があり、いつの間にか自分が高い位置に存在しているかのごとく思わせることもしばしばあろう。しかし彼自身も神と人間のはざまの中で、もがき苦しんだ人間で、私はこの傷ついた部分が彼の脱却できない何かであり、おそらくこれこそが彼の言う彼自身のルサンチマンで、人間と言うのは根本的には弱くもろいものだということを表しているのではないだろうか。
人間は究極的にはみにくく、弱い存在である。しかしその弱い存在だからこそ、かた意地をはらずにそれを認めることでいくらか楽にされていく、そして本当の自分になるということは、まず根本的な弱さを受け入れることからはじまる。
彼は植物が他を押しのけて大きくなろうとするように、人間も強くされていくことが自然の目的であり、強くなっていくことが人間本来のあり方であるようなことを著書「力への意志」で語っているが、しかし人間はその弱さを認めることができるから本当に人を思いやれることができるわけであって、その相手を思いやり究極的には、アウシュビッツで子供とともにガス室におくられたコルベ神父のように、他者とのかかわりの中に自分の存在意義を見出すならば、自己犠牲をはらってでも人を助ける強さになるのではないか。
人間と言うのは究極的には、支え合って生きなければならない存在である。
だからこそ人間は自分の弱さを知り、他人の弱さを顧みて助け合うことで、お互い人間は強くされて行くのである。
ニーチェの考え方は高尚ではあるが孤独である。しかし他人とのかかわりを無視して、自分の存在を肯定できるかというのが私の意見であるが、人間とは相互関係の中でどう生かされ、生きるのかということが重要な生き方であり、のちの自分の価値を決定するものだと思っている。
逆説的に言うならば人間は弱いからこそ存在価値があるのだ、それぞれの弱さを認め合い、そして助け合う中にこそ人間らしい生き方があるのだ。
最後にパスカルのことばでこういう有名な言葉がある。
「人間は考える葦である」これはまず人間と言う存在がいかにもろいかと言うこと、葦という植物は非常にもろく、風などが強くふいてしまえばそれらはもろくもくずれさるのである。
しかし人間は自分がもろくても唯一自分は何者であるか知りうることができる。そういう知性と言うものが人間には託されている。当然そこで、ニーチェのような超人思想もありうるが、しかし私は人間は弱くてもろい存在で、それを認めて生きるところに、真の生きる意味を見いだすことができると信じている。