脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Structuralismから学ぶスポーツのコミュニティ

2022-07-06 | Weblog
構造主義と言うワードが哲学にあるのだが、簡単に言うと「人間は、自分の意志で考えて行動しているように見えて、周囲の環境や役割や立場によって、無意識にその考えや行動が決定づけられている」と言うことで、これはスタンフォードの監獄実験の例を挙げてみるとよく理解できることである。
うちでは時々いじめられているから強くなるためにボクシングを習わせるという親が来る。でもちょっと考えてほしいのは、それはその子が本当に願っていることなのかどうかということだ?本能的に人をなぐったり、傷つけたりできない優しい子供は存在する。そういう子供に無理やり格闘技を押し付けることはもはやその子にとって苦痛でしかない。そういう子に無理に格闘技をさせることは、セカンドいじめであることに気づいていないのだ。いじめは大人が関われば他にも解決法がある。格闘技を押し付ける人間は、よわいからいじめられるんだと、無意識のうちにそういう構図を認めているのかもしれない。いじめの構造については後日語りたいが、うちのクラブは暴力はほぼないと言える。暴力というのはマスボクシングで力のあるものが一方的に相手を痛めつけるのもそうだが、かかってこい的なマスボクシング、一発当たってカーッきてなぐりかかっていくのもそうだが、女性がいるのに裸でトレーニングしたり、特定の集団が優先的にトレーニングすると言うのも力の行使、ある意味暴力である。いじめにしろ暴力にしろそれをそうたらしめる構造が存在する。特に運動部の暴力は家父長制がその元凶となっていると私は見ているが、家父長制は勝利至上主義の原理において言うことを聞かせるには都合のいいシステムだ。こういう世界では強くなるためとか、お父さんである監督がお前のためだと言うことで大義となり、少々の暴力や暴言も容認されるが、それはそれを取り巻く人間も加担していることが多い村社会、そういうシステムが不平等や差別を生み出すと思っている。私はこういうシステムを容認しない。アホなヒエラルキーを徹底排除している。だからジムでは暴力的なことがおこらず、平等であると自負している。私がボクシングと言うスポーツに魅力を感じたのは、ボクシングはマイノリティが生き生きと何の差別や偏見もなく競技できる平等なスポーツだと感じたからだ。ボクシングと言うスポーツにおいて我々は完全に平等である。親玉や先輩後輩、上の人、偉い人は存在しないし、ジムに一番偉い奴をつくった地点で力のバランスがくずれて、アホなヒエラルキーができて不平等が生じる。競技者やその取り巻きたちが自分たちは楽しくやっている。ジムは平等だと言う一方で、リングをつかうのは取り巻き競技者優先、競技者のいない時間にいかなくてはまともに教えてもらえない、ミットすらもってもらえないと言う人たちが存在したら、それは間違いなく不公平だ。私が思うにスポーツのシステムに親玉をおくと、力の関係が生れ、それは意識しようがしまいがサルのようなヒエラルキーができる。私が目指しているのがジムのメンバーが何人かいて見学の人が入って来て、ぱっとまわりを見わたして、誰がこのジムの責任者かわからないと言うぐらい存在感のない人間になることである。うちのクラブの人間はほとんど私を名前で呼んでくれるが、正直よくボクシングで使う会長とか言う言葉、非常に下品で偉そうであると私は思っている。

参考文献
飲茶「正義の教室」

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