脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Dangerous sportsだって。

2011-02-18 | Weblog
ここ何年か前からボクシングによる事故が相次ぎ、イギリスではボクシング廃止論を提案する人たちがでてきている。
実際アマチュアにもその影響というか圧力がかかり、何年か前から突然ボクシングのルールが厳しくなったのだが、世界ではこのスポーツに対しての風当たりは決してよくない。
現在のところこの廃止論はおもにプロスポーツに対してであるが、しかし中にはアマチュアボクシングも廃止しろと言う声も少なくはない。
特に医師でもあるDr Mukesh Haikerwalは次のように言っている。
「The dangerous sports boxing should be purged from the common wealth and olympic game.」
これはおそらくフォーラムで彼がそのボクシングは、なぜ廃止しなくてはいけないかということを語った時に冒頭で述べた言葉であるが、英語は単純であるほどきつく聞こえるが、まさにそんなものは廃止されなくてはいけないんだということを彼は冒頭から述べているのである。
この文は単純なので見れば訳せると思うのであえて訳さなかったが、この文にはひとつ見慣れない単語がある。それは「purged」という言葉であるが、これは「除く」とか「追放する」という言葉である。
この言葉は英語の辞書で見て見るとまず第一発目に「to force your opponents or people who disagree with you to leave an organization or place, ofthen using violence」と書かれているが、単純に言って「should be purged」とはそういうあぶないスポーツは競技されるべきではなく、何が何でも追放されるべきだというような強いニュアンスを含んでいる。

でなぜボクシングが危険で追放されるべきなのかと言うのは、その競技性にある。
あまりごちゃごちゃかくとややこしくなるのでかいつまんで説明すると、以前アメリカのアマチュアボクシング協会で、ボクシングが、他のコンタクトスポーツにくらべてけがが少ないと言うようなことを報告していたレポートがあったが、しかしここで危険性について問題になっているのはどれだけけがの確立が高いかどうかという問題ではなく、そのボクシングの競技性が問題であって、すなわちボクシングだけがその競技において相手をたたきのめすという目的で競技されていて、その性質が危険であるとみなされているのである。

しかしこういうことを言うとみんなそれなりに覚悟してるなどと言う人間がいるが、しかしここであつかわれている問題はそういうDQNレヴェルで考える次元ではない。
以前ボクシングは殺し合いだなんていうことを言って、失笑をかっていたバカがいるが、もうまともに義務教育をうけていたら理解できると思うが、ここで問題になっているのは、そういう覚悟がどうだというの問題ではなく、人間としての倫理、そして医学的な立場からの生命倫理の問題で、そこに立って考えるならば、もはや反論の余地はないということがわかるであろう。逆にそういう覚悟が必要ならば、倫理や生命倫理の観点から絶対にやめさせなくてはならないというようになってくる。(この件に関してはRadfordと言う擁護派がその著書「Utiltariarism and the noble art」という中で書かれていたように、ミルの自由主義的同意と言う言葉を持ち出して、競技する権利をとなえるだろうが、この件に関しては少し次元が違うと考えられる)

昨日の日記にも書いたが、あるテレヴィ局のアンケートによるとボクシングは親がさせたくない第一位のスポーツだそうだ。
確かどこかの番組でも賢くない人が多いスポーツで第一位にあげられていたが、おそらくまだまだこのスポーツに対する偏見があって、その廃止論を唱えている人たちには、そういう危険であぶない、教育レヴェルが低くてごろつきのやるスポーツだと考えている人たちも少なくはない。

おそらく今必要なのはイメージアップだ、最近テレヴィにチャンピオンや元チャンピオンが出て来てイメージアップをはかっているようだが、しかしあれは引退してもテレヴィに使ってもらおういう魂胆はみえみえで、お笑いにいじられている姿を見ると何とも言えない気持ちになるのだが、こういう演出しかできないので、ボクサー引退後お笑いという構図が我々の中でできているような気がする。

これに対して少し前あるヨーロッパで活躍するサッカー選手が、イタリア語だったかドイツ語だったか一生懸命おぼえていたのだが、その一生懸命おぼえていることに関して「たいへんですね、かなりおぼえましたか」というようなことを言われ、コメントを求められたことがあった。
その時彼は「とにかくチームの人間と言葉でコミニケーションをとることは大事で、さらにこういう勉強は自分の将来のためにもなる」というコメントをしていたが、おそらくこういう姿勢はサッカー協会が指導のひとつとしてアドヴァイスしているのだろうと思うが、バラエティーでうけをねらってお笑いにいじられる人間とは対照的である。

サッカーなんかはどんどん他の国に留学させて、言葉の重要性を重んじている。さらに彼のようにそれを学ぶのは競技だけではなく、将来のためにという言葉がでてきているが、確か私の友人の知り合いもプロで活躍していた時に、言葉をポルトガル語か外国語をおぼえて将来に役立てるとプロ選手時代から言っていたそうだが、こういう考えが持てると言うのは、スポーツだけではなく、生きていく上でもその生き方や考え方に広がりを持つことができるのではないだろうか。

今求められているのはこういう広がりをもった人材の育成である。そういう人間を輩出していくのもボクシングのイメージアップにつながるのではないかと思っている。「俺も昔は悪だったとか、勉強なんてしなかった」などと競技者と低次元で共感し、集まるのは言語道断、こういう輩は愚連隊の親玉である。
指導している人もたくさん本を読み「勉強しなかったらボクシングをやる資格はない」とおおげさだがそれぐらいのことは言ってもいいのではないだろうか。
正直私はスポーツバカと言われる人間には広がりを感じないし、話をしていても面白くない、生きている世界が狭いのと情報量が少ないせいか最終的には自分のことしか言わないからである。

卑近であるが、もしボクサーもウイットに富んだ会話ができ、英語やその他の言葉でインタヴューに答えることができるならば、世の中の見方もかわるであろう。
たぶん医学的な見地や倫理学的な見地から見て、Dr mukeshの言うボクシング廃止というのは、ボクシングは危険だ、野蛮だと言うイメージで見られている以上は、なかなか論理的にはうちくずすことができないと思う。
昔からボクシングは落ちこぼれや不良のスポーツと言うよごれてきな役割を担ってきたが、しかしもうボクシングはおちこぼれや不良のスポーツではない、そういうことがかっこいいこととして自分の世界に入っている人間がいるが、しかしそういうからをうち破り、世の中のそういうイメージを払拭する必要があると思っている。
せめて彼らの言う「野蛮で危険」から「野蛮」という言葉をはずすだけでも、彼の言うように「こんなスポーツは追放しろ」という表現にはならないだろう。

今明日のジョーが実写化されているが、あれはあまり喜ばしいことではない、映像や漫画の世界と現実は違う。逆に言えばああいうイメージでボクシングは見られているわけで、力石の死はまさにタブーである。それを男のロマンだと言っている奴は、この現実が見えてういないかもしれない。

最近は少しバッシングもなくなってきたが、しかしこの廃止論を唱えている人は多い。論文は英語などでも読めるので、勉強したい人や読める人は見ることをお勧めする。

ちなみに私のコーチは博士号をもっていたが、そのコーチは常日頃から我々にジェントルマンであれということを言っていた。












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする