先週書いたボクシング廃止論であるが、いろいろとメールをいただいた。
中でも自由主義的同意に関してはかなり専門的なアドヴァイスをいただき、本当に勉強になったと思っているが、だいたいのボクシング廃止に反してなされる意見は、いささか感情論的で、それをうちくずすには不十分だと言う意見である。
たぶん多くの人たちが本人たちが覚悟を決めているからいいではないかという意見を持っていると思うし、こういう意見はよく聞く、しかしこういう意見が出てくること自体、物事を客観的にとらえていない証拠であって、覚悟を決めているんだということを問題にするならば、ボクシングは覚悟を決めなくてはできないスポーツなのかということで、さらに危険視されるであろう。
もうこういう議論は精神論や根性論の範囲でとらえれれるものではない。その議論がなされている背景にはバイオエシックスや倫理学、そして社会学の問題があるので、そういうことを無視して俺は覚悟はできているんだと意気込んでも、感情論と切り捨てられてしまうであろう。
ルールに関してもたいへん不思議に思っていることがあるのだが、外国とのルールの違いである。経験や見た目、聞いたことだけでこういうことも何であるが、日本はアメリカなどに比べてかなり厳しいように見える。
しかしそういう厳しいルールがあるが、はたして議論したり、自分たちの主張と言うものをもって、そうしているかというと疑問である。ただ国際的に厳しくなって、風当たりが強いからおとなしくしていなければならないというような感じで、とりあえずルールをがんじがらめにしとけなんていう感じがしてならないのだが、お上がうるさいから過敏になると言うのは、江戸時代のメンタリティそのもので、正直もっと自分たちの意見と言うか主張を持つべきではないだろうかと思うのだが、これからは感情論ではなく、その彼ら彼女らと対等の立場に立てるためにも、もっと言葉を勉強して、そういう主義主張を磨くことは大事なことであろう。
しかし西洋のスポーツを競技しているのに、メンタリティーは未だに江戸時代だ、ここには独特のヒエラルキーがあってついていけない。よく会場で弟子みたいな人間を集めて、偉そうにしているのがその典型的な例だが、ああいうみっともないことは避けるべきである。
彼らは尊敬されたいとか、お山の大将でいたいという気持ちが強いのだろうか。しかし見ていて見苦しいし、威圧感がある。
私などはああいうグループが跋扈する限りはスポーツの一般化をはかれないと思っているのだが、さらに私が聞いていて頭に来ると言うか、ここまでくればパワハラの領域だと思っているのだが、「おいお前」とか「おいそこ」というように偉そうに言う人間だ。しかもそういう奴に限ってたわいもないことをリングサイドからでかい声で注意するのだが、何様だと思っているのだろうか、こういうことは自分たちのテリトリーのボクシング会場だから通用するのであって、おいそことかあまり知らない人間をたわいもないことで、自分の立場を利用して、でかい声で人前で注意するのは、パワハラであって、社会通念上ゆるされるべきことではない。
特に我々のようなあまり知られていない集団はいいやすいのか、それとも位置関係を示したいのか、言われることが多い。
さらに「審判の印象をわるくする」と当たり前のように言われているが、そもそも審判の印象をわるくするということはどういうことなのか?ここにもよくわからない権威主義が見え隠れしているような気がしてならないのである。
昔アメリカの試合で、試合中に自分の試合に納得がいかなくてコーナーマットをけったことがある。
たぶんこんなことを書いたらひかれるかもしれないが、しかしその時は気が立っていて思わずコーナーにかえってくるなり「クソー」とコーナーをけったのであるが、今こんなこと今すればとんでもないことである。
実際試合が終わって控室のようなところで、審判が諭すように、あれはよくないと言ってくれたのでよくおぼえているのだが、しかし彼は人前で見せしめのようにおこることなく、今のはよくなかったんじゃないかと、あえて控室のようなところにまで来てくれたのだが、そうだからと言って私の印象がわるくなるということはなく、また乱暴な奴とレッテルをはられることもなかったのだが、実際その試合も判定勝ちであったが、 そういうことがあっても色眼鏡で私のことを見ないで公平にあつかってくれたことには感謝している。
以前うちの選手もこれと同じようなことがあって、その審判には感謝している。
それはある試合でその選手が故意ではないが、何か相手を挑発したというようなことであった。
試合の進行上は問題なかったと思うのだが、しかし少し出過ぎたことらしく、スポーツマンとしてはあまり好ましいことではない。しかしその審判と言うかジャッジの偉かったのは、その場で「おいお前と」注意せずに、後で直接私のところに来て、こうだから注意してくれと言うことであったのだが、これは非常に感謝すべきはからいであった。
普通だったら自分の試合でそういう行為をされると思わずその場で「おいお前」いいたくなるものだが、その人は彼のことを気遣って、自分のメンツよりも彼のメンツを大事にしてくれたのだが、そのはからいには本当に競技者を大切にし、尊敬してくれていると言う気持ちが表れている。
偉そうにおいお前とか人におこるやつは往々にして、人前で聞こえるように、自分の権威を誇示するかのごとくおこるが、しかしそういうことはアスリートのことを考えればはたしていいことだろうか。
人前でこわい顔で注意されて、気をつけようとするがしかしかえって委縮するだけであるし、そういう関係の中にはヒエラルキーが存在しているのである。
私が思うに大事なのは監督やコーチそして学校などのメンツではない、その人がいかに競技を楽しめるかで、いちいち監督の顔や審判の印象をよくしようということを考えていて、本当にその競技を楽しくできるか疑問であるのだ。
次回は面白い話し。
中でも自由主義的同意に関してはかなり専門的なアドヴァイスをいただき、本当に勉強になったと思っているが、だいたいのボクシング廃止に反してなされる意見は、いささか感情論的で、それをうちくずすには不十分だと言う意見である。
たぶん多くの人たちが本人たちが覚悟を決めているからいいではないかという意見を持っていると思うし、こういう意見はよく聞く、しかしこういう意見が出てくること自体、物事を客観的にとらえていない証拠であって、覚悟を決めているんだということを問題にするならば、ボクシングは覚悟を決めなくてはできないスポーツなのかということで、さらに危険視されるであろう。
もうこういう議論は精神論や根性論の範囲でとらえれれるものではない。その議論がなされている背景にはバイオエシックスや倫理学、そして社会学の問題があるので、そういうことを無視して俺は覚悟はできているんだと意気込んでも、感情論と切り捨てられてしまうであろう。
ルールに関してもたいへん不思議に思っていることがあるのだが、外国とのルールの違いである。経験や見た目、聞いたことだけでこういうことも何であるが、日本はアメリカなどに比べてかなり厳しいように見える。
しかしそういう厳しいルールがあるが、はたして議論したり、自分たちの主張と言うものをもって、そうしているかというと疑問である。ただ国際的に厳しくなって、風当たりが強いからおとなしくしていなければならないというような感じで、とりあえずルールをがんじがらめにしとけなんていう感じがしてならないのだが、お上がうるさいから過敏になると言うのは、江戸時代のメンタリティそのもので、正直もっと自分たちの意見と言うか主張を持つべきではないだろうかと思うのだが、これからは感情論ではなく、その彼ら彼女らと対等の立場に立てるためにも、もっと言葉を勉強して、そういう主義主張を磨くことは大事なことであろう。
しかし西洋のスポーツを競技しているのに、メンタリティーは未だに江戸時代だ、ここには独特のヒエラルキーがあってついていけない。よく会場で弟子みたいな人間を集めて、偉そうにしているのがその典型的な例だが、ああいうみっともないことは避けるべきである。
彼らは尊敬されたいとか、お山の大将でいたいという気持ちが強いのだろうか。しかし見ていて見苦しいし、威圧感がある。
私などはああいうグループが跋扈する限りはスポーツの一般化をはかれないと思っているのだが、さらに私が聞いていて頭に来ると言うか、ここまでくればパワハラの領域だと思っているのだが、「おいお前」とか「おいそこ」というように偉そうに言う人間だ。しかもそういう奴に限ってたわいもないことをリングサイドからでかい声で注意するのだが、何様だと思っているのだろうか、こういうことは自分たちのテリトリーのボクシング会場だから通用するのであって、おいそことかあまり知らない人間をたわいもないことで、自分の立場を利用して、でかい声で人前で注意するのは、パワハラであって、社会通念上ゆるされるべきことではない。
特に我々のようなあまり知られていない集団はいいやすいのか、それとも位置関係を示したいのか、言われることが多い。
さらに「審判の印象をわるくする」と当たり前のように言われているが、そもそも審判の印象をわるくするということはどういうことなのか?ここにもよくわからない権威主義が見え隠れしているような気がしてならないのである。
昔アメリカの試合で、試合中に自分の試合に納得がいかなくてコーナーマットをけったことがある。
たぶんこんなことを書いたらひかれるかもしれないが、しかしその時は気が立っていて思わずコーナーにかえってくるなり「クソー」とコーナーをけったのであるが、今こんなこと今すればとんでもないことである。
実際試合が終わって控室のようなところで、審判が諭すように、あれはよくないと言ってくれたのでよくおぼえているのだが、しかし彼は人前で見せしめのようにおこることなく、今のはよくなかったんじゃないかと、あえて控室のようなところにまで来てくれたのだが、そうだからと言って私の印象がわるくなるということはなく、また乱暴な奴とレッテルをはられることもなかったのだが、実際その試合も判定勝ちであったが、 そういうことがあっても色眼鏡で私のことを見ないで公平にあつかってくれたことには感謝している。
以前うちの選手もこれと同じようなことがあって、その審判には感謝している。
それはある試合でその選手が故意ではないが、何か相手を挑発したというようなことであった。
試合の進行上は問題なかったと思うのだが、しかし少し出過ぎたことらしく、スポーツマンとしてはあまり好ましいことではない。しかしその審判と言うかジャッジの偉かったのは、その場で「おいお前と」注意せずに、後で直接私のところに来て、こうだから注意してくれと言うことであったのだが、これは非常に感謝すべきはからいであった。
普通だったら自分の試合でそういう行為をされると思わずその場で「おいお前」いいたくなるものだが、その人は彼のことを気遣って、自分のメンツよりも彼のメンツを大事にしてくれたのだが、そのはからいには本当に競技者を大切にし、尊敬してくれていると言う気持ちが表れている。
偉そうにおいお前とか人におこるやつは往々にして、人前で聞こえるように、自分の権威を誇示するかのごとくおこるが、しかしそういうことはアスリートのことを考えればはたしていいことだろうか。
人前でこわい顔で注意されて、気をつけようとするがしかしかえって委縮するだけであるし、そういう関係の中にはヒエラルキーが存在しているのである。
私が思うに大事なのは監督やコーチそして学校などのメンツではない、その人がいかに競技を楽しめるかで、いちいち監督の顔や審判の印象をよくしようということを考えていて、本当にその競技を楽しくできるか疑問であるのだ。
次回は面白い話し。