そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

「不合理ゆえに吾信ず」とは

2007-01-02 | 埴谷雄高

埴谷雄高を40年ぶりに取り組んでみた。自分なりに、いまだに課題として胸のどこかにつ02_6 かえていたものである。青春時代の熱いものを今一度、その姿を確認したいと取り組んで04 みたのである。

読み返してみると、かなり困難な作業であった。何処かに忘れてたものがいまだに見つからないでいる。

それにしても埴谷の著書の一つに「不合理ゆえに吾信ず」というのがあるが、現代はまったく異なる方向に進んでいる。現代はいわば、なんと合理的、効率を求める、排除の論理が先行するばかりである。すべてが効率を機軸に回転している。

人の行為そのものが、本来不合理である。直線や円は存在しないが、直線のなんと合理的で論理的なことであるか。埴谷のように、非現実の実在を、営利を求められて効率化した法人の国立大学が受け入れることはない。非効率や、何の意味もないような基礎物理学などが疎んじられる世の中は、根無し草のようである。

埴谷雄高が取り組んだ未完の生涯小説「死霊」は、彼に幾年の生命を与えても完成することはなかったであろう。彼の主題となっている「自動律の不快」とは、自分が自分であることの排除である。実体を疑う存在を虚体とする矛盾こそ、思考の原点である。

父に陽明学者を持つ、武士の沽券を失わない毅然たる存在が、埴谷雄高である。もう少し時間がかかる。いや、生涯未解決の矛盾の中から脱し切れにかもしれない。彼の真髄にいずれの日か迫りたいと思っている新年である。

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