半透明記録

もやもや日記

ザミャーチン「島の人々」

2009年12月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

ザミャーチン 水野忠夫訳
(『現代ソヴェト文学18人集1』新潮社 所収)




《あらすじ》
ジェスモンドが生んだ誇り、『強制救済の遺訓』の著者であるジュリー司祭は秩序を重んじ、毎日の生活が規則正しく行われることを妻であるジュリー夫人にも説いていた。しかしある日、ジュリー司祭の家の前で交通事故があり、車に轢かれた大男が司祭の家に運び込まれ、司祭と夫人の規則正しい生活が狂い始める。狂い出したのは夫妻の生活だけではなく、看病されている男ケンブル自身にもその影響は及ぶ。故ケンブル卿の子息で身体も頭もどっしりとしたケンブルは秩序と規則から外れたことを考えることさえ出来なかったはずが、事故をきっかけに知り合った享楽的で騒がしい弁護士オー・ケリー、その事務所で出会った髪を男の子のように短く刈上げた奔放な美女ジジと付き合ううちに、彼はハンドルが壊れた自動車のように狂乱し疾走し始める。


《この一文》
“教養のある、りっぱな人々と名づけられる名誉を得るためには、家も、樹々も、街路も、空も、その他この世にあるありとあらゆるものが、そのような条件を満足させねばならぬことは当然である。それゆえ、涼しい灰色の日々が過ぎ去り、突如として夏が訪れ、太陽がまばゆいばかりに輝きはじめたとき、ケンブル卿夫人は衝撃を受けたような感じに襲われたのである。 ”





いつか読もうと思ってはいたのですが、そのいつかが今朝唐突に訪れました。ザミャーチンはこれが3作目。『われら』、「洞窟」、そしてこの「島の人々」。

この人の作品はいやに洒落ていて、どうしてだかとても未来っぽい。『われら』はSF小説だったから未来的なのは分かるとしても、この「島の人々」は現代イギリスを舞台にしているようなのに、この未来っぽさはどこからくるのだろう。焦燥を煽られるような疾走感があります。そして、この人はいつもどうしてこんなに、何に対してこんなふうに怒り、絶望しているのだろう。

そんなに長い物語ではないので簡単に読めると思っていましたが、第3章あたりに入ると、これはどうやら私ごときの手に負える物語ではないらしいと感じました。はっとさせられるような文句が次から次へと繰り出されるので、私はいちいち立ち止まらずにはいられません。そうやってザクザクと胸を刺されながら、ゆっくりでも途中で止めることはできず、最後まで一息に読みました。暗い。重い。悲しい。だがやはり面白い。


私は、この物語はきっと、秩序を頑に守り通し、全ての人々にもそれを押し付ける者たちと、その硬直した秩序の枠から飛び出して自由と快楽とを求める者たちとの戦いの物語になると期待していました。けれども、どうもそうではなかったらしい。そう単純な、気楽な話ではなかった。巨大な秩序の前に、人々はその無力さをどうしようもなくあらわしてしまう。最後にはうなだれてしまう。一時はそこから逃れ出るために自分でもあると知らなかった力を振り絞ってみるけれども、結局は自滅してしまう。ああ、『われら』もそんな物語だったな。どうしてそのことを忘れていたのだろうか。なんて迂闊なんだ、私は。

ケンブルはどうして自滅してしまうのか。彼は「道路を渡ろうとする歩行者の前では停車するべきだった自動車」によってはね飛ばされ、秩序の圏外に放り出されます。そして奔放で魅了的な女 ジジを愛し、そのためにそれまで無自覚にかつ強固に属していた秩序立った世界から自らを解放しようとします。それにも関わらず、ジジとの新しい生活を始めようとするケンブルの頭には、依然として「~は~でなくてはならない」という考えがしっかりと根付いていて、それがジジを退屈させ、そのために引き起こされる彼女の何気ない裏切りに憤り、自ら破滅への道を突き進んでしまうのでした。これはいったいどういうことだろう。いや、分かる。少し分かってしまうところに恐ろしさがあるんだ。

ケンブルは自由と快楽の象徴であるジジを愛し求めながらも、彼女という存在をそのまま理解し受け入れることはし切れずに、捨て去ろうとした古い型を捨て切れずに自滅した。一方、ジジという女の本質を、彼女の気まぐれを、その美を理解し愛したもう一人の男オー・ケリーもまたやはり破滅する。そしてジジはいつも誰と居ても冷たい陶器で出来た犬だけを愛しており、最後にはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

どうだったら良かったのだろう。どうだったら良かったんだろう。秩序と規則の正しく美しい人々、特徴もなく皆同じ顔、同じ服、同じ家に住む彼らの間に、しかしなぜジジやオー・ケリー、ケンブルのような異物が現れてきてしまうのか。勝利するのは誰だ。もちろん秩序と規則の面々だ。勝利も正義も彼らのものだ。そうだ。そうだ! その通りだ! それなのに、なぜ……。それがそんなに正しいというなら、それがそんなにも輝かしいというのなら、私はなぜこんなにも悲しく、嫌な気持ちのために歯を食いしばり、手を冷たくしてわなわなと震えなくてはならないのだろう。なぜ許容できないのか、どこが、どこで、誰が間違っているのか、いや、誰か間違っているのか。それが、そんなことさえもが分からなくて、私は呆然としてしまう。


なぜ、どうして、いったいどうしたら。まだ書き足らないことがたくさんあるようなのに、まとまらぬ考えがただ私の頭を渦巻いています。やっぱりザミャーチンは凄いと思う。走り抜けるような描写、切れるほどに澄んだ表現、深い意味と象徴を人物や物事へ封入し、それらを目に見えぬ細い糸で複雑に美しく留め合わせているような感じがします。読めばいつも悲しい。とても遣りきれない。けれども、燃え滾るような何かがあって、私を強く引っぱたくような何かがあって、私はきっとまたこれを読み返すだろうと思うのでした。『われら』を何度か読まされたのと同じように。

しかし、このタイミングでこの物語を読ませるとは、ザミャーチンさんにはあらためて深く感謝したい気持ちです。私はちょうどこういうことについておぼろげに考えていたところだったのです。面白い。面白いなあ。

燃えるような喜びが、私へ戻ってくる。







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