半透明記録

もやもや日記

街のあかり

2009年12月25日 | もやもや日記

ガラスのツリーを囲んで会議。
クリスマスとは
…いったい何だったのか。




どうやらクリスマスらしいですね。私は昨日の朝方にはそのことを一瞬だけ思い出しましたが、その後はさっぱりと忘れて、夜遅くになってK氏が「ケーキが売り切れていた」と言い出すまで思い出しませんでした。そうか、クリスマス・イブだったんだ。私は里芋を一生懸命に煮ていたりして(←夕飯)、忘れていたよ。私はクリスマスというイベント自体はわりとどうでもよいのですが、そう言われるとケーキはちょっと食べたかった。幼かった頃、両親はいつもホールのケーキを用意してくれて、私と姉はそれを食べきれず、翌日にもまだ残っていることを喜んでまた食べたものでした。



さて、冬、空気が冷たくなってくると、街のあかりはいっそうきらきらと輝いてみえるものです。この季節、特にクリスマスから年末年始という時期に、私が思い浮かべるのはこういう場面です。



“――すると突然、郷愁が彼の胸をはげしい苦痛でゆり動かした。そのために彼は思わず知らず暗闇のなかへあとじさりして、自分の顔のひきつるのをだれにも見られまいとした。
 (中略)……きみのようだったらなあ! もう一度初めからやって、きみのように育ち、実直で、快活単純で、普通で、規則正しく、神とも世間とも仲良くして、無邪気で幸福な人々から愛され、きみ、インゲボルグ・ホルムを妻にし、それから、きみ、ハンス・ハンゼンのような息子を持ち、――認識と創造の苦悩との呪いから解放されて、幸福な平凡さのなかで生き、愛し、ほめたたえるようになれたらなあ!…… もう一度初めからやる? しかし、そんなことをしたところでどうにもなるまい。また同じことになるだろう。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで、それは彼らにとっては正しい道というものが全然ないからなのだ。 ”
 ――「トーニオ・クレーガー」トーマス・マン
  (『世界文学全集32』河出書房)


“僕はある月の好い晩、詩人のトックと肘を組んだまま、超人倶楽部から帰って来ました。トックはいつになく沈みこんで一ことも口を利かずにいました。そのうちに僕らは火かげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。そのまた窓の向うには夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子供の河童といっしょに晩餐のテエブルに向っているのです。するとトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけました。
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の容子を見ると、やはり羨しさを感じるんだよ」
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」
 けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向うを、――平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守っていました。それからしばらくしてこう答えました。
「あすこにある卵焼きは何と言っても、恋愛などよりも衛生的だからね」 ”
 ――「河童」芥川龍之介
  (『日本文学全集28』集英社)





…………。大きな円いケーキを分け合ったあの日々から、思えば遠くへ来たものだ。いえ、別に私は芸術家でも自由恋愛家でもなければ、なにか特別に重大な家庭的な問題を抱えている訳でもありませんし、一般的に見ればごく普通に結構恵まれているとさえ思うのですが、それにもかかわらず、私という人間は不意に自らすすんで暗がりへあとじさりしようとするところがあることは否定できません。どうしてなんだろう。もしかすると、「どうしてなんだろう」といちいち考えてしまうところに、原因があるのかもしれません。

上の2作品は、いずれも数年前に読んでからというもの、奥底深くに突き刺さり、ことあるごとに冷たいまなざしで私を見つめ返してくるのでした。特に「河童」は、ある年の年明けと同時に、「歯車」、「或る阿呆の一生」とともに3連続で読んだために、初春のおめでたさを一瞬で吹き飛ばしてしまうほどの衝撃を与えられたものです。あの時はそれで、泣きながら列車に乗る羽目になった気がする。なので、冬になって田舎へ帰省しなければならないとなると思い出してしまう。
みなさんもどうですか? 恋人や家族、楽しい友人たちと過ごす素敵な冬休みに、こういった作品を読んでみるというのは。幸福で暖かく正しい人たちの輪から一歩後退して、暗がりのなかへ身を置いてみるというのは。


暗がりから見るあかりは、いつだって明るく美しく、暖かそうである。
しかし、常にそのあかりのなかに居るのが当然であるという人々は、暗がりから見たときのその美しさを知っているのだろうか。それとも、そもそも彼らはそんなことを知る必要さえないのだろうか。なにもかも当たり前過ぎて。どうなのだろう。

だが、夜でなければ星が見えない。月明りでさえ明る過ぎるという夜があるではないか。まして昼の強過ぎる光のなかでは、遠くから放たれる星々の美しい光を確認することができないではないか。昼の世界が美しいように、夜の世界もまた異なって美しいと、私は思うのだがなあ。自分自身が光ってはならぬ。美しいものの光を讃えるために、自らは暗く静かに沈潜しなければならない。ただそれだけの、そんな生き方があってもよいはずではないかなあ。
と、とりとめもなく考える昼下がり。どうして私はこうなんだ。ああ、そうか、あれだ。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで、それは彼らにとっては正しい道というものが全然ないからなのだ。



街のあかりは私にいくらかの哀しみと痛いような羨望をもたらしますが、同じように街のあかりを見ても、このように感じることも可能なのです。

“日暮れに雨が上がった後は、部屋の中にいると、もやもやする程暖かくなったので、外に出て見たら、町にはずらずらと灯が列んでいる。明かるくて、綺麗で、どこまでも続き、遠いのは靄の中で光っている。ぶらぶら歩いて振り返り、又横町をのぞいて見ても、どこにも、きらきらと電燈が点っている。大した事だと考えて、少しく荘厳の気に打たれた。どの家でも、みんな電燈料を二ヶ月以上は溜めていない証拠なのである。”
 ――「風燭記」内田百
  (『大貧帳』ちくま文庫)



アハハハ! そ、荘厳の気っ! 二ヶ月…!! ぶはーっ!
だめだ! 何度読んでも笑える! こういうところが好きだ。いや、これはこれで結構悲しいというか、身に沁みるところはあるのですけれども、それでもこんなふうになりたいと思う。こんなふうに世の中を見つめられたらいいと思う。


街のあかり、というひとつのことを取ってみても、そこには様々な見方があるわけです。私が思っているよりも、もっと多くのそれぞれに異なった明るさや暗さを、世の中の人々はそれぞれに感じているのかもしれないですね。






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