半透明記録

もやもや日記

『25時のバカンス 市川春子作品集II』

2011年11月23日 | 読書日記ー漫画

市川春子(講談社アフタヌーンKC)



《内容》
『25時のバカンス』(前後編):深海生物圏研究室に勤務する西乙女は、久しぶりに弟の甲太郎と再会する。深夜の海辺にて彼女が弟に見せたのは、貝に浸食された自分の姿だった。

『パンドラにて』:土星の衛星に立地する「パンドラ女学院」。物言わぬ奇妙な新入生・ロロに気に入られたナナは、幼き日の記憶を思い起こす。

『月の葬式』:勉強も親の期待もわかってしまう天才高校生。試験の日に乗る電車を「間違えた」彼は、雪深い北の果てで、ひとりの「王子」と出会う。


《この一文》

“ 孤独は生まれてから塵に帰るまでの苦い贅沢品です ”
  ――『25時のバカンス』より







『虫と歌』に続く市川春子さんの作品集2冊目。相変わらずの静けさ、不可思議さ、繊細さ、美しさ。ため息が出ますね。この作品集には3つの物語が収められていますが、いずれも素晴らしいものでした。この人の世界は静けさと不思議さに満ちていて美しい。


3つのうちでも「25時のバカンス」が、私には一番面白かったです。これは『虫と歌』に収録されていた「日下兄妹」と同系統のお話ということができましょうか。きょうだい間の愛情、一方が自らの身体を分解したり再構築することで、もう一方の傷ついた肉体の一部を修復するものとして一体化するというような。市川さんの作品には「きょうだい」という関係性がしばしば描かれるようですが、なかでも「日下兄妹」「25時のバカンス」は私がものすごく心を動かされるタイプのお話です。



もしも、あの人の身体の一部になってしまうことができたら、それはどんなに素敵なことだろう。もう寂しくないだろうね。しかもそれが、あの人から痛みや苦しみを取り除くものであったら、それはどんなにか。


生きるということは、ひたすらに失っていくことだと私は考えてきましたが、失うというのは本当はどういうことなんだろう。この不可思議な世界で、私は記憶や感情、肉体も少しずつ失っていかなければならないけれども、そうやって失い続けたとしてもすっかり失ってしまうなんてことはできるのかな。失う、失われるというのは、いったいどういうことだろう。もう私のものではなくなるということ? しかし、私から失われていくものどもは、そもそも私のものだったことなんてあったのだろうか。私のものだと思っていたものが実はそうでなかった場合、それを失ったと思うのは間違いかもしれない。私はそれを失ったのではない。ただ、それは私を通り過ぎていったというだけだ。

失うにしろ失われるにしろ、どのみち遠ざかるこの寂しさについてはどうしようもない。寂しい。寂しいから、もしもあの人の欠けを埋めるものとしてあの人の内部に私に由来する何かを植え付けることができればいいのに。そうしたら、今より少しは安心できるのに。けれどもきっとどうしてもそうはならないので、私はいつまでも寂しいだろう。寂しさにもやはり何か意味があるのだろうか。寂しさを贅沢品だと思える日が、いつかは来るだろうか。そうだといい。寂しさに違う意味を与えたい、いつかは。


「25時のバカンス」という物語は、私の喪失への恐怖を少しだけ和らげてくれたかもしれません。乙女さんのように美しい貝殻の身体が欲しいなあ。













最新の画像もっと見る

コメントを投稿