半透明記録

もやもや日記

『虫と歌―市川春子作品集』

2010年05月28日 | 読書日記ー漫画

市川春子(講談社 アフタヌーンKC)



《収録作品》
*星の恋人
*ヴァイオライト
*日下兄妹
*虫と歌


《この一言》
“ ひとのくずと
 ほしのちりの兄妹だ
  はなれるな 行くぞ ”
  ――「日下兄妹」より





びっくりしました。

以前友人が面白いと言っていたのを聞いてからずっと読みたかったのを、ようやく買って読んだのは先週の土曜日のことでしたが、夜になってからこの本を読み始めた私は、目の前を通り過ぎて行ったはずの多くの画面が、いつまでもチラチラと閉じた眼に浮かんでくるので、明け方まで眠ることができませんでした。この世界に触れた感想を一言で済ますことはきっとできないな、ということを思いながら、うんうんと唸っておりました。
一週間経ちましたが、この作品は透明で鉱物のようにしっかりとしているのに、それでいて薄く柔らかいようにしか見えないという、私はやはりまだどう捉えていいのか分かりません。私の言葉は足りませんが、この作品には溢れるものがあります。なにか圧倒的なものがあることだけは、よく分かります。これは凄い。


フリーハンドで、サッと一本の、細い柔らかい線で描かれた漫画です。ところどころのコマがとても装飾的ですが、その装飾はきわめてシンプルで美しい。この本自体の装丁も、作者の市川氏がご自身でなさっているとのことで、綺麗な緑色のカバーの下の本体には、真っ黒な地に白い細い線で虫と花が描かれてありました。また、緑色の表紙カバーには、よく見ると本体と同じ虫と花の模様の、光沢のある透明なプリントがしてあり浮き上がっています。
とにかく、ひたすらに美しい絵が満載の美しい本です。私はここでまず驚きました。

そして、ストーリー。
正直に言うと、私には4つある物語のうち、3つまではどうもハッキリとは理解できませんでした。幼い頃にうっかり切断してしまったさつきの左手の薬指から生まれた女の子つつじをめぐる「星の恋人」、墜落した飛行機から救い出された少年と電気(?)との交流(??)「ヴァイオライト」、昆虫の設計とデザインという秘密の仕事に従事する兄とそれを手伝う弟妹のお話「虫と歌」、の3作品はいずれも悲しみをたたえた美しい物語でしたが、この感じを私はうまく説明できそうにありません。不思議な話、というだけでは足りない気がします。不思議で幻想的、というのでもまだ足りないような。とりあえず、「星の恋人」では、つつじが自分で腕を剪定してしまう場面には死ぬほど驚きました。あと、私は昆虫というものが苦手なので、実は「虫と歌」は表題作なのに、意識の中心をちょびっとずらしながら読んだので、なおさら分からなかったのかもしれません。「ヴァイオライト」はとても悲しいけど綺麗なお話だったなぁ。でも、どういうことなのかよく分からなかった。
しかし、どういうことなのかよく分からなくても、しっかりとその世界観を伝える力が確かにあります。この力強さにはとても驚かされました。


さて、最後に「日下兄妹」。
このお話は私には一番分かりやすかったのかもしれません。不思議な始まり方は他の作品と一緒でしたが、いつの間にかスッと深くまで入ってきて、私は涙がこぼれてこぼれて仕方がなかったですからね。単純な私にもよく分かる美しい、そして気持ちが温かくなるような再生の物語だったかと思っています。

野球部のエース、モテモテの日下雪輝(ゆきてる=ユキ)は肩を壊して寮を出る。両親はおらず、妹は母とともに生まれることなく死んでしまった。世話になっている遠い親戚のおばさんの家に帰るが、おばさんもどこかへ行ってしまっていて、ユキはひとりで暮すことにする。古道具屋を営むおばさんの店のタンスを何気なく開けたところ、取っ手が外れてネジあてがひとつ弾けた。意志を持ったかのようにユキの手から逃れるネジあては、部品を継ぎ足しては日に日に成長して姿を変えてゆく。小さな女の子のように成長したそれを、ユキは死んだ妹と同じ「ヒナ」と名づける。

と、あらすじを書こうとしても、うまくいきませんね。けれども、この作品はものすごい傑作短篇であると言えましょう。短篇漫画にこんなにも心が震えたのは、久しぶりのことです。2度目に読んだ時には、途中から(しかもかなり早い段階で)画面が曇ってしまって、よく読めないくらいでした。

部品を吸収して女の子のような見た目になったヒナは、勉強して覚えた言葉を書き話し、あるだけの本を読み、家事だってこなすようになりますが、顔らしき部分には目も鼻も口もありません。それなのに、あれほどまでの「妹らしさ」を描き出す作者の描写力には、心の底から感心してしまいます。このヒナの可愛らしさは異常です。とにかく猛烈に可愛い。



以下、激しくネタバレしておりますので、これから読もうという方は、どうか作品をお読みになってから下の文章をごらん下さいませ。



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親を知らず、妹を知らず、他の誰をも知らない孤独なユキ。孤独を恐れると同時に、孤独を星に願い続けたユキに寄り添ったのは、星のちりだった。分からないことだらけの、95%は人間の理解の範囲外にあるという宇宙のなかで、分からない故に孤独だったユキに寄り添ったのは、よく分からないところからやってきた星のちり、それに孤独を願ったと同時にユキが憧れ続けた星の、その塵のヒナだった。そしてヒナはユキテルの願いを叶え、彼の肉体と精神の一部となって寄り添い続ける。

ヒナと一緒になったユキテルは、もう知らないことはヒナのように知ろうとすればよいのだということを学び、自分自身や他人についての知らなかったことを知り、孤独ではなかったことを知り、今度は別の事を願うようになります。すでに涙で全然前が見えませんけれども、ユキはもっと遠くへ、ヒナにとっては懐かしい場所へ行きたいと願うようになるのでした。ユキは最初の願いを取り戻し、孤独も絶望も、もうない。


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美しい、美しい不思議で優しいお話。




こういう人は、いったいどこからやって来るのでしょう? どうしたら、この世界をこんなにも透明に描くことができるというのでしょう? そしてまた、描かれた透明で美しい世界が、ひょっとしたら確かにあるのではないかと私にも思えてしまうのは、どうしたわけなのでしょう。

そうだ。
この世界は私が日常的に感じているよりもずっと不思議で美しいものなんじゃないか、静かで悲しみに満ちた、けれどもとても優しく美しい世界があるんじゃないか。あるかも知れないことを教えてくれるこの人の、私は新しい目を手に入れたような気持ちです。








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