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もやもや日記

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『涼宮ハルヒの消失』

2011年09月12日 | 映像(アニメーション)


原作:谷川流
原作イラスト/キャラクター原案:いとうのいぢ




《あらすじ》
クリスマスが間近に迫ったある冬の日。
学校に向かったキョンはいつもの日常と違うことに気づく。後ろの席にいるはずのハルヒがいない……。さらに驚くべき事に、その席に座っていたのは、(『憂鬱』にて)キョンを殺そうとして長門に消滅させられたはずの朝倉だった!




前から観たかった劇場版『涼宮ハルヒの消失』をようやく観てみました。レンタル屋に行くと、いつも既に借りられていたのでなかなか観られなかったのですが、金曜日にK氏が借りて来てくれました。ついに!

ハルヒのTVシリーズのほうはまだ第1期しか観ていない私は、『消失』を観る前にこれだけは観ておけと言われていたTVシリーズ第2期の「笹の葉ラプソディー」を観ておきました。劇場版の方を観たら分かったことですが、なるほど、「笹の葉」を観ておかないと、この映画の設定のいくつかがサッパリ分からないことになってしまうところでした。なるほど、なるほど。




さて、この『涼宮ハルヒの消失』ですが、タイトル通り、作中では主人公の涼宮ハルヒがキョンの前からいなくなってしまいます。シリーズのこれまでの物語で描かれてきたいくつかのエピソードがうまく複雑に交錯するという、なかなか手の込んだお話になっていました。面白かった。

映画の「良い点」と「もうちょっとどうにかならなかっただろうかという点」を挙げると、このようになるでしょうか。


まずは、良い点から。

長門さんが激カワイイ!

何と言っても、この映画の最大の見どころは、長門さんが可愛い! それに尽きます。私は満足です。


もうちょっとどうにかならなかっただろうかという点については、ふたつのことがありました。

ひとつには、キョンがもうちょっと魅力的な人物であればよかったこと。彼はこんな詰まらない人物であっただろうか。TVシリーズでも、たしかにちょっと「語りがイチイチうぜー」とは思っていましたが、そんなに気になるほどのことはなかったのに、なぜだかこの劇場版では、かなり自己本位で嫌な感じの少年としか映らなかった。私の思い入れが足りないせいかしら…シリーズ全作をちゃんと観たら、印象がまた変わるかもしれません。うん、そうかも。

しかしシリーズに関する情報と愛着が幾分足りていないかもしれないにしても、私の率直な印象では、キョンという人物はいささか浅薄で無礼かつ暴力的な人物に思えました。あたふたするのは仕方ないにしても、せっかく貴重な情報を提供してくれた谷口くんは、訳も分からずパニックに陥ったキョンによって胸ぐらをつかまれてバカヤロー呼ばわりまでされ、まったくもって気の毒じゃあないですか。突然ひとりきりで別世界に放り出された孤独とタイムリミットが迫っている焦燥感によるものとは言え、ちょっとひどい気がする。

また、キョンが選択を迫られるあの場面の演出は私には過剰な気がしましたね。少々気分が悪かった。キョンを詰問するもうひとりのキョンの在り方に、キョンという人物の横暴さや傲慢さ、また自分自身のゆとりのなさを暴力に変換してしまいかねない弱さが滲み出ているような気がして仕方がなかったな。考え過ぎかな。どうも私はキョンが気に入らないらしい。。。キョンの美点というのはどういうところなのだろうか? ハルヒや団員たちに気に入られるような要素って、どこにあったのだったかな?
まあ、しかし、これに関してはシリーズを通してちゃんと把握したら解消するかもしれない印象なので、これ以上書くのはやめておこう。


もうひとつ、ハルヒが空気。あまりにも空気!
今回のメインは長門さんだから仕方がないのだろうけど、ハルヒの存在感があまりに希薄で、ちょっと気の毒でしたね。ハルヒってでも、ゴタゴタの中心にいるというわりには、これまでもわりと空気で気の毒な印象があるなあ。それがいいんだろうか。どうなんだろうか。




さて、これはこのくらいにしておいて、良かった点についても詳しく書いてみましょう。先に書きましたが、長門さんがこれまでとかなり違った風に描かれているところが、この作品の見どころです。

いつも静かに窓辺で読書している長門有希さんは、見た目は普通の可愛らしい女子高生ですが、その正体は情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースで、その身に備えられている桁外れの能力を用いて、SOS団のピンチを救って来たという人物です。感情表現にきわめて乏しいのが特徴。

その長門さんが、このお話のなかではまるで別人のように変貌していました。微笑んだり、頬を赤らめたりもするのです。

私はこれまでのクールで頼りになる長門さんが好きだったつもりでしたが、すっかり変わってしまった長門さんに対しても心魅かれてしまったのは、どういうわけなのかとしばらく自問してみました。私は長門さんの外見的要素が好きだっただけだから、中身が変わってしまってもやっぱり好きになってしまうのだろうか。

いや、そうではない。私は長門さんというキャラクターが、「どうしてそうなのか?」「彼女が何を考えて、そのように振舞うのか?」ということをあれこれと想像するのが楽しいのです。感情が見えない長門さんの背後にあるもの、その奥底にあるかもしれないもの、そういうものを想像しては、「うおお!」となるのです。

けれどもこれは人間的な発想かもしれませんね。感情を感じられないはずのところに感情らしさを見出して、価値を置くなんてことは。

人間に比べてより高次の存在に所属する長門さんに、人間と同じような「感情」を見出したからといって、それが本当に意味があったり、価値があったりすることなのだろうか?

感情などというものがそれほどまでに素晴らしいものなのかどうか、人間にとって素晴らしいものが別の存在にとっても素晴らしいものでありうるかどうかは私には分かりません。自分のまわりの美しいものに魅かれたり、自分に向けられる他者の思いやりの温かさに打たれたりするのは、たしかに人間にとっては価値ある素晴らしいものではあるけれども……。

まあしかし、私もやはり人間であるので、感情の見えない長門さんの中に、感情らしきものの片鱗を見たりすると、心を動かされたりするわけです。情報統合思念体によって造られた長門さんがその本来の役割を果たすこと以外に、団員との関係性のなかで特別な意識を芽生えさせ、それが何か人間にとっては温かく思えるようなものだとしたら、私もやっぱり嬉しくなってしまうわけです。そして長門さんにとってもそれが素晴らしいものでありうるとしたら、私もやっぱり嬉しくなってしまうわけだ。長門さんが頬を染めて笑ってもいつも通りに笑わなくても、彼女の内部にそういう「気持ち」があるのかもしれないと考えると、胸の中がじりじりしてくるのです。



長門さんが可愛いこと以外の良かったところとしては、あと、舞台の背景設定がすごくリアルで、キョンが信号待ちをしている小さな交差点のあたりなんかがとても印象的でした。坂の多い土地柄で、学校までの道のりも坂道、そしてその手前の交差点の歩道も傾いているのですが、その傾斜の具合がすごくリアル。ああ、こういう場所、ありますよね。夜道を走る自動車のスピード感や歩道の狭さもリアル。こういうリアルさが、私をこの物語の世界へ強く引き入れるようですね。

それから、朝倉さんが怖過ぎていい感じでした。再登場となった理由は分からないですが、怖さは健在でよかったです。




そういうわけで、そういうところがとても面白い作品でした。ともかく、私は一度ちゃんとシリーズを通して観てみないとな。