ジェラルド・カーシュ 駒月雅子訳
(『壜の中の手記』西崎憲 他 訳(角川文庫)所収)
《あらすじ》
金物商会の外交員サーレクはコジマを愛したが、コジマは画家のヤーノシュと愛し合っていた。芸術家のヤーノシュが創造を愛するのに対して、武器商人のサーレクは破壊を愛した。最新式の武器を売ることで巨万の富を得たサーレクはコジマの愛を得られぬまま孤独に老いさらばえて……
《この一文》
“「理解できないね。鍬や工具は人間に快適さと生命の糧を与える。だが銃や大砲が与えるのは苦痛と死だけだ」
「理想家だな、君は」サーレクは冷然と突き放した。「それはそれで大いにすばらしいよ。だが大事なことを見落としている。世の中はつねに移り変わっていて、その移り変わりこそが命の原動力だってことを。現在、世界の国々は戦争へ向かっている。どんなことでもそうだが、その状況を歓迎する者もいれば、そうでない者もいる。それでも国家は勢力を保持するため武器を持たざるをえない。銃は力だ。私は銃が好きだ。君たちは何かにつけ精神の物質に対する勝利を口にするが、いいかい、それを表現しているのが銃なんだ。引き金に指をかけ、照準器に敵をとらえる――これこそ精神の物質に対する勝利じゃないか。ひと昔前までは単純な先込め銃しかなかったが、いまはクリーガー機関銃があって――」 ”
何度読んでも痺れる短篇小説というものがありますが、これもそういった短篇のひとつです。私はジェラルド・カーシュが好きだ。数多くいる好きな作家のなかでも上位に入るくらいに好きなのです。読めるだけのこの人の短篇は、だいたい読んでしまったと思うけれど、この「死こそわが同志」はタイトルの格好良さからしてビリビリくる。原題は“Comrade Death”。
短篇集『壜の中の手記』に収められた物語はどれもこれも面白いですが、読み終えてから月日を経ても、忘れっぽい私がタイトルと内容をしっかりと一致させて思い出すことができたのはこの「死こそわが同志」だけでした。恐ろしい物語です。久しぶりに読み返してみましたが、やっぱり面白かったです。最初に読んだ時よりもいっそう面白かった(
『壜の中の手記』:過去記事)。
どことなくクストリッツァ監督の傑作映画『アンダーグラウンド』を思い出させるこの作品(主人公が武器商人で男女の三角関係があるっていうところが似てるだけかもですけど)の、爆発的破滅にいたるまでの最後の部分が私は好きなのですが、たとえば最初のほうのこういう文章に出会うと、どうしたらよいのか分からなくもなるのです。
“君たちは何かにつけ精神の物質に対する勝利を口にするが、
いいかい、それを表現しているのが銃なんだ。引き金に指を
かけ、照準器に敵をとらえる――これこそ精神の物質に対す
る勝利じゃないか。”
………。
……だめだ、私には言い返すことができそうもない。
ジェラルド・カーシュの物語が面白いのは、ものすごく読みやすく、舞台も設定もそのときどきでSFから幻想、怪奇、ミステリとバラバラなのにどの物語にもジェラルド・カーシュらしさとでもいうべき独特の病み付きになるような毒素があり、いつもいつも大胆かつ奇想天外でドラマチックなところです。読者の心を意のままに操ることのできる一流の語り手なのです。大波に乗せられたみたいに物語の中へぐいぐいと引き込まれてゆくと、ところどころでハッとするような文章にぶち当たる。グサッと突き刺さるようなことを、サラッと書いてある。面白いったらない。
ついでに、同じ本に入っている「時計収集家の王」や表題作の「壜の中の手記」も気が遠くなるくらいに面白いです。あ、別の短篇集『廃墟の歌声』(
過去記事)のほうもめちゃくちゃに面白いので、なんだか読み返したくなってきちゃったぞ……!
作家としてはかならずしも恵まれた生涯を送ったとは言えないらしいジェラルド・カーシュですが、多作の人だったそうなので、もっと邦訳が出るといいですね。私は短篇集を2冊と、「カームジン」という大泥棒(または大ぼら吹き?)を主人公とした連作短篇集(
『犯罪王カームジン』:過去記事)を1冊持っていますが、正直言って、これだけでは読み足りません。アンソロジーに入った短篇のいくつかも読んでしまいましたし(
過去記事「ジェラルド・カーシュ 3つの短篇」)、まだ他にあるというなら誰か訳してほしいなあ!