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『マノン・レスコー』

2009年02月18日 | 読書日記ーフランス
アベ・プレヴォ作 河盛好蔵訳(岩波文庫)



《あらすじ》
シュヴァリエ・デ・グリューがようやく17歳になったとき、マノンという美しい少女に会う。彼が犯した幾多の怖ろしい行為はただこの恋人の愛を捉えたいがためであった。マノンがカナダに追放される日、彼もまたその後を追い、怖ろしい冒険の数々を経て、ついにアメリカの大草原の中に愛する女の屍を埋める。
この小説はプレヴォ(1696-1763)の自叙伝ともいわれ、18世紀を代表するフランス文学の一つ。

《この一文》
“ところでもし想像を逞しうして、これらの不幸も、結局は望み通りの幸福な結果に至るのであるから、その不幸それ自体のうちによろこびがあるというのだね。それならどうして君は、これと全然同じ構造だのに、僕の場合では、矛盾とか無分別とかいうのであるか。僕はマノンを愛している。僕は無数の苦難をとおして、彼女の傍で幸福に、平和に暮らそうと志しているのだ。僕の歩いている道は嶮しいが、自分の目的に達するという希望で心はいつも楽しいのだ。 ”



これを単なる恋愛小説と読むことは可能ですが、本書の前書きにある作者の言葉にしたがって、それ以外の問題をはらんだ物語と読むこともできることに私は賛成します。それにしてもあまりに激しい急展開に、私はついていくのがやっとでした。恐るべき物語の前に久しぶりに絶句。

主人公の青年 シュヴァリエ・ド・グリューは、家柄にも恵まれ、学業も優秀、温和で誠実、おまけに大変な美男子でもあり、まったく非の打ち所のない将来有望な若者です。ところが、ある日マノンという絶世の美少女と出会って運命を一変させてしまいます。マノンが美しいだけの少女であれば、物語は別の展開もありえたかもしれませんが、残念ながら彼女は快楽と浪費を何よりも愛し、そのためには貞節などまったく問題としない女でした。彼女によって何度も裏切られ、傷付きながらも、シュヴァリエはマノンを愛さずにはいられず、そのために全てを失い、最後には彼女自身さえも永久に失うことになるのでした。

で、このシュヴァリエですが、ほんとうにどうしようもない男です。恋の熱狂に浮かされて、家族をも友人をも裏切り、マノンとともにどこまでも転落していきます。もう見ていられません。彼の愚かさには実に堪え難いものがあります。浮気なマノンから離れれば楽になると分かっていて、それができないのです。

しかし、しかしシュヴァリエの愚かさを、いったい誰に笑うことができるでしょう。私はただただ恐ろしさに震えるばかりで、とうてい笑う気になれません。恋に狂った若者が破滅するというひとつの例によって、人間が「こうしたほうが良いとは分かっているが、しかしどうしてもそのようにできない」という局面に立たされたとき、彼はそこでどうすべきか、その問題をどう考えるべきか、そもそも彼はなぜそんな局面に陥ってしまうのか、社会的通念と彼の信条が折り合わないとしたらそういった個人または社会の幸福は両立し得ないのか、といったことを考えさせられます。

シュヴァリエの幸福はマノンとともにやってきますが、同時に彼の苦悩もまたマノンによってもたらされます。彼女の愛を得るために彼自身の真心だけでは足りず、莫大な財産が必要であるものの彼にはその財産がない。金策のため、はじめは気が進まなかったけれど、次第に多少の悪事を厭わなくなっていくシュヴァリエ。父や友人を裏切ってでも、ひたすらにマノンを求めるシュヴァリエ。この激しさは私をたいへんに恐れさせるけれども、それは私のなかにもいくぶんシュヴァリエ的な性質が潜んでいるからでしょう。そして同時に、彼がどうしようもなく転落していくのをまのあたりにし、手を差し伸べずにいられない友人のチベルジュとしての私の姿をも見いだせます。二人の葛藤は、私の、読者の心の葛藤でもあると言えるでしょう。愛による幸福か、美徳による幸福か。私たちはどちらの道を選ぶべきなのでしょうか。人間の魂にとってどちらが、より正しい、あるいはより優れていると言えるのでしょうか。

社会に生きる人間として、なるべく周囲との摩擦を避け節制し他者を思いやる美徳のうちに暮らそうとするのが求められる正しい態度と言えるのかもしれませんが、それでも誰しもが、どこかしら他人に何かを強いているところもあるのではないでしょうか。程度に差はあれども、丸っきり一人でこの世界に存在しているのでないならば、自分の幸福を実現するために、誰かを利用したり押しやったりしているのではないだろうか。私はそのことに無自覚であるだけではないだろうか。無自覚でいたいだけではないだろうか。しかし、気付かないでいられるということをもって自分には非がないと言ってしまえるものだろうか。
「もっとこうしたほうがいい」と分かっていながら、いつもそのようにすることはできなかった。このためにたくさんの人を傷つけたし、またこれからも傷つけるだろう。私にはやはりシュヴァリエの愚かさと薄情さを責めることはできない。幸福の実現ということを、どう考えたらいいのだろう。幸福ということを、どう考えたらいいのだろう。


ずっと素通りしてきた本書ですが、一昨日になって急にものすごい存在感を発揮し、私は買う気になりました。これまで何度となくあらすじを読んでいたのに、どうして急に面白そうに思えたのか不思議でたまりません。そして読んでみると、予想を遥かに超えて面白かったので、これまでずっと素通りできていたことがまた不思議でたまらないのでした。