半透明記録

もやもや日記

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奈良ーー室生寺、長谷寺、法隆寺(その2)

2005年04月25日 | 旅の記録
11:20 長谷寺

雨も上がり、先ほどの室生寺よりもやや観光地らしさが感じられる長谷寺に参る。
ここは花の寺として有名なのだそうだ。
四季を通じて植物の美しさを堪能できるらしい。
この日はちょうど桜が満開で、山一面が花盛りだった。
大きな木蓮の木が、白い花を隙間なく咲かせ、巨大な泡の山のようにも見える。
登廊を上がって、本堂に向かう。
屋根が付いた登廊は、杉のあるところまで真っ直ぐに延びていて、
屋根から下がった提灯がずらりと並び、とても美しい。
灯がともるころは、一層美しいと思われる。
傍らには、まだ咲きそうもない牡丹が植わっている。
登廊が一旦横に折れてさらに本堂に向けて上がる手前のところにベンチがあったので、
少し休むことにした。
休憩所の周辺にも桜が連なっていた。
満開の桜の下で、鳥が鳴いている。
ここは喫煙所であったのだが、煙草の煙とは別に、清々しい花の香りが漂っている。
桜かと思ったが、もしかしたら、上手のほうにある黄緑色の花から匂うのかもしれない。
くんくんやっていると、上から鐘の音と法螺貝を吹き鳴らすのが聞こえてきた。
どうやら正午の合図のようだ。
鐘楼は本堂の傍らにあり、そこで鐘をつくと同時に、お坊さんが2、3人で法螺貝を吹いている。
鐘が気持ち良く鳴り響くのに対し、この日は調子が悪いのか、法螺貝は鳴り響かない。
空気が貝の中に送り込まれる音だけが、ふすーすかーと聞こえる。
こんな時は、お坊さんでも慌てたりするのだろうか。
そんなことを考えながら、私と同じ様に鐘楼を見上げていた見知らぬおじさんとほほえみ合う。

本堂でご本尊の十一面観世音菩薩を拝み、さらに境内を歩き回る。
とにかく花が多い。
あちらでもこちらでも咲いている。
ふと、花を美しいと思うのはどうしてなのかと疑問に思う。
植物の側からすると受粉のために、虫や鳥を惹き付けようとするのは、分かる。
人間が果実に魅力を感じるのも、種を遠くまで移動させるためだろうと分かる。
きれいだと思えば、株を遠くまで持っていくことはよくあることだが、花はそれを狙っているのか。
あるいは人間の方から考えると、花とは美しいものだと言われているから、美しいと思うのだろうか。
一度リセットして確かめられたら良いのだが。
I氏がおっしゃるには、前回寺巡りをしたときは、まだ寒く、木は丸裸の状態で、
まるで死んだようだったのに、ほんの1、2週間のうちに一斉に、芽吹き花を咲かせ、
生ということをとても実感させられるということであった。
なるほど、植物は我々と同じ様に生きている、という親近感は感じる。
植物だけでなく、土や石、空気や水までも、全て宇宙の物質から出来ているという点で
私と共通することに、非常な安心感を覚える。
物質的なつながりは誰しも感じるところだと思う。
美はその親近感からもたらされるのだろうか。
しかし、その理屈から考えると、地上の全ての美しいものを認めるなら、
全ての汚れたもの、みにくいものも認められるはずだがーー。
私に限って言えば、全てを受け入れるにはほど遠い。

お寺に参った甲斐があってか、生命力に満ちあふれる山を訪れたせいか、私は自分について見つめ直す機会を得られた。