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『最後の審判の巨匠』

2007年06月30日 | 読書日記ードイツ
レオ・ペルッツ 垂野創一郎訳(晶文社ミステリ)

《あらすじ》
1909年のウィーン、著名な俳優オイゲン・ビショーフの家では友人たちが楽器をもって集まり、演奏に興じていた。歓談中、余興として次の舞台で演じる新しい役を披露するよう求められたビショーフは、役づくりと称して庭の四阿にこもった。しかしその後、突如鳴り響いた銃声に駆けつけた一同が目にしたのは、拳銃を握りしめ、床に倒れたビショーフの瀕死の姿だった。現場は密室状況にあり、自殺に間違いないと思われたが、客のひとり、技師ゾルグループは「これは殺人だ」と断言する。俳優の最期の言葉「最後の審判」とは何を意味するのか。ゾルグループが真犯人だという「怪物」の正体とは? 折しもウィーンの街では不可解な「自殺」事件が頻発していた……。
「重要な先駆」とバウチャーが賞揚、ボルヘスが惚れ込み、鮎川哲也や都筑道夫の言及でも知られる伝説的作品がついにヴェールを脱ぐ。


《この一文》
”もはや変更し得ない運命への反逆! しかしそれは―――より高い見地から見るならば―――すでての芸術の起源ではないだろうか。身に受けた恥辱や体面の失墜や踏み躙られた自尊心から、こういった深淵から、すべての永遠なる行為は生まれるのではないだろうか。思慮のない大衆は芸術作品を嵐のような喝采で迎えるかもしれない―――しかし編者にはそこに、創造者の破壊された魂を見る。  ”



普通に歩いているつもりで角をひょいと曲がったら、そこには巨大な滑り台が設置してあった。それはステンレスのようにつべつべぴかぴか丈夫で強固な下り坂で、「あ!」と思う間も、這い上がるすべもなく、終わりまで滑り落ちてゆくほかはない。
このペルッツという人の作品への感想は、こんな感じです。異常な疾走感と幻想性、巧みな構成と豊かな表現力。私の心拍数は上がりまくりです。


さて、『第三の魔弾』に引き続き、ペルッツの『最後の審判の巨匠』を読んでみました。タイトルが格好良い。250頁ほどの小説です(ただ行間が空き空きなので、それほどの分量ではないです)が、読みの遅い私でも一息に数時間で読みました。読まざるを得ませんでした。だって、なんという面白さだろう。

この作品は一応「ミステリ」に分類されているようですが、うーむ、ミステリか。まあ、ミステリかもしれませんが謎解きがメインであるようで全然そうでもなさそうな筋からしても、どちらかと言うと私が普段から好んで読む「幻想怪奇小説」の感触でした。でもって、たいそう面白かった。あー、面白い。

私の最近の傾向として、その作品に触れることで「それはつまりどうしたらよいのだろう」とか「これこれとは、いったいどうあるべきだろうか」「生きるとは」「人類であるとは」というような突っ込んだ問題に直面させられるのを面白いと感じているのですが、ペルッツの面白さはそういうものではないようです。では、瞬間的な娯楽であるかと言えば、その要素はいくらかはありますが、それだけでは決してない。何について引っかかっているのか分からないまま、いつまでもしかし引きずってしまう。…なんだろう、この感じは。
確実に言えることは、とにかく面白い!ということですね。


ところで、この本は、訳者による「あとがき」も全く堅苦しくなくユーモラスに面白く、それでいて実のあることが書かれているので、私は普段の読書ではあまりお目にかかれないこの「つくり」に感心しました。「晶文社ミステリ」として出ているからでしょうかね。評論臭くないところに好感です。

『第三の魔弾』

2007年06月20日 | 読書日記ードイツ
レオ・ペルッツ 前川道介訳 (世界幻想文学大系37 国書刊行会)


《あらすじ》
新世界制覇の野望に燃えるコルテス。
この国家権力そのもののような男をたおすべく
悪魔と契約して手に入れた三発の銃弾は、
次々に意外な結果を生んでゆく。―――

世紀末ウィーン話題の長篇。


《この一文》
”「神の呪いを受けるがいい。それはお前に苛立ちと惨苦をもたらすだろう。一発目がお前の異教の国王に命中するように、二発目が地獄の女に、そして三発目が――」
(中略)
吊るされた男の喉から笛を吹くような、窒息しかかった呻き声が、
 「それから、第―――三発目は―――お前―――自身に」と言ったのだった。 ”



痛い!
突き刺さるようなクライマックス。こんなに痛いのは物語が怒濤のごとく展開したためでしょう。特に後半の疾走感は異常です。あまりの動悸の激しさに、本を持つ手が震えたではないですか。
それにしても、こんなにザックリくるとは思いませんでした。まだ痛い。


さて、衝動買いしたレオ・ペルッツの『第三の魔弾』を読みました。
感想を一言で申しますならば、

 たいへんに面白かった!!
 そして、悪魔よりも恐ろしいのもの、それは人間かもしれぬ!

ということでしょうか(一言じゃない…)。とにかく勢いがあります。そして幻想的。さらには間が抜けているようでいて、どこまでも残虐で、恐怖に満ち、破滅的でした。この作者のことは名前さえ知りませんでしたが、まったくもって、私好みではないですか! やったー、大当たりです。


かつては《暴れ伯》と呼ばれ権勢を誇っていたグリムバッハは、母国ドイツを追われる。難破した彼は新大陸のインディオの王に助けられ、畑を耕やすのどかな生活を送っていたが―――そこへスペイン兵が新大陸制覇を掲げて乗り込んでくる。その一団を率いるのは、スペイン国王に忠誠を誓うコルテス。そして、グリムバッハの異母兄弟でもある美貌のメンドーサ公の姿もあった。
グリムバッハは、新大陸を救うため、また仲間の敵を討つために悪魔と契約を交わし三発の弾丸を手に入れる。


物語は、緊密によく練り上げられた構成を持ち、またそこへ無数の伏線が張り巡らされています。伏線はどれも、「あー、これはきっとこうなるな」と予想がつくのですが、予想できても面白いです。むしろ、その通りに展開して(その展開のしかたが圧倒的スピード感でもって)ゆくのが、気持ちがいいです。辻褄が合わされていくのですっきりします。
それでいて、もっとも肝心な予想は、当たらなかった!! というところが最高でした。おかげで非常に痛かったです。まさかそうなるとは。

というわけで、あー、面白かった。
私は特に、悪魔の登場シーンが気に入りました。
なんて間が抜けているんでしょう。最高に面白かったです。



こんな人が、今ではすっかり忘れ去られた作家となっている(戦争があったり、ユダヤ人であったり、さまざまな事情のもとで不当にしかしさっぱりと忘れられていったそうです)というのは、まったくもってやり切れない話ですね。
しかし私は、この人の他の作品も読んでみようと思います。とりあえず『最後の審判の巨匠』は、近所の図書館に置いてあるのをチェック済みですが、『悪魔(アンチ・クリスト)の誕生』とか『レオナルドのユダ』なども読んでみたいです(邦訳があるのかどうか分かりませんが)。
これ以上忘れられてしまうことがありませんように。

『怪奇小説傑作集5 ドイツ・ロシア編』(ドイツ編)

2006年09月14日 | 読書日記ードイツ
植田敏郎訳 (創元推理文庫)

《収録作品》
ロカルノの女乞食(ハインリヒ・フォン・クライスト)/たてごと(テオドール・ケルナー)/蜘蛛(H・H・エーヴェルス)/イグナーツ・デンナー(E・T・A・ホフマン)


《この一文》
”「誘惑者を追いはらい、わたしの家から罪を防ぐためには、いまなにがわたくしの役目であり、使命であるかがわかっています」
 こうアンドレスは言った。
      --「イグナーツ・デンナー」より ”



ロシア編のほうにゴーゴリの「ヴィイ」とチェーホフの「黒衣の僧」が収録されていたので迷わず購入した一冊です。ホフマンの未読の作品も入ってました。やったー! 在庫僅少のようだったので、あぶなかったぜ!

ドイツ編は全部で4編。クライストの「ロカルノの女乞食」は、別の本で何度も読んでいるので、飛ばし。クライストは怖い。でも、これはそれほどでもないですね。「聖ツェツィーリエあるいは音楽の魔力」(河出文庫『チリの地震 クライスト短篇集』所収)は怖かった…!

ケルナーの「たてごと」は夫婦の悲しい愛の物語。怪奇というよりむしろロマンチックではありましたが、私の好みからすると、あともう一歩踏み込んでほしいところでした。いや、でもまああの雰囲気はすごく良かったのですが。こういうのに慣れてしまっている私にはいささか物足りませんでした。いやですね、すれてしまって。

エーヴェルスの「蜘蛛」はすごく面白かったです。毎週金曜日の夕方に、ある宿屋の一室でたてつづけに3人の男が窓辺で首を吊る。医学生リシャール・ブラックモンはその部屋に滞在し、数週間を無事に過ごすのだが……。うーん、不気味に面白い。色が綺麗で素敵。黒に紫、細い細い糸を紡ぐ白い手…。日記体で物語が進行するのも良かったです。最後のほうの緊迫感がすごい。面白かったー。

ホフマンの「イグナーツ・デンナー」は、私のこれまで読んだホフマンの作品とはちょっと雰囲気が違うような(と言っても私はまだそれほどには読んでいないのですが;)気がしました。が、やっぱり面白い。ホフマンの作品には、ほとばしるような何かがあります。読み出したら途中で止められないような何か。めくるめくような何か。私はやっぱりホフマンが好きです。後の作家にも多大な影響を与えたらしいことがあとがきに書いてありましたが、納得です。しかも、とても多才な人だったらしい。うーむ、そんな感じ。この間買ってそのままになっている『悪魔の霊酒(上下)』(ちくま文庫)と『くるみ割り人形とねずみの王様』(河出文庫)もはやく読まなきゃ。


というわけで、秋になって食欲と読書が止まらなくなっている私は、もうロシア編も読みました。そちらはまた別のカテゴリーに分けて書きます。

『ゴッケル物語』

2006年06月07日 | 読書日記ードイツ
ブレンターノ作 伊東勉訳(岩波文庫)


《あらすじ》
生き物を憐れみ、神を信じることの篤いゴッケル老人。その彼が、魔法の指輪の力で妻や娘とともに栄枯盛衰、貴族から乞食まで、さまざまな境涯を経験し、次々と奇想天外な事件に巻きこまれる。ドイツ・ロマン派の詩人ブレンターノ(1778-1842)が、美しい森を背景に詩情豊かに物語るファンタスティックな長篇童話。


《この一文》
”こう言って、アレクトリオに、パンをすこし与えた。雄鶏はことわって、いかにも悲しげに話した。
 「ガリーナと雛にさきだたれ
  いきがいもない わたしには
  パンは無用で ございます
  アレクトリオは いさぎよく
  家宝の剣で 斬られます。」 ”


だいぶ前に買ってあったのに、そのまま忘れ去っていたこの本を発掘しました。すらすら読めるくらい面白いのに、もっとはやく読めばよかったです。

物語は、ゴッケル一家が落ちぶれて森の奥にある荒れ果てた古城へと向かう場面からはじまります。娘のガッケライアが道々「もうビスケットは食べられないの?」などと尋ねますが父が答えて言うには「ビスケットはないよ。あんなものは毒だ。胃をこわすからな」。一家が従える家来と言えば、つがいの雄鶏と雌鶏のみ。しかし、この鶏夫婦にはおそろしく威厳があるので、ゴッケルの妻ヒンケル(悪人ではないが、少々怠け者の見栄っ張り)と娘ガッケライア(食いしん坊で、やはり怠け者の餓鬼なんだそうです)などは到底さからうことなどできません。

上に引用したのは、ゴッケルの家に伝わる魔法の宝石をめぐって仕組まれた罠のために、最愛の雌鳥ガリーナを失った雄鶏のアレクトリオの言葉です。ガリーナと卵から孵ったばかりの雛たちは猫の手にかかって死を遂げるのですが、その犯人たる猫親子を裁くため、怒りのゴッケルは裁判を開いたりもします。ここでのアレクトリオのいじらしさとゴッケルの演説には心を打たれます。

そして、アレクトリオの死によってゴッケルが手にすることになる指輪はあらゆる願いを叶えてくれるものであり、一家は指輪の恩恵を受け、若さと美しさ、そして富を得ます。しかしそこへまた新たな罠が仕掛けられるのでした。

登場人物はみな、なかなか個性的です。偉大なる雄鶏アレクトリオは言うまでもなく、ハツカネズミの王子と王女(ふたりは新婚旅行中に猫に追っかけかれているところをゴッケルに助けられます)のキャラクターがとても良かったです。王子は王子として生まれ育ったので、人にものを頼むときについ「王様口調」になったりして、あとでそれはまずかったと後悔したりします。人間は眠っているときにだけ、彼らの言うことを聞くことができるというのも面白い。ネズミの仕草はいちいち可愛らしいのです。


冒頭はかなりユーモラスに描かれているので、私はところどころで笑いながら読み進めたのですが、アレクトリオの死の場面あたりからかなり真剣に読んでしまいました。意外と先の読めない物語でありました。結末にも驚きましたし。
魔法の指輪によってもたらされた一夜にして出現する壮麗な城や、卵の殻で出来た王様の城、チーズを精巧に齧って作り上げたネズミの城などなど視覚的にも美しい、とても良く出来たお話だと思います。

それにしても、パンやお菓子やチーズにハムと、ドイツっぽい食べ物がたくさん出てくるので、腹が減って仕方がありませんでした。

『ニーベルンゲンの歌(前後編)』

2006年05月09日 | 読書日記ードイツ
相良守峯訳(岩波文庫)

《あらすじ》
(前編)ニーベルンゲンの宝を守る竜の血を浴びて不死身となったジーフリト。だが妃クリエムヒルトの兄グンテル王の重臣ハゲネの奸計により殺されてしまう。妃の嘆き、そして復讐の誓い。こうして骨肉相喰む凄惨な闘いがゲルマン的忠誠心の土壌のうちに展開する。均整のとれた美しい形式と劇的な構成をもち、ドイツの「イーリアス」と称せられる。

(後編)夫ジーフリト暗殺に対する復讐を誓ったクリエムヒルトは、その手段としてフン族エッツェル王の求婚に応じた。そして10余年、宮廷に兄グンテル王、めざす仇敵ハゲネらを招いた彼女は壮絶な闘いの上これを皆殺しにする。しかし自身も東ゴート族の老将の手で首をはねられる。戦いは終り、あとにエッツェル王ら生者の悲嘆を残して幕は閉じられる。


《この一文》
” 友が友と友情をもって助け合い、
  また構えて事を仕出かさぬほどの分別があれば、
 人はこれに恐れをいだいて手出しをしないでしまうことが多いものだ。
  多くの男の災いは、分別によって防ぐことができるのだから。
           (第二十九歌章)  ”

” それに対し、健気なリュエデゲールは恭しく頭を下げた。
  居合わせた人々はみな涙を流し、それはだれにも慰めることの
  できぬほどの胸の痛みであり、並ならぬ悩みであった。
  リュエデゲールの死は、あらゆる美徳の父の死であった。
           (第三十七歌章)  ”



クリエムヒルトが人並みに穏やかな性格だったら、きっと誰も死なずにすんだんだろうに…。この長い物語を読んで私がまず思ったことといえば、そんなことでした。

私はどちらかと言えば、ジーフリトが竜を倒してその血を浴びるような冒険譚を読みたかったのですが、そういう部分は人の口から少しだけ語られるだけで、この物語のほとんどの部分はどろどろした人間模様です。怖いですねー。ゲルマン的忠誠心とか英雄精神ということについて私には全く知識がないためか、読んでいると突っ込みたいところが満載です。「美しい姫がいるらしい」という噂を聞いただけでジーフリトはその国におもむき(武装して)、いきなりそこの王にむかって「これからあなたの所領を力づくで頂戴いたすつもりです」というようなことを言い出します。え? 姫の話は? 当然相手のブルゴントの王グンテルもびっくりしてジーフリトをたしなめるわけですが、結構まともそうに見えたこのグンテルもかなりやばい。「美しい女王がいるらしい」という噂を聞いて熱烈に恋し、反対を押し切って会いに行きますが、無茶苦茶に力自慢のこの女王プリュンヒルト自身に勝負で勝たなければ思いを果たすことができません。で、女王のあまりの強さに「こんなことなら会いにこなきゃよかった……」みたいなことを言い出します。なんてこったー。結局、隠れ蓑(ジーフリトの秘密のアイテム。姿を隠すことができます)をつけたジーフリト(この頃にはなぜか友達になっていた)の協力でプリュンヒルトを打ち負かし(要するにズル)、妃として迎え入れますが、やはり強過ぎて夫婦の契りを結ぶことができません。そこでまたジーフリトの協力を得て、無理矢理妻とするのでした(これまたズル)。で、なぜかその場面でプリュンヒルトの指輪と帯を持ち帰り、今では妻となったクリエムヒルトに与えるジーフリト。諸悪の根源がここにあるようです。その指輪と帯のせいで後々この二人の女は激しく罵り合い、互いの夫を滅ぼし合うことになるのでした。二人ともとにかく気位が高過ぎる。怖いですねー。

こんな感じで前編は「こらこら、いきなり何を言い出すんだ」という場面が目白押しです。ある意味面白い。ところが、後編はうってかわって、血で血を洗う殺し合い。凄絶です。かつてグンテル王(クリエムヒルトの実兄)の重臣ハゲネによって夫を暗殺された恨みをいつまでもいつまでも募らせては復讐の機を伺うおろかなクリエムヒルト(この人は話が進むに連れて限りなく愚かになってゆく気がします。粘着)の腹黒い策略の結果、フンの国は大混乱。国王エッツェル(この人もまたクリエムヒルトの美しさを聞いて後妻にとった人。結局はクリエムヒルトの復讐に利用されたという、かなり大らかでいい人っぽいのに気の毒な王様)とフン国に滞在中の東ゴート族の大王ディエトリーヒ(今は本国から追放されて流れてきてはいるが、さすがのクリエムヒルトをびびらせるほど権勢のある人)は一族郎党ほとんど皆殺しの目に遭います。気の毒ー。なかでも気の毒なのは、この物語における唯一の良心である辺境伯リュエデゲールでしょうか。フン国に仕えるこの人が、フン国の客として自らが盛大におもてなしをし自分の娘をもギーゼルヘル(クリエムヒルトの実弟)に妻として与えた結果今や親族となったブルゴントの人々に、フン国への忠誠心からやむなく戦いを挑み、そして討ち死にする場面は涙無しでは読めません。もう、ほんとにクリエムヒルトさえいなかったら! 結局このクリエムヒルトはジーフリトの恨みを晴らすべく、というか取り上げられたニーベルンゲンの宝を取りかえしたかったからなのか(なんかこっちの理由の気がする…)、自身の兄弟たち(ジーフリト暗殺に直接関係したのは兄グンテルだけで、あとの二人はいい人だったのに……)とハゲネに復讐します。夜中に奇襲をかけたり火を付けたりと、容赦ありません。実にあさましい。念願叶って最後にはグンテルの首をはね(ハゲネにニーベルンゲンの宝の在り処を白状させるため。ほら、やっぱり)、ハゲネも(白状しないので)自身の手によって殺してしまいます。縛められたまま女の手にかかって死んだハゲネの仇を打つべくディエトリーヒの家臣である老将ヒルデブラント(さっきまでハゲネと闘ってた人。しかしこれが英雄精神というものでしょうか)によって、クリエムヒルトも真っ二つにされて、物語は幕を下ろすのでした。

はー、やっぱりクリエムヒルトって怖かった。そんな読み方は間違っているかもしれませんが、私の今のレベルではそれが精いっぱいの感想です。

『短篇集 死神とのインタヴュー』

2005年11月02日 | 読書日記ードイツ
ノサック作 神品芳夫訳 (岩波文庫)


《内容》

廃墟と化した戦後の町で、現代の死神が作家の”私”に語ったのは……。ユニークな設定の表題作以下、第2次大戦下の言語に絶する体験を、作者は寓話・神話・SF・ドキュメントなど様々な文学的手法をかり、11篇の物語群としてここに作品化した。戦後西ドイツに興った新しい文学の旗手ノサック(1901-77)の出世作。


《この一文》

” 百五十年前にこの書き物机に坐って絶望していた人よ。あなたの気持ちはよくわかる。わたしは運命の要求するところにしたがって無の世界と向かいあい、態度によってそれと対抗しようと全力をあげて努力した。わたしは世界の滅亡を涙もこぼさず観察した。なぜかといえば、これが運命というものを認識する唯一の機会、そしておそらく、人が罪と名づけているものも実は運命なのだということを理解する唯一の機会であることをわたしが自覚したからである。
 しかし、無よりも悪質なものがある。それは、人間の戯画がこの無に賑やかな中身をあたえてしまうことである。貪欲な漫画が幅をきかせて、本物が息をつまらせてしまうことである。俗物のほうが本物よりも生命がはるかに長いということである。どうやってこれに耐えたらよいのか。  「クロンツ」より ”



実は読むのは2回目です。面白かったという記憶はありましたが、内容についてはきれいさっぱり忘れてしまっていました。こんなに暗い話でしたかね。収録された物語では、戦争によって建物や財産、生命のみならずこれまでの価値観など精神を支えてきたものまでも失われてしまった様が描写されます。その表現は決して感情的ではなく、努めて冷静に事態を見据えようとする意志により、かえって当時の混乱や人々の絶望が伝わってくるようでした。とは言え、現代に生きる私には到底当時の不安や不安定などは想像することはできませんし、作中にもこうして記録として残すことの意味が問われています。この人はどうして書かなければならなかったのか、それを私が読んでどうするのか。とりあえずはどうしようもありませんが、もしかしたらそこにはなにか必然があるのかもしれません。

物語は全部で11篇です。全ての物語が暗いというわけではなく、うす暗さの中にもユーモアを感じられる物語も多くあります。中でも面白かったのは、空襲のあった過去のある夜を巡る不思議な人間の出会いを描く「ドロテーア」、トロイア戦争終結後のアガメムノンとカサンドラの運命をイタケーの王テレマコスが父オデュセウスなどの口から聞かされる「カサンドラ」、月で囚人を見張るのを勤めとする「わたし」のある思い違いについての「アパッショナータ」。他にも「実費請求」「海から来た若者」なども面白かったです。要するに、ほとんどがかなり面白いです。どうして、忘れていたのやらさっぱり理解できません。多分、今になってようやく私は物語を少しばかり理解できるようになったのかもしれません。最近、何事につけてもそう思うようになりました。少しは成長しているということなのでしょうか。いつかまた読み返した時には更に理解が深まっていると良いのですが。

『変身』

2005年01月21日 | 読書日記ードイツ
フランツ・カフカ 中井正文訳(角川文庫)


《あらすじ》

平凡なセールスマンのグレゴール・ザムザは気がかりな夢からさめたある朝、一匹の巨大な褐色の毒虫と変わった自分を発見する・・・・。非現実的な悪夢をきわめてリアルに描き現代人の不安と恐怖をあらわにした傑作中篇小説。


《この一文》

” ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。     ”


カフカについては結局、最初に読んだこの作品が一番印象的です。
といっても、まだまだ未読のものを沢山のこしているので今後はどうなるかわかりませんが。
読むたびに思いますが、不条理です。
しかし、不条理というのはどういう状態のことなのでしょうか。
読み終えると、とてつもない不安と混乱に陥っている自分に気がつくのです。
昔、宿題で『変身』の読書感想文を書いたような記憶がありますが、当時の私はこの作品を読んで一体なにを思ったことでしょう。
内容はすっかり忘れてしまっていますが、今と同じように大混乱して、支離滅裂な感想を書いて無理矢理提出したのだろうことは何となく思い出せるのでした。

『チリの地震』

2004年12月27日 | 読書日記ードイツ
ハインリヒ・フォン・クライスト 種村季弘訳(河出文庫)


《あらすじ》

古典主義とドイツ・ロマン派の
はざまで三十四年の壮絶な生涯
を終えた孤高の詩人=劇作家ク
ライスト・・。カタクリスム(天
変地異)やカタストロフ(ペスト、
火災、植民地暴動)を背景とし
た人間たちの悲劇的な物語を、
完璧な文体と完璧な短篇技法で
叙事詩にまで高めた、待望の集
成。


《この一文》

”----あなたさまの四人のご子息さまがたは、一瞬にぶい鐘の音に耳を澄ましてからやおら一斉に席を立ち、そんな奇妙にもいぶかしい始まりだけにこれから何事が起こるのだろうと私どもがテーブル・ナプキンを下におき不安な期待にみちて見上げるうちに、思わずこちらが愕然とするようなものすごい声で栄光の賛歌を斉唱しはじめるではございませんか。
     「聖ツェツィーリエあるいは音楽の魔力」より  ”



とにかく迫力があります。
そして恐ろしくなるような悲劇ばかりです。
激流のような展開のはやさに、息苦しさを感じながらも最後まで読み通してしまうような、とてつもなく勢いのある文章です。
全体的に暗い雰囲気なので、あまり読み返したくないのですが、たまに気になってついまた読んでしまう、そんな1冊です。

『ホフマン短篇集』

2004年12月11日 | 読書日記ードイツ
E.T.A.ホフマン作 池内紀編訳(岩波文庫)


《あらすじ》

平穏な日常の秩序をふみはずして、我知らず
夢想の世界へふみこんでゆく主人公たち。幻
想作家ホフマン(1776-1822)は、現実と非現
実をめまぐるしく交錯させながら、人間精神
の暗部を映しだす不気味な鏡を読者につきつ
ける。名篇「砂男」はじめ六篇を収録。


《この一文》

” みると足元に二つの目玉が血まみれになってころがっており、じっとナタナエルをみつめている。スパランツァーニ教授は傷ついていない方の手でそいつをつかみ、はっしとばかりにナタナエルに投げつけると、目玉はみごと彼の胸に命中した--この一瞬、狂気が炎のように燃えたってナタナエルの一切を焼きつくした。
  「ヒェー! 火の環だ、火の環がまわる--まわれ、まわれ、どんどんまわれ! --人形もまわれ、すてきな美人の人形もまわれ」
      ---「砂男」より   ”



「砂男」は恐ろしくて夜眠れなくなりました。
暗いところで一人で読むのは良くないでしょう。
「クレスペル顧問官」はちょっと感動的なお話です。
全体的に物悲しい話が多いような気がします。
それが魅力でしょうか。
怖くてもつい一生懸命読んでしまうのでした。

『みずうみ』他四篇 シュトルム作 関泰祐訳(岩波文庫)

2004年12月03日 | 読書日記ードイツ
《あらすじ》

月光に浮び上がる少女エリーザベトの肖像。老学究ラインハルトは
いま少年の日の昔にいる。あの頃は2人だけでいるとよく話がとぎ
れた。それが自分には苦しくて、何とかしてそうならぬようにと努
めた。--若き日のはかない恋とその後日を物語る「みずうみ」ほ
か、抒情詩人シュトルム(1817-88)の若々しく澄んだ心象を盛っ
た短篇を集めた。

《この一文》

” 「エリーザベトさん」と彼は言った。「あの青い山のかなたに僕たちの青春時代はあるのですね。あの時代はどこへ行ってしまったのでしょう?」
               --「みずうみ」より    ”


兎にも角にも美しく、胸が締め付けられてしまいます。
同じく岩波文庫『大学時代・広場のほとり』所収の「おもかげ」も、どうにも堪りません。
なんと美しい世界! なんという透明感!
私の大好きな作家のひとりです。どの物語も思い出のように静かで美しく、少し悲しげなのでした。