レオ・ペルッツ 垂野創一郎訳(晶文社ミステリ)
《あらすじ》
1909年のウィーン、著名な俳優オイゲン・ビショーフの家では友人たちが楽器をもって集まり、演奏に興じていた。歓談中、余興として次の舞台で演じる新しい役を披露するよう求められたビショーフは、役づくりと称して庭の四阿にこもった。しかしその後、突如鳴り響いた銃声に駆けつけた一同が目にしたのは、拳銃を握りしめ、床に倒れたビショーフの瀕死の姿だった。現場は密室状況にあり、自殺に間違いないと思われたが、客のひとり、技師ゾルグループは「これは殺人だ」と断言する。俳優の最期の言葉「最後の審判」とは何を意味するのか。ゾルグループが真犯人だという「怪物」の正体とは? 折しもウィーンの街では不可解な「自殺」事件が頻発していた……。
「重要な先駆」とバウチャーが賞揚、ボルヘスが惚れ込み、鮎川哲也や都筑道夫の言及でも知られる伝説的作品がついにヴェールを脱ぐ。
《この一文》
”もはや変更し得ない運命への反逆! しかしそれは―――より高い見地から見るならば―――すでての芸術の起源ではないだろうか。身に受けた恥辱や体面の失墜や踏み躙られた自尊心から、こういった深淵から、すべての永遠なる行為は生まれるのではないだろうか。思慮のない大衆は芸術作品を嵐のような喝采で迎えるかもしれない―――しかし編者にはそこに、創造者の破壊された魂を見る。 ”
普通に歩いているつもりで角をひょいと曲がったら、そこには巨大な滑り台が設置してあった。それはステンレスのようにつべつべぴかぴか丈夫で強固な下り坂で、「あ!」と思う間も、這い上がるすべもなく、終わりまで滑り落ちてゆくほかはない。
このペルッツという人の作品への感想は、こんな感じです。異常な疾走感と幻想性、巧みな構成と豊かな表現力。私の心拍数は上がりまくりです。
さて、『第三の魔弾』に引き続き、ペルッツの『最後の審判の巨匠』を読んでみました。タイトルが格好良い。250頁ほどの小説です(ただ行間が空き空きなので、それほどの分量ではないです)が、読みの遅い私でも一息に数時間で読みました。読まざるを得ませんでした。だって、なんという面白さだろう。
この作品は一応「ミステリ」に分類されているようですが、うーむ、ミステリか。まあ、ミステリかもしれませんが謎解きがメインであるようで全然そうでもなさそうな筋からしても、どちらかと言うと私が普段から好んで読む「幻想怪奇小説」の感触でした。でもって、たいそう面白かった。あー、面白い。
私の最近の傾向として、その作品に触れることで「それはつまりどうしたらよいのだろう」とか「これこれとは、いったいどうあるべきだろうか」「生きるとは」「人類であるとは」というような突っ込んだ問題に直面させられるのを面白いと感じているのですが、ペルッツの面白さはそういうものではないようです。では、瞬間的な娯楽であるかと言えば、その要素はいくらかはありますが、それだけでは決してない。何について引っかかっているのか分からないまま、いつまでもしかし引きずってしまう。…なんだろう、この感じは。
確実に言えることは、とにかく面白い!ということですね。
ところで、この本は、訳者による「あとがき」も全く堅苦しくなくユーモラスに面白く、それでいて実のあることが書かれているので、私は普段の読書ではあまりお目にかかれないこの「つくり」に感心しました。「晶文社ミステリ」として出ているからでしょうかね。評論臭くないところに好感です。
《あらすじ》
1909年のウィーン、著名な俳優オイゲン・ビショーフの家では友人たちが楽器をもって集まり、演奏に興じていた。歓談中、余興として次の舞台で演じる新しい役を披露するよう求められたビショーフは、役づくりと称して庭の四阿にこもった。しかしその後、突如鳴り響いた銃声に駆けつけた一同が目にしたのは、拳銃を握りしめ、床に倒れたビショーフの瀕死の姿だった。現場は密室状況にあり、自殺に間違いないと思われたが、客のひとり、技師ゾルグループは「これは殺人だ」と断言する。俳優の最期の言葉「最後の審判」とは何を意味するのか。ゾルグループが真犯人だという「怪物」の正体とは? 折しもウィーンの街では不可解な「自殺」事件が頻発していた……。
「重要な先駆」とバウチャーが賞揚、ボルヘスが惚れ込み、鮎川哲也や都筑道夫の言及でも知られる伝説的作品がついにヴェールを脱ぐ。
《この一文》
”もはや変更し得ない運命への反逆! しかしそれは―――より高い見地から見るならば―――すでての芸術の起源ではないだろうか。身に受けた恥辱や体面の失墜や踏み躙られた自尊心から、こういった深淵から、すべての永遠なる行為は生まれるのではないだろうか。思慮のない大衆は芸術作品を嵐のような喝采で迎えるかもしれない―――しかし編者にはそこに、創造者の破壊された魂を見る。 ”
普通に歩いているつもりで角をひょいと曲がったら、そこには巨大な滑り台が設置してあった。それはステンレスのようにつべつべぴかぴか丈夫で強固な下り坂で、「あ!」と思う間も、這い上がるすべもなく、終わりまで滑り落ちてゆくほかはない。
このペルッツという人の作品への感想は、こんな感じです。異常な疾走感と幻想性、巧みな構成と豊かな表現力。私の心拍数は上がりまくりです。
さて、『第三の魔弾』に引き続き、ペルッツの『最後の審判の巨匠』を読んでみました。タイトルが格好良い。250頁ほどの小説です(ただ行間が空き空きなので、それほどの分量ではないです)が、読みの遅い私でも一息に数時間で読みました。読まざるを得ませんでした。だって、なんという面白さだろう。
この作品は一応「ミステリ」に分類されているようですが、うーむ、ミステリか。まあ、ミステリかもしれませんが謎解きがメインであるようで全然そうでもなさそうな筋からしても、どちらかと言うと私が普段から好んで読む「幻想怪奇小説」の感触でした。でもって、たいそう面白かった。あー、面白い。
私の最近の傾向として、その作品に触れることで「それはつまりどうしたらよいのだろう」とか「これこれとは、いったいどうあるべきだろうか」「生きるとは」「人類であるとは」というような突っ込んだ問題に直面させられるのを面白いと感じているのですが、ペルッツの面白さはそういうものではないようです。では、瞬間的な娯楽であるかと言えば、その要素はいくらかはありますが、それだけでは決してない。何について引っかかっているのか分からないまま、いつまでもしかし引きずってしまう。…なんだろう、この感じは。
確実に言えることは、とにかく面白い!ということですね。
ところで、この本は、訳者による「あとがき」も全く堅苦しくなくユーモラスに面白く、それでいて実のあることが書かれているので、私は普段の読書ではあまりお目にかかれないこの「つくり」に感心しました。「晶文社ミステリ」として出ているからでしょうかね。評論臭くないところに好感です。
「あとがき」が読みやすくて、わかりやすかった、というのは同感です。最近はミステリなんかでも、やたらと肩肘張った評論を書く人もいますしね。
ペルッツは、邦訳されているなかでは、たぶん唯一の短篇「月は笑う」(国書刊行会『書物の王国4 月』収録)も面白いので、これもオススメですよ。
「月は笑う」は次に読もうと思います!
私はもうペルッツにはまっちゃいましたね。なんだかやたらに面白いです。ほかの作品も読みたいです。ブームが来ないかなあ!