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半透明記録

もやもや日記

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『こねこ』

2010年01月10日 | 映像



ロシア映画。猫映画の決定版だそうです。たしかに……!!


マーニャ(姉)とサーニャ(弟)がおばあさんに買ってもらった子猫のチグラーシャはいたずら好きで、家中でいたずらし放題。音楽家のお父さんの楽譜を散らかしたり、楽器ケースに悪さをしたり。けれども家族中から可愛がられている。ところがある日、チグラーシャは開いたままの窓から外へ落っこちて、トラックの荷台に乗ったまま遠くまで運ばれてしまう。飼い主一家はチグラーシャを探しまわるが見つからない。その頃チグラーシャはフェージンという猫好きの若者に拾われていた。フェージンは猫を愛し、猫たちに愛されている。しかし、フェージンはちょうど家も職も失おうとしていて……というお話。


猫の可愛らしさはもう言うまでもなく壮絶でした。可愛過ぎます。私はいちいち悶絶しながら観ました。あー、猫、可愛い。子猫のチグラーシャもさることながら、フェージンのところの芸をするお利口な猫、別に飼い主が居るのになぜかフェージンのところへやってくる大きな白猫、愛嬌のあるペルシャ猫、いずれも魅力的な猫ばかり。あー、猫! 猫!!

猫が可愛いだけでなく、ところどころに優しいユーモアを散りばめ、さらにはさりげなく人間ドラマ、社会ドラマ的要素をも盛り込んでいるところが、なんとなくロシアらしくて良い感じでした。猫たちが遭遇する街行く猫好きの人々の描写にも、じんわりとさせられます。
また、あの結末は、なんとも言えないしみじみ感がありますね。ただ猫が可愛いだけで終わらず、物語の中にそこはかとなく哀愁を滲ませるところが、いかにもロシアな感じです。かなり面白かった。



ああ、それにしても、猫というのは可愛い。私も生きている間に一度でいいから、子猫というものと触れ合ってみたいものです。猫。猫。ああ、猫よ。





『チャンス』

2009年10月26日 | 映像



製作: 1979年 米
監督: ハル・アシュビー
出演: ピーター・セラーズ / シャーリー・マクレーン / メルビン・ダグラス

《あらすじ》
読み書きが出来ず、ひたすらテレビを見ることのみを楽しみとする庭師のチャンスは、生まれてこのかたお屋敷から一歩たりとも外へ出たことがなかったが、ご主人様の死により、財産管理をする弁護士によって世の中へ追い出される。出生も謎、本名も謎、庭のこと以外の話題はほとんど理解出来ないチャンスだが、不思議な偶然から大金持ちで財界の大物ベンジャミンの親友としてお屋敷に迎えられることになり…




何とも言えない、妙な感じが残る不思議な映画でした。コメディと言えば、コメディなんでしょうね。ただ、カラッと明るい笑いというよりは、じんわりと悲しみが滲んでくるような、世の中をやんわりと皮肉っているのがちくちくと伝わってくるというような、そういう感じ。アメリカが、現代社会が失っているもの、その喪失感やそれによる未来への不安感が随所に漂っていて、ちょっと寂しいような気持ちになります。ただ、なかなか面白かった。

あの結末のシーンには、いったいどのような意味が込められているのでしょう。チャンスは【常識】の圏外からやってきて、いつまでもそこにいる存在であるということ、だからこそ彼と出会った人たちは【常識】や【慣習】というルールにきつく縛られた自らの姿を発見することができた。そういう意味だったのですかね。しかし、それはつまり私たちはこの中にいる限りはなかなか自分で自分を変えることは出来ないと言われているような気もしてきて、私などは少し憂鬱になるのですが、それは私の考えが暗過ぎるかもしれません。


それはさておき、この映画を見ていると、現代社会に生きる人々はいい加減、腹の探り合いに疲れているのかなと思えてきます。発された言葉が、その言葉通りの意味しか持たない世界、あるいはその言葉を良いようにのみ解釈できる世界、そんなものへの憧れが描かれていたかもしれません。そして同時に、発された言葉をその通りに受け止められず、自分に有利な方向へ物事を持っていこうとするため、あるいは自分の知性を他に示そうとするために、単純な言葉の裏に膨大な背景を勝手に付け加えずにはいられない人々の態度を皮肉っていたかもしれません。

チャンスは、庭のことしか話しませんし、話せません。それ以外の物事は彼には理解できないようです。彼はテレビを見ますが、彼の興味はそこで話されている内容ではなくて、単に人の動作を見つめてそれを真似するだけです。握手やキスの仕方とか、体操とか。その通りにやってみるのが好きなだけ。いつも平穏に見えるが、感情表現がきわめて乏しいとも言える。
ところが周囲の人々は、そんなチャンスの言動を可能な限り拡大解釈して、なにか深遠な哲学的な内容であると勝手に受け取っていきます。ただし周囲の人々をそうさせるのは、チャンスのきわめてシンプルな人柄によるものであり、情報にまみれて本質を失いがちな現代社会に生きる我々が長らく見失っている人間のひとつの理想的な在り方をチャンスという人物が示していると言えましょうか。

はじめの方の場面で、空家になったお屋敷にチャンスがひとり取り残されていて、白い布が掛けられた家具の中に埋もれながらいつものようにテレビを見ていると、弁護士がやってきて居るはずのないチャンスがそこに居ることを問いただす(チャンスの存在は、どこの書類にも載っておらず、庭師であることも、死んだ主人との関係も分からない)という場面がありますが、「あなたの存在証明は?」というようなことを尋ねる弁護士に対してチャンスはこう答えるのでした。

 「僕がここに居ること」


本当は、私たちはここに居るだけで、ここに居ることになるんですよね。居ていいよ、と言われればそれだけでそこに居てよかった時代もあったはずなんですよね。膨大な書類を書かされている間に、ついそのことを忘れてしまいそうになりますが。
ちょうど引越しで転出・転入、郵便物の転送届、その他諸々の手続きを強いられている最中の私には、いろいろと考えさせられる内容でありました。
その他にも、人種問題やマスコミの報道のあり方、ごく一部の人間による富の独占、生と死の問題などなど、割と盛りだくさんに詰め込んである社会派な映画でした、意外に。面白かった。

それにしても、ベンジャミンのお屋敷は凄かったな~。あと、墓。フリーメーソンの墓って、みんなあんななのですかね?





『チャーリーとチョコレート工場』

2009年09月19日 | 映像



《あらすじ》
世界中で売られているウォンカのチョコレート。巨大な工場からは大量のチョコレートが毎日発送されていくのだが、中で働いている人の影はまったく見えない。ある日、謎に包まれたウォンカのチョコレートの中に工場見学に5人のこどもを招待する金色のカードが入れられたというニュースが世界を駆け巡る。貧しい家に父母と2組の祖父母と暮らすチャーリーもまた、金色のカードを夢見てチョコレートの包装紙をめくるのだが……



『チャーリーとチョコレート工場』を観ました。
感激屋の私は予想通り盛大に感動させられてしまったのですが、しかしどことなく納得しきれない部分の残る作品でした。観てから一週間になりますが、その間どこに納得がいかなかったのかについてずいぶんと考えさせられてしまいました。


さて、物語はウィリー・ウォンカの不思議なチョコレート工場から大量のチョコレートが出荷されるところから始まります。謎に包まれたウィリー・ウォンカからの招待状。世界中でたった5枚しかない金色のカードを引き当てた5人のこどもたちは、それぞれの保護者1名とともにチョコレート工場の見学を始めるのですが、そこには奇妙な光景が広がっていたのでした。


とにかく、チャーリーとその一家のいじらしさに、冒頭から泣かされそうになります。不思議なチョコレート工場よりももっと不思議で、まるで夢のように美しいものが、チャーリーの家族にはありました。
向かい合ってずっと座っているおじいさんが二人と、おばあさんが二人。それから歯磨き粉の工場をクビになったばかりのお父さん。薄いキャベツのスープを作るお母さん。それからチャーリー。あまりの貧しさに家なんかはぐにゃーっと傾いてしまっていますが(←それにしても傾き過ぎ…;)、家族のそれぞれが思いやり身を寄せ合って仲良く暮らしています。チャーリーがチョコレートを買えるようにと、おじいさんがへそくりをこっそり渡してくれるあたりなどはもう涙が止まりません。

しかし、この一家の暮らしが優しければ優しいほど、ここには巨大な哀しみが横たわっていると思わずにはいられません。なぜなら、この一家は互いに思いやり愛し合ってはいるものの、貧乏のためにその暮らしが成り立たなくなろうとしているのです。
一家の大黒柱であるお父さんは真面目に工場で働きますがクビになり、4人の老人と妻と子供ひとりを抱えて苦悩します。貧乏でも愛があればいいじゃない、というわけにはいかないんですね。あるいは正直さや誠実さだけでは世の中を渡って行けないという哀しみがここにはあるような気がします。

チャーリーの家族とは対照的に、ウィリー・ウォンカは家族を否定して成り上がってきた男でしたが、彼に足りなかったのはたとえば家族といった自分にもっとも近い、しかしとても小さな集団を思いやったり、他人を信頼する勇気を持つことだったのでしょうか。この人が屈折したキャラクターとして描かれているということは分かりましたが、何と言うかちょっとチグハグな印象を拭えません。
いや、それがいいのだろうけど、なんかこう…。ああでも多分この人は物事をただその通りに受け取ってしまうんだろうな。だからささいなことで決定的に傷ついてしまうし、その背景が見えないし、見えないから自分で克服することができない。けれど、誰かが逆の方向へ目を向けるように接してくれさえすれば、今度はすぐに立ち直ることもできるんだ。


つまりここで描かれたのは、誰にでも家族の愛情は必要だし、ぎくしゃくした家族関係はいつでも修復可能で、さらにその気になりさえすればいつでも誰とでも家族となりうるということ。そして、人々がそうやって愛し合い、それぞれに足りない部分を互いに補い合ったなら、それが豊かで自由な発想の源となり、ついには世界中へ拡大していく何か素敵なものを生み出すことになる、ということでしょうか。
これは意外と盲点かもしれません。しかしこんなサクセス・ストーリーは、なんだか少し嘘くさいけれど。でも、私が感じた違和感は多分ここにありますね。これを嘘くさいと思ってしまう私の心が、と言って他に何も思いつかない私の無力と無策が、すこし悲しかったのかもしれません。



もっと面白可笑しい映画だと思っていたのですが、意外と大真面目であれこれと考えさせられる作品でした。
私はここではチャーリーとウォンカについてだけ取り上げましたが、その他の4人の子供たちとその保護者の関係についても、観ていたらぎくっとさせられるところは多々あるのではないでしょうか。

子供を教育するとはどういうことなのか、彼らには何が必要なのか、子供を本当に愛するとはどういうことなのか。そういうテーマもありました。欲しいだけの物を与えることでなく、食べたい物を好きなだけ食べさせることでなく、既存の知識を得るだけが正しいことだと思わせることでなく、強固な肉体を手に入れながら相手を打倒することだけを目的とさせることではなく、それよりも子供たちが将来社会で生きる上で必要になる資質というのは何であるかについて、この映画ではかなり教訓的に語られていました。家族と社会、子供と大人、さまざまな場面における人間関係の不全を、どのように克服していくかを問う物語であったと言えましょう。


このように、考えさせられる要素はたくさんありますが、でももちろん賑やかで鮮やかな楽しい映画です。もっと派手でも良かったけど。
それにしても、チョコレート工場の見学なんて、私も行ってみたいものです。





『アンタッチャブル』

2009年06月29日 | 映像

監督 :ブライアン・デ・パルマ
脚本 :デイヴィッド・マメット
出演者 :ケヴィン・コスナー/ショーン・コネリー/ロバート・デ・ニーロ
    アンディ・ガルシア/チャールズ・マーティン・スミス
音楽 :エンニオ・モリコーネ
1987年 119分 アメリカ

《あらすじ》
禁酒法時代のシカゴ。ギャングのボス アル・カポネを捕らえるため、アメリカ財務省捜査官ネス率いる「アンタッチャブル」は、命がけの戦いに乗り出す。





昨日は、スタートレックのヴォイジャーとDS9をそれぞれ1話ずつ観て、それでだいぶ疲れていたので、そのあとすぐにK氏が『アンタッチャブル』を観始めても、「ふーん。まあ好きにしてくれ。私は疲れたぜ」なんて言っていたのに、いつの間にか一緒にマジ観。なんてこったー! ついつい熱中してしまった! とんだ傑作じゃないか!

実は、これまでに幾度も観る機会がありながら、一度も観たことのなかった名作『アンタッチャブル』。実際に観てみると、その恐るべき完成度の前に、私はなすすべもなく引き込まれてしまいました。うーむ。男の世界だぜ。カッコいいぜ。

これは事実に基づいたフィクションで、実際のカポネをめぐる事件の全容は、映画で描かれたものとは違っているようですが、まあ、それはこの際どうでもいい。物語として観る場合、これはとても良く出来た映画と言えますね。何と言っても、対立構造がシンプルで分かりやすいし、スリルあり熱血あり友情ありのエンターテイメント満載でいちいち盛り上がります。画面が美しいのも良いですね。

画面が美しいと言えば、私が特に印象的だったのは、カポネの登場場面。横たわるカポネ、周囲には部下たち、理容師が白いタオルでカポネの顔を覆い、これから髭を剃ろうとしている。それを真上から撮っています。なんか、すげえな! もう目が釘付けです。

それからカポネがバットを持って、円卓に座る部下の後ろを演説しながら歩き回る場面。あの円い食堂もすごく素敵でした。あと、カポネがオペラ鑑賞に行く場面で、着飾った人々が階段を上がってくるところとかも。
なんかカポネが出ている場面ばかりがやたらと印象的でしたが、それは私がああいう豪華な背景を好むからかもしれないですね。カポネを演じるデ・ニーロの、あの愛想がいいようでいて同時に恐ろしく残虐、大物のようでいてチンピラにすぎないようにも見えるキャラクターが強烈だったせいもありますが。

もちろん、ストーリーも最高でした。それぞれの人物がとても効果的に役割を果たしていて、特にショーン・コネリー演じる老警官マローンなどは、最初から最後まで格好良過ぎなくらい格好良かったです。それと、経理マンのウォーレスが良かった。いかにも朗らかで真面目で地道な性格、なにげに大活躍です。人物の描き方が素晴らしいですね。
アンディ・ガルシアのハンサムっぷりにも驚きましたし、知ってたつもりでしたがケヴィン・コスナーが若くてほっそりしているこの頃は、本気で美男子だったんだなーと感心してしまいました。
終始、展開にスピード感があって、観ていてすっきりしますね。面白かった。

あと、うっかりしていたのですが、監督はデ・パルマだったんですね。違う人だと思い違いをしていました。ごめんなさい。『ミッション・トゥ・マーズ』で唖然とさせられて以来(好きだけど;)侮っていましたが、すごい監督だったんですねー。ほんとスミマセンでした。


これは事実に基づいたフィクションで、実際のカポネをめぐる事件の全容は、映画で描かれたものとは違っているようですが、まあ、それはこの際どうでもいい。と上にも書きましたが、事実を忠実に再現したドラマがあっても、きっとすごく面白いだろうと思います。この映画ではネスは家族思いの正義の男となっていますが、実際の彼はアル中で死んだらしい…なんという……; 事実もまた物語と同じように奇妙なものなのですね。

それにしても、やっぱり20世紀のはじめのほうって、すごい時代だったんだなぁ。




『皇帝ペンギン』

2009年06月16日 | 映像

監督:リュック・ジャケ/86分/フランス




《内容》
南極の厳しい自然の中で、皇帝ペンギンが求愛から子育てに励む姿を追ったドキュメンタリー。



昨日、BS2で放送されていたのを、途中から観ました。しまったー、最初の方は気がつかなくて見逃してしまった。

コウテイペンギンと言えば、体長は130cmほどもある大きなペンギンなので、彼らが寒さをしのごうと、吹雪のなかぎゅうぎゅうと身を寄せ合って足踏みしているのを見るにつけて、つくづく「ヒトっぽい」と思ってしまいます。あれだけきっぱりと直立していて、しかも体の色もグレーから黒色の背中に白い腹、蝶ネクタイに見えなくもない黄色い模様が首筋にあったりして、一列に並ぶその姿はまるで朝の通勤風景です。歩きながら時々ぱたっと倒れて腹で滑っていくのもまた可愛い。

そんなコウテイペンギンの子育ての場面から私は観たわけですが、やはり大変ですね、この人たちの過酷な環境は。何も食べずに4ヶ月もじっとしているなんて、えらいこっちゃ。

コウテイペンギンのヒナは、ペンギンのなかではかなり可愛い部類です。アデリーペンギンのヒナなどは、毛だらけの膨れたラグビーボールみたいな姿でふてぶてしく餌を要求し、あまり可愛いとは言えない感じですが、コウテイペンギンのヒナはふわふわして灰色で、とても可愛らしい。うーむ。可愛い。


ペンギンが集団でぞろぞろ歩いたり押し合ったり、海に飛び込んだり海中を飛ぶように泳ぎ回ったり、ヒナがよちよち歩いたり可愛く鳴いたり、そんな愛くるしい姿を、南極の美しい映像とともに堪能できる作品でした。
ただ、押し付けがましい内容のナレーションと、時々挿入されるいささか場にそぐわない風のポップな歌に、どうも気が散っていけませんでした。でも、海の中や夜の南極の映像がとてつもなく美しかったからいいか……。

動物もののドキュメンタリーはいいですね。


『女王陛下の007』

2009年06月13日 | 映像


監督:ピーター・ハント
出演者:ジョージ・レーゼンビー/ダイアナ・リグ

1969年 イギリス



007シリーズのなかでは異色の作品らしいという噂をきいていた『女王陛下の007』を観てみました。ふーむ。なるほどたしかに他の作品と比べると、少し違った感触です。しかし、こちらの方は原作に忠実なんだそうですよ。へー。

この映画で何が一番面白かったかと言えば、それは衣装とセット! 1969年の製作ですが、やっぱり60年代っていいですねー。お洒落です。

最初のほうのシーンで、どこかのホテルのカジノが出てくるのですが、ここの内装がとっても素敵。鮮やかな紫色の壁に沿って弧を描いて下りてくる白い階段。紫の壁紙に白い階段って……素敵過ぎ!
また、ホテルの客室のドアが、これまた白くて厚みのあるドアで、上部は円くなっている素敵なもの。こんなホテルに泊まりたいものです。

途中でボンドが書類を盗み見にいく法律事務所もかなり格好良い建物でした。床とかエレベータのデザインがいいですね。この建物は実際に存在するホテルだという話ですが。いいなあ。

そしてスイスの山のてっぺんにある研究所がまた凄い。ガラス張りの書斎の向こうに研究室が丸見えになっていたりして、やたらとハイセンス。


それから、綺麗な女性がたくさん登場する本作品ですが、どの女性も着ているものがカラフルでとても可愛らしい。ヒロインのテレサもいちいちお洒落ですが、テレサの父親ドラコと一緒に居る若い女の子(名前は聞き取れなかった)が最初に着ていた紫(またしても紫)のミニ丈フレアーのドレスが異常に素敵でした。それから法律事務所の場面で、ロビーを歩いていく女性が、その日は雨なので雨の日らしい服装をしているのですが、これがまたお洒落。膝上丈のコートにロングブーツ。はあ~~。目の保養ですね。


私はついついこんなところにばかり注目してしまいましたが、本編もかなり良く出来た、手に汗握るエンターテイメント性抜群のアクションあり、ドラマチックに盛り上がるロマンスもありの見所の多い良作でした。




『HEROES/ヒーローズ』

2009年05月31日 | 映像



実は、地上波で毎週深夜に放送されていた第1シーズンから地道に見続けている海外ドラマ。突っ込みどころは満載ながら、なかなか面白いのです。


登場人物の多くは超能力者で、迫りくる危機から世界を救うため、協力し合ったり反目し合ったりしてドラマが進んで行きます。第1シーズンの危機は、ちなみに「ニューヨークでの核爆発」。これを阻止するために、時間を止められる能力者(日本人で、あの「ヤッター!」の人)や、空飛ぶ政治家、怪力美女、不死身のチアリーダーなどなどが複雑に関係し合います。それにしても、毎度のことながら、核を甘く見過ぎでは…? と思わないこともないですが、まあいい。第1シーズンは恐ろしく強引にまとめましたね、そりゃもうビックリでしたよ; 全く予測不能の超展開でした。いやー、すごかった。

そして私は今、ちょうど第2シーズンの終わりの方まで観たのですが、相変わらず突っ込みたいところがいっぱいです。なに、あの、1600年代の日本に対する奇天烈なイメージは…?? とか、クレア(美人?チアリーダー。とにかく、ごつい女の子)ったら第1シーズンの苦労も忘れて親父に対してむやみに反発し過ぎじゃない? とか、ミスター・マグルス(犬。すごいフカフカ)が可愛過ぎ、とか。いろいろ。先の展開が全く読めないのですが、なんとなく行き当たりばったりで設定やストーリーを考えているのではないだろうかと邪推してしまうほどに強引な展開が多いので、あれこれ予想するのは止めて、素直に楽しむことにしました。ちなみに第2シーズンの危機は、「ウィルス」がどうしたとかこうしたとか…よく分かりません。もうすぐ終わりそうなのに…どうなるの??


このドラマシリーズは、とにかく能力者たちの性格が無茶苦茶なので、目が離せません。ニキ(怪力で二重人格に苦しむ美女)などは、とてもイライラします。ピーター(能力を吸収する能力者。イケメン)もノロマ過ぎて腹が立ちますし、第2シーズンから登場のウェスト(空飛ぶ男の子。クレアのボーイフレンド)のストーカーっぷりにもゾッとします。
それに対して非能力者の登場人物には割といいやつが多いので、これは好感が持てますね。
インドからやってきた学者のモヒンダなんかは、いい人過ぎて死んじゃうんじゃないかといつもハラハラしてしまいます(だが意外に丈夫…重要な役だから?)。そしてまた、この人はハンサム過ぎてドキドキします。
日本のサラリーマンであるアンドウ君(ヒロの友達。韓国系の役者さん?が演じています)などは、一生懸命日本語で台詞をしゃべっているのですが(無意味にリアリティを追求したドラマ;)、吹き替えなしで聞いてみると時々何を言っているのかサッパリ分からないけど(せっかく日本語でしゃべっているのに吹き替えられてしまう件について……;)、一生懸命なのが伝わってきて、応援したくなります。いいやつなんだよなー、アンドウ君は。
あとは、ヒロの父親のカイト・ナカムラ(宇宙大作戦のヒカル・スールー役のジョージ・タケイさんが演じておられます)がいちいち格好良すぎますね。この人は能力者らしいのですが、なんの能力を持っているんだか全然披露されません。
しかし、総じて日本人が随分と好意的に描かれているあたりが、アメリカのドラマなのにちょっと不思議です。
アメリカ人の登場人物は、みんな悲惨なのですよ。不倫とか浮気とか隠し子とか、裏切りにまみれています。大丈夫なのでしょうか。アメリカ社会の暗部を目の当たりにするようです。まあただのドラマに過ぎないと言えばそれまでですが。



というわけで、私はいまスカパーのスーパードラマTVを契約しているので、そこでこのドラマを視聴中なわけですが、このあいだ第3シーズンが始まったところなので、どんどん先に進んでほしいです。グダグダだっていい。このドラマは、ストーリー以外のところに面白さがあるような気がする。とりあえず、途中で打ち切りになったりせずに無事に完結してほしいものです。




スタートレックまるごと20時間

2009年05月24日 | 映像

という特番を、昨日からスカパーの【スーパードラマTV】でやっているので見ているのですが、全5シリーズのそれぞれ4話分のベストエピソードを放送しています。

で、ヴォイジャーをいままさに放送中なのですが、1、2話放送された段階で、2話とも「前編のみ」なんですけど……!!
うお~~っ!! 続きが超気になる…!!

DS9はほぼ全話分を執念で録画保存してあるので、いつでも見られるのですが、ヴォイジャーは途中までしかみていない上に、録画したデータも少なくて……。うーむ。こういうことがあるとDVD-boxが欲しくなっちゃうんだよなぁ。


ちなみに、視聴者からの人気投票によって構成されているらしい今回の20時間まるごとスタートレック。ヴォイジャーについては、第3位のエピソードは猛烈に面白かったです(と思って調べてみたら、第7シーズンの最後から2話目の話なんですけど; つまり最終回の一回前。これは見たらいかんでしょ…しまったー!)。しかし、悪魔艦長の相変わらずの悪魔っぷりと、セブン・オブ・ナインのツンデレっぷりといったら、もう。面白過ぎる。あ、第2位の放送が始まるぜ……戻らねば……。

最終シリーズのエンタープライズは、まあ、わりとどうでもいい…。その分新スタートレックとか増やしてくれたらよかったのに。




『フロントページ』

2009年03月26日 | 映像

 原題 : The Front Page(1974)
 1974年,アメリカ,ユニヴァーサル映画=CIC配給

キャスト:ジャック・レモン/ウォルター・マッソー/
   スーザン・サランドン/キャロル・バーネット/ヴィンセント・ガーディニア
監督:ビリー・ワイルダー
原作:ベン・ヘクト/チャールズ・マッカーサー
脚本:ビリー・ワイルダー/I・A・L・ダイアモンド
音楽:ビリー・メイ

《あらすじ》
1929年6月。シカゴの刑事裁判所内の記者クラブでは、翌朝裁判所の庭で行われる警官殺しの死刑囚ウィリアムズの絞首刑の取材のために、記者たちが集まっていた。シカゴ・エグザミナー紙のデスクであるバーンズも、トップ記者のヒルディにその記事を書かせようと思うのだが、ヒルディの姿はどこにも見当たらない。ちょうどその時、バーンズのオフィスにヒルディが颯爽と現れ、結婚してフィラデルフィアへ行くから記者を辞めると言い出し……。
ウィリアムズ処刑の前夜、新聞記者たち、保安官、市長、ウィリアムズの情婦らが入り乱れ、事態は混乱をきわめる。

《この一言》
“ J・P・モルガンのところへ爆弾入り小包を送りつけてやったんだ。
 ところが、送料不足で送り返されてきた。
 アパートの屋根がふっとんだよ。   ”


ジャック・レモンとウォルター・マッソーの黄金コンビ。
かなりの爆笑映画でした。と当時に、ものすごく皮肉が込められてもいました。昔の映画はすごいんですねー。それにしても、スーザン・サランドンがおそろしく若くてびっくり。

記者稼業にうんざりし、ピアノ弾きのお嬢さんと結婚し、そのおじさんが経営する広告屋に雇ってもらい、安楽に暮らそうと決意する新聞記者ヒルディ。しかし、彼は優れた記者であったがゆえに、デスクのバーンズはけっして彼を逃そうとしません。ありとあらゆる手を使ってヒルディを引き止めようとしますが、フィラデルフィア行きの夜行列車が発車するその夜、ちょうど警官殺しで翌朝処刑されるウィリアムズが逃亡し、たまたまその場面に遭遇したヒルディは、後輩の新人記者に仕事をまかせておれず、自分を待つ婚約者をほったらかしたまま、ついつい記事を書くのに熱中してしまうのでした。

たった一晩のお話ですが、内容は恐ろしく充実しています。まず、ウィリアムズがなぜ警官を殺すに至ったのか、彼の受けた死刑判決の妥当性は、能無しの保安官と選挙を控えた市長との癒着、特ダネを得るためなら手段を選ばない記者たち……みどころが満載でした。それぞれの事柄を皮肉たっぷりに描いていながら、最高のユーモアで飾られた作品です。面白い。とにかく、オチが最高に笑えました。映画の結末は、登場人物たちのその後……を羅列してくれるのですが、もう、爆笑でした。面白すぎる! こういうのっていいなあ。うまいなあ。

ストーリーも大変にすばらしいものですが、キャラクターにも各々にとぼけた味わいがあって、魅力的です。とくにバーンズ(ウォルター・マッソー)の悪辣さが良かった! 黒い! 粘着! 強烈な人物です。
それからウィリアムズ。最初に画面に彼が映ったときは驚きました。とても死刑囚らしくない。ひょろひょろの気の弱そうな男なのです。気弱そうに見えて平気で過激な行動に出るらしいことは、精神科医との面談で判明するのですが(そしてこの精神科医の先生もたいがいおかしな人で;)、なんともユニークな人物です。
ほかにも色々、細かいところで皆が面白かったです。とにかく良く出来ている。

舞台は2、3場面しか変わらないし、全体的に地味なのですが、とにかく面白かった。あまり安っぽい感じもしないし。やっぱりストーリー、テンポ、役者が良ければ、なんでも面白いのかもしれません。
ということで、私はとても気に入りました。楽しかった!



繋がりと新しい繋がり

2009年02月12日 | 映像


YOU TUBE ではっぱ隊の「YATTA」を、世界のいろいろな国の人々が楽しそうに踊っている動画を見て感動したという話は、以前にもここに書いたかと思います。私はアレを見るたびにやたらと満たされます。根拠のない落ち込み気分などは、あっさりと吹き飛ばされてしまうのです。それは曲自体の非常なポジティブさのためもありますが、何と言うか、一見バカバカしく見える彼らのパフォーマンスが、あっさりとどこか遠い国の誰かに受け入れられていると言う事実に、その度ごとに感動するからです。あの裸に葉っぱ付きのパンツ一丁という出で立ちのインパクトと、悲しみを転化する明るい曲調は、言葉は通じなくとも人の心に訴える力を持っているからに違いありません。「丸腰だから最強だ」。いや、まさに。踊りも含めて名曲です。

私が思うに、日本のものが世界に受け入れられているのが凄い! というばかりでなく、ここにはまだ考えるべき問題が隠されているのではないでしょうか。日本のものが外へ出ていくだけでなく、海外からのものを私たちはいつの間にか簡単に手に入れられるようになっています。日本人であれ、外国人であれ、はっぱ隊に魅せられる人もいれば、ほかのものを好きになる人もいる。誰がどういうものを好むかということと、国籍は関係ないのではないかなと思ったわけです。文化の違いによってある程度は好みにも差がみられるのかもしれませんが、それでも、私が好きなものを同じように好む人々が外国にもいくらか存在するということを、YOU TUBE の多くの動画は教えてくれるわけです。これは、例えば古典文学が数カ国後に翻訳されたりしてきたことと似ているようでもありますが、現在の凄いところは、あることが伝わっていることが目に見えて実感できるということですね。インターネットの普及というのは、やはり凄いことです。私は当たり前のような顔をして、こんな時代を生きているのです。

はっぱ隊のことで、私がもうひとつ考えていたのは、「ノスタルジー」ということです。私にはこの曲はものすごく懐かしい。私が学生だった頃はずっとウッチャンナンチャンが全盛で、いろいろな番組を好んでよくみていたものでした。はっぱ隊ついでの懐かしさから、ポケットビスケッツやブラックビスケッツといったウンナンのバラエティ番組発の音楽ユニットのいくつかの曲を聴いたりして、ますます懐かしさが募りました。「ああ、あの頃は平和だったよな。あの番組がすごく好きだったんだよなー。番組の次の日は、学校へ行くと、みんなでその話をしたものだった」と、懐かしさがどっと押し寄せます。それと同時に、今の子供たちは、私が子供だった頃に感じたような楽しさを、いったいどういうものに対して感じるのだろうと気になるのです。私たちはいつの間にか大人になりましたが(年齢的な意味で)、今の子供たちにどういう楽しいことを提供できているんだろう、と少々心もとない気持ちにもなります。少なくとも、今のテレビのバラエティ番組は、私にはそれほど魅力的ではないのですが、それは私が年をとったせいでしょうか。でも、今さらテレビ番組が子供たちの間に社会現象を起こすようなことはないように思えるのです。彼らが大きくなった時、ふと子供時代を振り返って、「ああ、あの時はああいうことがあってみんなですごく楽しかったんだよなー」と思えるようなものが、あるのでしょうか。あるのかもしれません。私の近くには子供がいないから分からないだけなのかも。それにまあ、そもそもそういうのは人それぞれですし、私などが心配するには及ばないのでしょうけれどね。

そんなことを考えながら YOU TUBE を流れていくと、「セカイのハレ晴レ。今日もまた何処かでハレ晴レ」という動画が目にとまりました。人気ラノベが原作のアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』のテーマに振り付けられたダンスを日本だけでなく世界各国の若い人たちが踊り、それぞれで動画を投稿し、さらにそれを誰かがまとめたもののようでした。アジア、ヨーロッパ、北米、南米、いろいろな国の女の子と男の子が、ある女の子はハルヒのコスプレで、ある女の子はひとりで自分の部屋で、ある女の子と男の子たちはちゃんと5人揃ってイベント会場で、一生懸命踊っていました。でもって、みんな凄く上手。かわいい。




YOU TUBE : 『セカイのハレ晴レ。今日も何処かでハレ晴レ。第七版』

途中から、溢れるものがとまりませんでした。我ながらどうかしています、こんなことで泣いてしまうのは。でも、私はすごく感動したのです。動画をみせられることで、彼らのそれぞれが、友達や兄弟姉妹の間で打ち合わせながら、衣装を用意したり、振り付けを練習したり、それをイベントで発表したり、動画に撮ってサイトに投稿したり、そうした背景も見えてくるようでどうにもたまりません。同じものを好きな子たちが、同じようなやり方でそれを好きでいる。「ハルヒ」が好き、という点で、彼らはそっくりです。そこに妙に感激しました。いや、こういうことは今までにだっていくらでもあったには違いないとは思うのですけれどね。ビートルズが、あるいはある映画が、小説が、世界中でヒットしたとか。でも、なにか今までとは違うような気がします。特定の個人の熱狂が伝わる。しかも、今はそれがただちに目に見える形になるというのが、凄いじゃないですか。画面に登場するのがみんな若い人たちであるというのも、なんだかやたらと私を感激させます。


やっぱり私などが心配するには及ばなかったのです。私たちはたぶん、いつも何かを手放しながら、また同じ手で別のものを摑んで歩いているのでしょう。繋がったり離れたりを、いろいろな方法で試しているのかもしれません。それがいいことなのか悪いことなのかなんて、私には分かりませんが、インターネットの出現は私たちの在り方を変えつつあるし、それがどういうものであれ、前進か後退かも分かりませんが、私たちはともかく「移動しているらしい」ことが感じられるだけでもなんだか胸がいっぱいになってしまいます。

まとめられません。私ひとりで盛り上がっているだけです。
ただひとつ言えるのは、すごく面白いらしいという噂だけはきいていた『涼宮ハルヒ』ですが、いよいよそれがどういうものかが気になってきました。大勢が熱狂するからには、そこには何か魅力があるはずです。それで、結論から言うと、私はさっそくハルヒのテレビアニメ版を観たわけですが、ここには確かにその何かがありました。原作がラノベだからってバカにしてはいけません。アニメ視聴前の私には大いに反省してもらいたい!(正直、そんなに期待していませんでした。みなさま、ゴメンナサイ!) ああ、こりゃ、原作も読もうかな。
と、長くなったので、それについてはまた後日。