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『フランス幻想文学傑作選 2』

2008年07月29日 | 読書日記ーフランス
窪田般弥・滝田文彦編 (白水社)


《収録作品》
狼狂シャンパヴェール(ペトリュス・ボレル)
ある厭世家の手記(アルフォンス・ラッブ)
幻燈だよ! 摩訶不思議!(グザヴィエ・フォルヌレ)
白痴と《彼の》竪琴(グザヴィエ・フォルヌレ)
地獄の夢(ギュスターヴ・フローベール)
魔術師(アルフォンス・エスキロス)
悪魔の肖像(ジェラール・ド・ネルヴァル)
屑屋の悪魔(ヴィクトール・ユゴー)
夜のガスパール(アロイジウス・ベルトラン)
魔法の指輪の物語(フィロテ・オネディ)
サン=ドゥニの墓(アレクサンドル・デュマ)
第二の生(シャルル・アスリノー)
降霊師ハンス・バインラント(エルクマン=シャトリアン)
二重の部屋(シャルル・ボードレール)
鷹揚な賭博者(シャルル・ボードレール)
前兆(A・ド・ヴィリエ・ド・リラダン)
ヴェラ(A・ド・ヴィリエ・ド・リラダン)
ロキス(プロスペル・メリメ)
星間のドラマ(シャルル・クロ)

《この一文》
“しかし、僕が、人間たちのなかで、あるいは人間たちからはなれ、これ以上生きながらえることがあるとすれば、それは、君がえらぶ道を、僕がえらぶということなのだ。
    ――「狼狂シャンパヴェール」(ペトリュス・ボレル)”





このあいだ、前からずっと欲しかった『フランス幻想小説傑作選』の第2巻を入手しました。予想していた通り、面白くてたまりません。
何度も言うようですが、私はフランス小説が好きです。ですから、ほかに何冊か読みかけの本があるのですが、どうしても我慢できずに先に『傑作選』のほうを読み出してしまうわけです。これはもうしょうがない。

今回読んだ第2巻には、だいたい19世紀くらいに活動したロマン派の作家たちの作品が主に収められているようでした。物語は面白ければただそれだけでいいと考えがちな私は、そういう文学史的な流れについては全く興味も理解もなかったのですが、あとがきを読むと、彼らロマン派の作家、とくに小ロマン派の作家は、のちのシュルレアリスム作家たちに多大な影響を及ぼしたらしい。なるほど、そう言われると、私がこれらの作品に惹かれる理由も分かるというものです。ちゃんと流れているのです。私が自覚するしないにかかわらず、私自身はやはり系統の中に属しているらしいのです。面白いなあ。

そして、いままで知らなかったのですが、ユゴーって結構面白いということが分かりました。ここに収められた物語に登場する「騎士ペコパン(←美男)」の名前のインパクトによって、なんだか他のも読んでみたいと思い、さっそく『死刑囚最後の日』と『ライン河幻想紀行』を買ってきました。ここでは1章のみ抜粋でしたが、『ライン河』のほうには「ペコパン」の他の全部が収められているらしい。こうやって次第に、有名な作家や作品に対して感じていた愚かな先入観を取り払われてゆく私。そのうち『レ・ミゼラブル』も読めるかも知れません。

というわけで、どれもこれも傑作揃いの本書ですが、私が特に打たれたのは、ペトリュス・ボレルの「狼狂(リカントロープ)シャンパヴェール」です。これは先に読んだ『フランス幻想小説傑作集』(これは、『フランス幻想文学傑作選1~3』と『現代フランス幻想小説』に収められた作品からいくつかを選び直し、再収録したもの)にも収録されていたので、そのときにも衝撃を受けましたが、ふたたび読んでもやはり衝撃的でした。

ちなみに作者のペトリュス・ボレルという人は、あとがきにあったゴーチエの描写によるとこんな人物だったそうです。

 「ロマンチスムの理想の最も完璧な見本であり、バイロンの作中人物として
 モデルにもなれそうなペトリュスは、皆から讃美され、天才と美貌を誇り、
 肩に外套(マントー)の垂れを撥ね上げ、仲間を従へて歩き廻り、その後に
 曵かれる影法師を踏むことは禁制とされていた」

おお、なんというダンディ……!! しかしその後の彼の没落ぶりがまた悲しみを煽ります。人生とはいったい何なのでしょう。

さて、主人公の男シャンパヴェールは、社会や人生に対して激しい呪詛と憎しみを吐き散らします。物語はまずシャンパヴェールが親友ジャン=ルイに宛てた遺書の形式をとって始まります。とにかく、シャンパヴェールのジャン=ルイに対する恨み節が凄まじい。この部分はかなり興味深いものでした。

読めばすぐに分かりますが、この物語にはあまりに激しい憎悪が渦巻いています。私は魂ごと揺さぶられました。私もまたかつてはシャンパヴェールやその愛人フラヴァであったことを思い出してしまう。いや、今もなお彼らであり続けながらもそれを自らの奥深くに隠して、私はまるでジャン=ルイ同様に生に執着するようになり、まるで何もなかったかのごとく恥ずかし気もなくこの世の幸福のことを言ったりする。これは私の呪詛であり憎しみであり悲しみである。深く突き刺さった棘がいまだ抜けず、この先も決して抜けることはないことを、激しい痛みによって知るのです。いつかこれが私にとどめを刺すのだろうか。もしもそうなったら、その時には私もやはり彼らと同じようにこう叫ぶに違いない。

 「無の世界へ!」



多くは失意のうちに人生を終えなければならなかった彼らの生み出した物語が、依然としてこれほどに強い魅力を放っているのは、いったいどういう理由なのでしょうか。私を掴んで放さないこの力はどこから来るのでしょう。何もかもすっかり滅んでしまったって構わないのだけれども、それでも私は今はまだこの手を伸ばさずにいられない。遠くへ瞳を彷徨わさずにはいられない。彼らが私を手放すか、私が自ら彼らの手から逃れるその時までは。



『フランス幻想小説傑作集』

2008年07月05日 | 読書日記ーフランス
窪田般弥・滝田文彦=編(白水社)




《収録作品》
州民一同によって証言された不可解な事件(D=A=F・ド・サド)
不老長寿の霊薬(オノレ・ド・バルザック)
オニュフリユス(テオフィル・ゴーチエ)
狼狂シャンパヴェール(ペトリュス・ボレル)
白痴と《彼の》竪琴(グザヴィエ・フォルヌレ)
悪魔の肖像(ジェラール・ド・ネルヴァル)
ヴェラ(A・ド・ヴィリエ・ド・リラダン)
オルラ(ギ・ド・モーパッサン)
ミイラ造りの女たち(マルセル・シュオッブ)
仮面の孔(ジャン・ロラン)
クレダンの竪琴(ジョゼファン・ペラダン)
鏡の友(ジョルジュ・ロデンバック)
静寂の外(クロード・ファレール)
沖の娘(ジュール・シュペルヴィエル)
秘密の部屋(アラン・ロブ=グリエ)
怪物(ジェラール・クラン)

《この一文》
“抽象の世界での長い瞑想やら彷徨のために彼はこの世のことに心を配る暇がなかった。頭は三十歳だが、身体は生後六カ月だった。自身のけだものの調教を全く怠っていたから、ジャサンタと友人らがうまくこれを導いてやらなかったら、とんでもない大失策をしでかしたにちがいない。
  ――「オニュフリユス」(テオフィル・ゴーチエ) ”

“「法律よ! 貞潔よ! 名誉よ! お前たちは満足だろう。さあ。お前たちの獲物を手にとるんだ。野蛮な世間よ、お前がのぞんだのだぞ。さあ、みてくれ。これがお前の仕業なんだ。お前のやったことだ。お前のいけにえに満足かい? いけにえになった者どもを見て満足かい?……」
  ――「狼狂シャンパヴェール」(ペトリュス・ボレル) ”

“「……この愛に籠もりきりの生活、片時もやむ閑のないこの差し向かいの生活には、なにかいわくありげなものがありました。なにしろ世間一般に見られるものと大違いだったものですから、だれもかれも田舎者の本能で、いまにきっととんでもないことが起こるにちがいないと考えておりました。幸福というものは、いつでもこの世では招かれざる客ですから」
 司祭はすぐに、いまのその言葉を取り消した。
 「もっとも、人間の情念から幸福が生まれうるとしての話ですがね」
  ――「クレダンの竪琴」(ジョゼファン・ペラダン) ”



あとがきによると、ここに収められたのは『フランス幻想文学傑作選』(全3巻)と、『現代フランス幻想小説』から選ばれた作品だそうです。道理で。読んだことのあるものがいくつかありました。「ヴェラ」は岩波文庫の『フランス短篇傑作選』にも入っていたし。
私はいずれ現在は絶版のこれらの本も入手する予定なので、そうなると内容が重複してしまいますが、この『フランス幻想小説傑作集』は持ち歩くにはよい大きさなので良いのです。

さて、どの物語について書こうかおおいに悩むところです。どれも非常に面白かった。どうしてこんなにも面白いのでしょうか。私はこの豪華絢爛な描写が好きなのでしょうか、それともこの独特に屈折したような主人公および作者の思念に魅せられるのでしょうか。美への憧憬であれ、この世への憎悪であれ、なにか燃え盛るようなものがあるにはちがいありません。


上に引用したゴーチエの「オニュフリユス」は、解説によると1830年ころの過激なロマン派青年を描いた『若きフランスたち』からの一篇だそうです。現実と幻覚との区別を失った芸術家青年の狂気と破滅を物語っています。恐ろしいです。

そして、その次に収められているのがその《若きフランス派》の一員だったというペトリュス・ボレルの「狼狂シャンパヴェール」。このあたりの編集が親切ですね。そしてこの物語では、なるほど作者は過激なロマン派だったのだろうことが伺えます。ただで読み過ぎることなど不可能です。生や幸福、世間、人生、神などへの憎悪が炸裂しています。すさまじい勢いです。今回の読書では、これが私にはもっとも強烈な一篇だったかもしれません。解説に見るこの人の実人生も気の毒。……うーむ、破滅か。人生とはいったい何なのだろう。罪とは。


読み終えてわなわなと感激に震える私を見たK氏から「ああ、君ってああいうひねくれたのが好きだもんね」と断定されました。彼はまったくの未読だというのに「ああいう」とは「どういう」ことだと思いましたがおそらくその他のフランス小説集を思い起こしてのことでしょう、たしかにそれらの作品にはどこかしらひねくれたところはあるようですし、私がそういうところに惹かれやすいのもまた事実。なるほどなーと納得してしまいました。

幸福? 人生? それが何だって言うの?

と毒を吐き散らしながらも、その実内心では狂おしいほどに何か確かなもの、意味を約束してくれるものを求める人々を、私はここに見たいと思っているのかもしれません。まったくフランス小説には燃やされるようです。




『フランス幻想文学傑作選1 非合理世界への出発』

2007年08月06日 | 読書日記ーフランス
窪田般彌・滝田文彦編(白水社)


《収録作品》
空気の精(シルフ)…クレビヨン・フィス
オリヴィエ…ジャック・カゾット
血税の島…ルイ=セバスチヤン・メルシエ
賢者の石…ルイ=セバスチヤン・メルシエ
西暦二千四百四十年…ルイ=セバスチヤン・メルシエ
片目のかつぎ人足…ヴォルテール
ルソーのからっぼの墓…レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ
フランスのダイダロス…レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ
ロドリゴあるいは呪縛の塔…D=A=F・ド・サド
州民一同によって証言された不可解な事件…D=A=F・ド・サド
トリルビー…シャルル・ノディエ
不老長寿の霊薬…オノレ・ド・バルザック
教会…オノレ・ド・バルザック
ブリュラール船長の実人生…ウージェーヌ・シュー
検察官…シャルル・ラブー
オネステュス…ジュール・ジャナン
オニュフリユス…テオフィル・ゴーチエ
文学における幻想的なものについて…シャルル・ノディエ


《この一文》
”もし私が富の恐るべき不均衡について述べ立てたら、もし私が気さくで洗練された外観の下に隠された、冷酷かつ尊大なあなた方の道徳心について語ったら、もし私が貧者の赤貧洗うがごとき状態とか、正直さを失わないばかりに貧者が貧困から抜け出せないでいることやらを描いてみせたら、もし私が、不徳義な人間が手に入れる金利やら、その男がずる賢くなるにつれて享受する尊敬の度合いやらを数え上げたら……、あまりにひどすぎる結果になることは間違いない。だから、おやすみと申しましょう。私は明日発ちます。いいですか、明日発つのです。不幸にならないこれほど多くの方策がありながら、これほど不幸に悩む都会にこれ以上長くいることなどできませんからな。
  ―――「西暦二千四百四十年」ルイ=セバスチヤン・メルシエ  ”

”読書は、われわれに未知の友を与えるが、同時にまた、読者とはなんという友であろう! 親しい友人でありながら、われわれの作品を一行も読まない人もいるのだ! 著者は、この作品を、知られざる神に捧げることによって、負債を返し得たと信じたい。
  ―――「不老長寿の霊薬」オノレ・ド・バルザック  ”

”「真実は一つずつ世界の中に投げ与えてやらねばならない。手をひらいて突然それを普及させようとする、そんなことは罪だ。あまりに大きな真実は焼きつくすもので、光り輝きはしないのだ」
  ―――「オネステュス」ジュール・ジャナン  ”



面白いの面白くないのって、私は転げ回りそうなほどに、しかしそのエネルギーをもちろん私の身体を意味もなく転がすことなどに浪費せず、文字を追う集中力とそれに伴って激しさを増す動悸に耐えるために使い、熱中しました。あー、面白い! 面白い! フランス小説は最高ですね。

このあいだ買っておいた『フランス幻想文学傑作選1』を読みました。すごい、つまらない話がひとつもない! それどころか、大当たりです。ああ、続く2と3もなんとしてでも入手せねば!

とくに面白かったのは、ルイ=セバスチヤン・メルシエという人の作品です。私はこれまでには、おそらくこの人の作品を読んだことはないと思うのですが、もう、やたらめったらに面白かったです。収められた3作品はいずれも「夢」を扱った物語で、幻想的であると同時に風刺的、それがかなり辛辣であるので私はびっくりさせられました。
「血税の島」はとても印象的です。文字どおり血液を税として納めなければならない土地へ連れてこられた「私」が見る悲劇の数々。結末の一言には震えが走ります。導入部から夢の内部への移行の仕方もあっさりとして的確で、ここからして私は参りました。すごいぞ、ほかの作品も絶対に探します。

そして、ブルトンヌの「フランスのダイダロス」も異常に面白い。ある種のユートピア小説と言えるのでしょうが、全編に渡ってとにかく物悲しさがつきまといます。なんでこんなに悲しいのか。しかし、書きっぷりはむしろあっさりとロマンチック、軽やかでさえあって、すらすらと楽しみながら読み進むことができるのです。だけど、なんだかやっぱり悲しい。くー、やられた。この人の作品もこれまでには読んだ記憶がないですが、名前には見覚えがあります。どこで見たのだっけ。

オノレ・ド・バルザック「不老長寿の霊薬」も、ある場面では思わず声をあげるほどに面白かったです。もう、どうしたらいいんだ!

ノディエの「トリルビー」は別に本を持っているので読んだことがあるはずなのに、まったくきれいさっぱりと忘れていました。意外な結末に驚きました。こんな物語を忘れてしまうなんてことがあるだろうか…大丈夫か、私。

ジャック・カゾットは『悪魔の恋』という作品を以前からずっと読みたいと思っていますが、まだ手を付けていません。ここに収められた「オリヴィエ」は、言葉を使うかわりに音楽で意思の疎通をはかる人々の国という面白い設定がなされていて、なかなか興味深かったです。

ヴォルテールの「片目のかつぎ人足」は、途中で「エエッ!?」という展開になって、「エエッ!?」という感じで終わるので、驚きます。短いですが、面白いです。


こんな感じで、猛烈に面白かったこの一冊。
勢いづいて、ほかのフランス小説集も読んでしまおうか!


友人諸君へ!(『類推の山』再読)

2007年07月23日 | 読書日記ーフランス

扉ページに

”類推の山 ”

”récit véridique ”
とある。


”récit véridique ”が
《実話》の意であったことに今さら気が付き
朝からちょっと泣いてしまった。
喜びのあまり。







まずラーゲルクヴィストによって「人はなんのために生きるか」という問題を与えられましたが、このドーマルの『類推の山』によって私はひとつの到達点を得たと思います。
この物語がどれほどに私自身であるか、私がどれほどにこの思想に対して真剣であるか、それを説明することはまだできそうにありません。でも、いずれはそれができると思います。


とりあえず今は、友人諸君に一言。

私のような人物には「もう付き合い切れない」とお思いになったとき、それでもちょっとの猶予は与えてもよいとお考えでしたら、どうかこの物語を思い出していただきたい。
これが、私の核心です。何度も読むうちに、はっきりと思い出しました。
始終つまらないことに振り回されているような私ですが、じつは馬鹿げて見えるほどに楽天家(これは何も考えていないということではなく、むしろその逆)なのです。しかも呆れるほど真剣です。
読んでいただければ、私の心根がいかに陽気で率直、前向きかつ誠実であるかが分かっていただけるかと思われます。ええ、とてもそうは思えないとおっしゃりたい気持ちはよく分かりますが…いざという時には騙されたと思ってぜひにお願いします。

いえ。
私のことなんて忘れてしまってもよいですから、「人生は生きるに値するだろうか」という疑惑に直面したとき、あるいは「個人の一生にどれほどの価値があるだろう」「こんなことをやる意味はあるだろうか」とふいに不安になったときには、どうかこの物語のことを思い出してください。
それだけで、私という人間がほんの少しでもあなたがたに関わりを持ったということに意味も価値も生じます。それだけで私は充分ですが、たったそれだけのことがいかに難しいかということはよく分かっています。しかし、その困難こそが私を生かしているとも言えます。



さまよい歩いているようにしか見えなくても、私はその山を目指しています。

このことは、つまり、なんて愉快なんだろう!

こんなふうに、かつて誰かを希望に震えさせた物語があったのだということを、どうかいつか必要になったら思い出してください。そしてもし、読み終えたあなたにも同じ作用を及ぼすならば、それだけこの物語の持つ思想の確かさが証明されることでしょう。

ここまで読んでくれたことに感謝します。
どうもありがとう。



『類推の山』
ルネ・ドーマル 巖谷國士訳(河出書房)

《あらすじ》
はるかに高く遠く、光の過剰ゆえに不可視のまま、世界の中心にそびえる時空の原点――類推の山。その「至高点」をめざす真の精神の旅を、寓意と象徴、神秘と不思議、美しい挿話をちりばめながら描き出したシュルレアリスム小説の傑作。
”どこか爽快で、どこか微笑ましく、どこか「元気の出る」ような”心おどる物語!!


《この一文》
”とすれば、私はそれを発見することに全努力を注ぐべきなのではないだろうか? たとえそんな確信に反して、じつはなにかとんでもない錯覚のとりこになっているのだとしても、そういう努力をついやすことでなにひとつ失うものはないだろう。なぜなら、どのみちこのような希望がなければ、生活のすべては意味を失ってしまうだろうからだ。 ”



**およそ2年前の初読の感想はこちら→→『類推の山』**
(このときの私はまだ気が付いていないようです。いろいろなことに)

『ペンギンの島』

2007年04月23日 | 読書日記ーフランス
アナトール・フランス 近藤矩子訳
「新集 世界の文学23」(中央公論社)


《あらすじ》
悪魔に謀られて海を漂流した聖マエールは、辿り着いたある島で、小柄で大人しい人々に出会う。聖マエールは、その見たところ何の信仰も持たず素朴な未開の人々に洗礼を施す。しかし、聖マエールは老齢と疲労のために目がよく見えていなかった。彼が洗礼を施したのは、人ではなくペンギンであったのだ。
洗礼を受けたペンギン人の古代から未来までを描く。


《この一文》
” そこでオブニュビル(ぼんやり)博士は頭を抱え、苦々しく考えた。
 「結局、富と文明も、貧困や野蛮と同じだけ戦争の原因をはらんでいるのであってみれば、人間の狂気も悪意もついにいえることがないのであってみれば、遂行すべき正しい行為は、ただ一つあるのみだ。賢者はこの惑星を爆破するに足るだけのダイナマイトを積むがよい。この地球が粉微塵になって虚空に散るとき、宇宙はほんの少しばかり、ましなものとなり、宇宙の良心にはいささかの満足がもたらされるだろう。もっとも、宇宙の良心なんて、もともとありはしないのだが」
   ―――「第四の書 近代―――トランコ」 より   ”


”そしてまた、疑う能力は結局めったにないものだからである。きわめて少数の人間のみが、この能力の萌芽を蔵しているが、これは養い育てることなしには成長しない。この能力は独得であり、精妙であり、哲学的であり、反道徳的であり、超越的であり、怪物的であり、悪意にみちており、人格、財産にとって有害であり、国家の秩序、帝国の繁栄に反するものであり、人類に害毒を流すものであり、神々を毀つものであり、天においても地においても忌み嫌われるものであるのだ。
   ―――「第六の書 近代―――八万束の秣(まぐさ)事件」 より  ”






ついに読了です。
このような壮絶な物語が埋もれてしまっているというのは、実に惜しいことです。絶版だなんて、あんまりですね。こんなにも面白いというのに。


さて、物語はペンギン人の歴史を語るという体裁をとって進みます。古代に洗礼を受けたところから始まり、中世、近代、そして未来という時代に、ペンギン人はいかにして生きたのかがユーモアを交えながら風刺的に描かれていました。正直なところ、アナトール・フランスがこんなに面白い人だったとは思いませんでした。どちらかと言うと真面目なイメージがあったので、驚かされました。実に面白い。
あとがきには、フランスはヴォルテールの流れを汲んでいるという解説がありましたが、なるほど納得です。ただ面白いだけではありません。


私が特に転げ回りたいほどに面白いと思ったのは、物語の始めの部分であるペンギンたちが洗礼を受けるところです。お年寄りの聖マエールがいちいち面白い。そして、ペンギンという「救われるべき魂を持たぬ存在」に対して、聖マエールが洗礼を授けてしまったことをめぐって、天界は大騒ぎになります。神様とそれを取り囲む聖人の面々の繰り広げる会議が、猛烈に面白い。ああ、面白い! 神様の人格(神格と言うべきか)がかなり大雑把な感じで最高でした。

そうやってペンギン人の歴史が始まり、それに続く神話的時代の物語もまた、かなり興味深かったです。後世に《聖女》として祀られている女の、その《聖女伝説》はいかにして仕組まれていったのかをとても魅力的に語っていました。伝説というのは、もともとはまあこんなものだったのだろうなあということを考えさせられます。

さらに時代は下り、ダンテを揶揄するがこときある僧侶の《冥界くだり》の章も、私には興味津々でした。かねてから私は、ヨーロッパのキリスト教世界の人々の間では、ギリシア・ローマ時代の神様とキリスト教の神とは、一体どういう関係になっていのかしらと疑問に思っていたのですが、この章を読むと少しなるほどと思わされました。そうだったのかー。ふうむ。


このように、物語の前半は皮肉のなかにも笑いが多く含まれているので、とても楽しく読むことができるのですが、後半になって時代が進めば進むほど、世界はどんどんと暗さを増していきます。

政治的策略と戦争の時代。そして、極度に工業化した資本主義社会における人間の暴力と崩壊に行き着かざるを得ない絶望的未来世界。人間の欲望の際限のなさ、果てもない愚かさ、哀しみが充ち溢れています。特に、未来の世の中の描写は、まさに我々の現代をかなりの部分で言い当てているので、それがまた悲しい。前から分かっていたことを、やはり避けられない人間というのは、単純で哀れな生き物であるように思えて仕方がありませんでした。滅入ります。しかし、物語の結末は単に暗い予感を表しているのみならず、そこには何か肯定的なものがないと言えないこともないようです。


読み終えて凄かったと思うのは、語られる時代ごとにその時代の雰囲気がぴったりと表現されていることでしょうか。それゆえに、章ごとにバラバラに読んだとしても、それぞれがひとつの物語としても十分に魅力的です。それでいて、もちろんそれぞれの物語は一続きにきちんと繋がってもいるのです。そんなのは当たり前のことかもしれませんが、凄い。圧倒的です。


「救われるべき魂を持たぬ存在」であるのは、ほんとうにペンギンだけであるのか。ペンギンとは何を指しているのか。考えなくても分かりそうなものですが、その問題のみならず、色々なことをもっと深く考えることを強いられるような深くて広い物語でありました。物語のところどころに、あまりに鋭い意見が述べられているので、私はいったいどこを引用しようかと迷いに迷いました。きっと将来、何度読み返してみてもその度に、「あ、これは」というような文章に出くわすだろう予感がきっぱりとあるのでした。




フランス文学に浸かる

2007年04月18日 | 読書日記ーフランス
5、6回は読み直しているルネ・ドーマルの『類推の山』をひとまず置いて、この間ようやく入手したアナトール・フランスの『ペンギンの島』を読み始めました。これが、非常に面白い!

このところ面白い文学作品にすっかり慣れてしまった私は、実のところそれほど期待はしていなかったのですが、それは大間違いでした。相手はあのアナトール・フランスですよ。面白くならない訳がなかったのです。あー、面白い、面白い。なんて面白いんだろう! もう最高です。

とにかく面白いので、はやく読み終わりたいのですが、今はちょうど真ん中あたり。昼休みも惜しんで読んでいます。どうにも興奮しすぎて、やたらとそわそわしているのですが、週末には読み終わりそうです。どきどき。


それから、アルフォンス・アレの短篇集も発見してしまいました。近いうちに手に入れるつもりです。うふふ。こんなのを見つけちゃうなんて、すっげーツイてるな。


そんな感じで、私の中では相変らずフランス小説が熱いです。どうしてこんなに刺激的なんでしょうねえ、フランス文学は。もっと浴びるほどに読みたいものです。あー、そう言えば、あれも読みたかったんだった………。


『悪魔のような女たち』

2007年03月18日 | 読書日記ーフランス
バルベー・ドールヴィイ 中条省平訳(ちくま文庫)

《あらすじ》
若い陸軍士官と高貴玲瓏たる美女アルベルトの秘密の逢瀬をまつ戦慄の結末、パリの〈植物園〉の檻の前で、獰猛な豹の鼻面をぴしりと黒手袋で打つ黒衣の女剣士オートクレールの凄絶な半生、みずから娼婦となってスペインの大貴族の夫に復讐を図る麗しき貴婦人シエラ=レオネ侯爵夫人……。華麗なバロック的文体で描かれた六篇の数奇な物語を、魅力あふれる新訳でおくる。

《この一文》
”でも、無垢な者は、その無垢ゆえに、しばしば堕落するものでしょう……。
       ―――「ドン・ジュアンの最も美しい恋」より   ”

”死が人生の終わりなのではない。しばしば魂の死は人生の終わりよりずっと前にやって来るのである。
       ―――「無神論者の饗宴にて」より   ”




ときどき、読みながら髪がざわざわと逆立つ感じのするような本に出くわします。これも、そのような本の一冊でした。

ちょっと前に読んだ『怪奇小説傑作集4・フランス編』に収められていたこの人の「罪のなかの幸福」という作品が猛烈に面白かったので、こちらも読んでみることにしました。「罪のなかの幸福」は、この『悪魔のような女たち』にも収められています。全部で6つの物語を読みましたが、ただならぬ面白さです。とにかく勢いが半端でありません。頁をめくると、見開き2頁分でおよそ5、6個は「!マーク」が見つかります。凄いんです。燃えているんです。そして、いちいち名言が多し! とても全てを引用することはできません。凄いなあ。


「貴族主義」ということが、この人の作品から感じ取れる特徴のひとつであると思いますが、登場人物やかれらの服装、小道具などの描写は豪華絢爛、美しくって堪りません。また、この時代の貴族たちはすでに滅び行く種族であったため、悲壮感が漂うのも事実です。いや、読めば分かりますが、美しいとか悲しいとか激しいとか、一言で説明することはできません。とても一言では片付きません。それほどに、物語の振幅が大きいのでした。6篇を通して読めば、ある程度のパターンがあることにはすぐに気が付きますが、それでも、読んでいる間は、物語がどのように展開するのかはさっぱり見当も付かない密度の高さでした。確実に言えることと言えば、とにかく面白いということでしょうか。

登場人物たちは、いずれもほとんど悪徳浸けの生活を送る神を恐れぬ者たちばかりなのですが、かれらのような無神論者たちにも、ときどきはある種の信仰心のようなものが見えたり、やはり見えなかったりします。揺らいでいます。無垢と滅亡が緊密に接していたり、愛と悪行はほとんど同一のようだったりしています。面白いのです。興味深いのです。それが、華麗で怒濤の勢いをもって描かるので、私はもうすっかりやられてしまいました。

私がとくに興奮したのは、最初の「深紅のカーテン」と、5番目の「無神論者の饗宴」でしょうか。それと「罪のなかの幸福」ももちろん。「深紅のカーテン」と「罪のなかの幸福」には、いずれも女のように美しい男と男のように逞しくやはり美しい女の恋愛が描かれているのですが、それがなんだか無闇に魅力的です。もうだめです。こんなに興奮したのは久しぶりです。なんだこれは。「無神論者の饗宴」のほうは、無垢と悪徳が完全に同居した精神を持つ女の怒濤の物語です。これは相当に過激です。真夜中に読んだら、怖いかもしれません。

本当は12篇で構成されるはずだったのが6篇にとどまったのは、6篇を出した段階で発禁処分になったからなのだそうです。たしかに、現代の私が読んでもやや過激な内容でした。あと6人の女たちの話がどんなものだったのかを知ることができないのはまことに残念至極であります。




私はフランス小説に関してはいつも気楽に読めるつもりでいるのですが、ときどきその期待をかなり激しく裏切られてしまいます。もちろん、その裏切りは、私の喜びを激増させることは言うまでもありません。

『怪奇小説傑作集4 フランス編』

2006年11月06日 | 読書日記ーフランス
G・アポリネール他 青柳瑞穂・澁澤龍彦訳(東京創元社)

《収録作品》
ロドリゴあるいは呪縛の塔(マルキ・ド・サド)/ギスモンド城の幽霊(シャルル・ノディエ)
シャルル十一世の幻覚(プロスペル・メリメ)/緑色の怪物(ジェラール・ド・ネルヴァル)
解剖学者ドン・ベサリウス(ペトリュス・ボレル)/草叢のダイアモンド(グザヴィエ・フォルヌレ)
死女の恋(テオフィル・ゴーチェ)/罪のなかの幸福(バルベエ・ドルヴィリ)
フルートとハープ(アルフォンス・カル)/勇み肌の男(エルネスト・エロ)
恋愛の科学(シャルル・クロス)/手(ギー・ド・モーパッサン)
奇妙な死(アルフォンス・アレ)/仮面の孔(ジャン・ロラン)
フォントフレード館の秘密(アンリ・ド・レニエ)/列車〇八一(マルセル・シュオッブ)
幽霊船(クロード.ファレール)/オノレ・シュブラックの消滅(ギョーム・アポリネール)
ミスタア虞(ゆう)(ポール・モーラン)/自転車の怪(アンリ・トロワイヤ)
最初の舞踏会(レオノラ・カリントン)


《この一文》
”「ただ事実があるのだ。そしてその事実が、あなたと同様このわしを驚かすのだ。いつまでもつづく幸福という現象、ふくれあがるばかりで決して割れないシャボン玉! 幸福がつづくというだけでも、すでにそれは一つの驚異なのだ。いわんやこの幸福が罪の中の幸福であるというにいたっては、あいた口がふさがらない。」
 ---「罪のなかの幸福」(バルベエ・ドルヴィリ)より       ”



21編もの短編小説が収められているので、全部読むまでにはちょっと時間がかかってしまいました。しかし、どれもとても面白い物語ばかりでした。

サドの「ロドリゴあるいは呪縛の塔」は、予想と違って面白かったです。サドに関しては、かつて『悪徳の栄え』を途中まで読んで、なんとも言えない気持ちになり、それ以上は読まなくていいやと投げ出した経験があります。なので、期待はしていなかったのですが意外にもすごく面白かったです。

ノディエの「ギスモンド城の幽霊」は、登場人物のひとり神秘主義者で激しやすい性格のセルジイには共感しました。もうひとりのブートレも、「ともかくヴォルテールとピロンの言葉を思い出してみたまえ!」と言っては、ありとあらゆることにかたを付けるあたりの性格が素敵。
物語の展開も良い感じです。登場人物たちはギスモンド城で幽霊に遭遇するのですが、その場面がとても幻想的で、しかもちょっとおかしいような。ノディエってこんなんだったっけ?と、昔読んだ『ノディエ幻想短編集』(岩波文庫)の内容をきれいさっぱり忘れてしまっていることに気が付きました。ちらっと読み返すと、「ベアトリックス尼伝説」が猛烈に面白かったことを思い出しました。これって、この人の作品だったのか。なるほど。

ゴーチェの「死女の恋」は超傑作。何度読んでも面白いです。私はこの本のほかにも岩波文庫と教養文庫から出ていた同じ物語が収められた短編集を持っています。とにかく華麗でドラマティック。死女であるクラリモンドがむちゃくちゃ魅力的なのです。

バルベエ・ドリヴィリという人は、ここではじめて知りましたが、この「罪のなかの幸福」という物語はとても面白かったです。幸福を求めて罪をおかした男女のロマンスが主題なのですが、それを当事者ではなく、かれらの家庭に出入りしていた町医者によって語られるところがいいです。男女の恋はとてつもなく盛り上がっているらしいのですが、それがちょっとひねくれた医者の老人によって観察・分析されるという、その距離感がいいです。

「奇妙な死」のアルフォンス・アレは、この感じはすごく好きだなー、しかも他の作品をどこかで読んだような気がするなーと思ったら、『フランス短篇傑作選』(岩波文庫)収録の「親切な恋人」でした。あー! そうだ! 私の大好きな話だ! いずれも、ロマンチックでとぼけたようなオチが魅力的です。いいなあ。

シュオッブの「列車〇八一」は、いままで読んだこの人の作品とはちょっと違った趣でしたが、この人は創作範囲が非常に広いらしいので、こういうのもあるのかーといった感じです。不気味ではらはらしました。(そういえば、この本は「怪奇小説」なんだっけ)

クロード・ファレールの「幽霊船」は、まったく同じ話をつい最近に読んだはずと思い、調べてみると『詩人のナプキン』(ちくま文庫)収録の「颶風」と同じでした。あー、そうだった。このちくま文庫に収録された同じ人の「萎れた手」というのが最高に素敵だったんだよなー、思い出しました。「幽霊船」は、個人的には、まあまあというところでしょうか。

他の作品も、なかなか味わいがあって良いものばかりでした。やはりフランス小説は良い。おすすめの一冊です。

『カンディード 他五篇』

2006年06月20日 | 読書日記ーフランス
ヴォルテール作 植田祐次訳(岩波文庫)


《あらすじ》
人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは……。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の苛酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694-1778)の代表作。作者の世界観の変遷を跡づける5篇のコントを併収。新訳。

《収録作品》
ミクロメガス(哲学的物語)/この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)/ザディーグまたは運命(東洋の物語)/メムノン(または人間の知恵)/スカルマンタドの旅物語(彼自身による手稿)/カンディードまたは最善説〈オプティミスム〉


《この一文》
” ロックを信奉する小さな男がすぐそばにいた。最後にその男に言葉をかけると、男はこう言った。
 「わたしは自分がどんなふうに考えているのか分かりませんが、五官のきっかけがなければ決して考えなかったことは分かります。非物質で知的な実体が存在するということは、わたしが信じて疑わないことです。しかし、神には思考を物質に伝える力がないということは、わたしが強く疑っていることです。わたしは永遠の力をあがめます。それを制限するのは、わたしの役目ではありません。わたしはなに一つ断言はいたしません。物体の存在はわれわれが考える以上にたくさんあるかもしれないと信じるだけで満足しています。」 
   ーー「ミクロメガス(哲学的物語)」より ”

”「不可解きわまる人間よ」と、彼は叫んだ。「いったい、どうしたらこれほどの下劣さと偉大さ、徳行と犯罪とを結合させることができるのか」
   ーー「この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)」より”


『バビロンの王女・アマベッドの手紙』に引き続き、ヴォルテールを読みました。二冊に収められた計八話を読み通して思うことと言えば、ヴォルテールは偉大です。圧倒的な表現力、おそるべき批判精神。この迫力はただ事ではありません。私の精神活動に大きな影響を与えるものとなることは、ほとんど決定的となりました。


上に引用した「ミクロメガス」は、冒頭からかなり面白かったです。ミクロメガス氏はシリウス星人で、友達の土星人とともに地球へ降り立ちます。SFだ。内容は、副題と引用した箇所からもお分かりの通り、哲学的な対話を中心とした物語です。色々な考え方が提示されているのですが、どうやら私もロック派っぽいです。ちょっと勉強してみようかと思ってます。

もうひとつ上に一文を引用した「この世は成り行き任せ」もとても興味深いです。天使により命を受けたバブークは、ペルセポリスが滅ぼすべき土地であるかを調査しますが、そこには良いところがあるかと思えば悪いところもあり、しかも両者は同時に存在し互いに分ちがたく緊密に結びついているのでした。彼はどのように報告したらよいのか悩みます。悪と見える物事のもう一方の面が善に繋がっている、ということをうまく表現したところが、凄い。しかも物語としても面白いのです。

「ザディーグまたは運命」は、「バビロンの王女」に似て比較的楽しめる物語でした。主人公のザディーグはその誰よりも優れた才能のためなのか、次々と災難に見舞われます。しかし、最終的には、「バビロンの王女」のアマザンのように、そのたぐい稀な性質のために、最終的にはしかるべき地位を手に入れます。ハッピーエンドです。もちろん、これまでに読んだヴォルテールの物語は、どれもそれなりにハッピーエンド(もしくは”さほど悪くない終わり”)で、嫌な読後感に苦しむことはありません。この物語はそのうちでも、壮大なハッピーエンドと言えますかね。「バビロンの王女」に似ていたと思うのはそこです。

「アマベッドの手紙」を読んだ時、その生々しさに少々おじけづいてしまった私ですが、「カンディード」はそれを遥かにしのぐ生々しさです。この世のありとあらゆる悪行と不幸が、これでもかと陳列されています。あまりに立て続けにならべられるので、しまいにはそれにも慣れてしまいそうなほどでした。それが恐ろしい。話中の数々の残虐行為は、それがたかだか物語の中の話だと言って済まされないだろう深刻さをもって迫ります。いくらでも実際に起こり得ただろうし、現在も起こっているかもしれず、これからも起こるでしょう。そう思うと、まことに暗胆たる気持ちになりました。

「バビロンの王女」同様、「カンディード」でも、若者は世界中を飛び回り世の中のありとあらゆる悪に翻弄され、一方で人間がほとんど到達できないような土地にのみ存在する善意と幸福の国をも訪れます。”すべては最善の状態にある”と信じるカンディードも、どこまでも彼を滅ぼそうとするようにしか見えない苛酷な運命に見舞われ、最終的にはある結論に達します。私もその結論にはとても納得しました。人間は必要なものを必要なだけ自らの手で育て獲得できればよいわけで、過剰のものを持てば奪われ、それを与えられても足りず、足りなければ奪い、奪われれば奪い返すというようにひたすら新しく不幸を生み出すばかりなのかもしれません。私には、この物語の結末は決して派手ではありませんが、身に沁みました。人間は不足を自らの裁量でもって補うことが出来るはずだ、それには権力や富などはほとんど必要がない。ささやかではありますが、強固な希望が打ち立てられているように感じました。


ヴォルテールの作品に少しばかり触れてみて気が付いたことは、彼の物語はいつも、大地震や疫病などの自然災害と、殺戮や暴行、強奪など人間によってひき起こされるあらゆる犯罪が、誰彼かまわずあらゆる人間の上に等しくふりかかることへの疑問が提示されているようです。また、我こそがそのような災厄や悪行から人々を守り教育すると触れ回っている高い地位にある者が、その立場を利用して考えうる限りの悪徳を生み出しのさばっているということに対する彼の激しい怒りも感じます。
そして、そのような絶望的な世の中を、いつも異邦人が見てまわることになります。この形式が、これらの物語を一層印象深いものにしているのではないでしょうか。主人公が彼とは違う考えと風習を持つ人々を観察する目になることで、読み手もまた物事にはあらゆる見方があり得るということ、世間はときに不可解な迷信のようなものに支配されてしまうことなどに気付かされるようです。

この人は私にとってはただの人ではなくなりました。彼が私よりも先に生きて考えてのこしてくれたことを、感謝せずにはいられません。きっとこの先、何度でも読み返すことになるでしょう。

『バビロンの王女・アマベッドの手紙』

2006年06月06日 | 読書日記ーフランス
ヴォルテール作 市原豊太/中川信訳

《あらすじ》
千一夜ふうの恋物語の中でフランス社会を風刺した小説と、書簡形式をかりてキリスト教を批判した短篇。ともにフランス特有のエスプリがきいた好篇。


《この一文》
” それはこの世で最も正しい、最も洗練された、最も英邁な君主であった。民衆に農業の尊さを教える為、眞先に小菜園を手ずから耕したのはこの皇帝であった。帝は初めて有徳賞を制定した。恥ずべきことだが、ほかのどこの国でも法律は犯罪を罰するだけにあるという有様であった。この皇帝は外国人僧侶の一団をその頃彼の国土から追放したばかりであったが、この連中はシナ全土に彼らと同じ考えを持たせようという呆れ返った望みを抱いて西洋の果からやって来たもので、真理を知らせるという口実のものに、既に富と尊敬をえていた。皇帝は彼らを放逐するに当って、帝国史に記されている次の言葉を、彼らに述べた。
 《汝らはよそで行ったと同じ悪を当地で行う恐れがある。汝らが来たのはこの世で最も寛容な国民に非寛容の教義を説く為だから。私が汝らを送り返すのは、汝らを処罰せねばならなくなるのを避ける為だ》
  ーーー「バビロンの王女」より  ”


ヴォルテールという人は闘う啓蒙の人だったそうです。たしかに、ここに収められた2つの物語からもその批判精神というものを強く感じることができました。しかし、ところどころに強いメッセージをこめつつも、物語自体として非常に美しく、また楽しいものに仕立てているところが、この人の凄いところです。「バビロンの王女」は久しぶりに私を夢中にさせました。なんという面白さでしょうか。そう、私はこういうのが好きなのです。

「バビロンの王女」は、バビロンの美しいフォルモザンド姫と、ガンジス河の東の岸にあるという伝説的な国ガンガリードの若者アマザンとの、世界中を駆け巡る壮大な恋の行方を軸に、世界各地のさまざまな国の政治と宗教、社会体制の批判、評価などを盛り込んだ密度の濃い物語になっています。
とにかく描写の華麗さにはうっとりです。とくに、美しい姫さまを貰い受けるために開かれた3人の国王たちの腕比べの場面は素晴らしい。物語の冒頭としては、最高です。私は心を鷲掴みにされました。言葉を話す美しい猛禽が出て来たりもしますし。実にロマンチック。

登場人物もなかなか面白い。まず、主役のお姫さまからして、逞しい。いやらしいエジプト王に迫られるという窮地を脱すべく、策略の一部として王女はエジプト王に接吻を与えるのですが(あとで「騙すためには仕方なかった、私は無実です。というかむしろそれこそアマザンに対する愛の証拠」というようなことを言ってます。とても現実的な人)、一方、姫さまの様子を覗き見るために遣いにやったツグミ(鳥。ガンガリードは動物も言葉を持つ国)から、その接吻の事実を聞いたアマザンはショックのあまり放浪の旅に出てしまいます。「王女に貞節とは何かを知らしめるため」と言って世界中の美女に誘惑されても「私には愛する人がいますから……」と言って拒絶します(注:この時点でアマザンはまだ姫の愛を知らず、片思い同然であるところがポイント)。ふふふ、いいですね、思い込みが激しくて。そして、王女は、そのように自分のことを愛するが故に傷付いてさまようことになった恋しいアマザンをどこまでもどこまでも追いかけることになるのでした。貞節を守り抜くアマザンとそんな彼に恋情を一層燃え上がらせるフォルモザンド姫。それなのに、アマザンはついうっかりあんなことになってる現場を姫に目撃されてしまうのでした………姫さまは激怒、今度はアマザンが許しを乞うべく姫を追います。あー、面白い。私は恋愛小説にはほとんど興味はありませんが、ここまで勢いがあるものなら好きですよ。こんな感じで、基本的にはこの二人の追いかけっこに終始します。

この恋愛物語の間に、彼らが途中で訪れた世界中の国々についてのお話が挟まっているというわけです。これがまた面白い。あまりに面白かったので、私は苦手な世界史や古代の地理について勉強してもよいという気にさえなりました。本当は引用したいところが沢山あったのですが、多すぎるので、上の一文のみにおさえました。清の世宗皇帝のことだそうです。実際に耶蘇会士を追放したらしいです。実際はどうだったのかわかりませんが、この通りだとしたら凄いですね。自分が絶対に正しいと訳もなく信じていて、それを他人にも当然のごとく押し付けようとしたり、正義の名を借りて自己の欲望を満たそうと相手をそれらしく説得させようとすることはよくありますよね。そういう勢力に確固たる意志をもって、しかも理性的に平和的に立ち向かうことのできる人間は、なかなか得難いのだろうなあ。


「アマベッドの手紙」は、ベナレスに住むアマベッドとその妻から波羅門の大士シャスタシッドへ宛てた手紙の形式をとったキリスト教批判の物語です。もうとにかく批判的です。生々しいです。お話としては、派手な「バビロンの王女」のほうが私の気に入りましたが、こちらもやはり興味深い作品には違いありません。

いやはや、面白かったです。ついでに色々啓蒙もされた気がします。おそろしいですねー、ヴォルテールは。なんで今までこの人の作品を読まずに来られたのでしょうか、不思議です。『カンディード』も読まなきゃ。久々の大ヒット。