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『書痴談義』

2009年06月18日 | 読書日記ーフランス

P・ルイス/O・ユザンヌ/G・デュアメル/L.G.ブロックマン
生田耕作編訳(白水社)



《収録作品》
*書庫の幻…P・ルイス
*シジスモンの遺産…O・ユザンヌ
*書痴談義…G・デュアメル
*アルドゥス版殺人事件…L.G.ブロックマン

《この一文》
“しかし、それがなんの役に立ちましょう? 人間の一生はみな同じように平たく圧し潰されます。たとえどのようなものであれ、あなたの一生もやはり《人生》を越えられません……
 ――「書庫の幻」(P・ルイス)より ”

“「無数のクールタンが生まれ出ては滅びるだろう。それでもこの宇宙を支配する遠心力は止められない。どんな蒐集もいつかは散らばるのだ」
 ――「書痴談義」(デュアメル)より ”



どうしたらよいのか分からないほどに面白かったです。この感情のたかぶりをいったいどう表現したものでしょうか――。



書庫の幻…P・ルイス

先日「新しい逸楽」という短篇によってはじめて知ったピエール・ルイス。この人の作品を読みたくて借りてきた本書ですが、この「書庫の幻」も完璧な作品でした。あまりにも私の魂にぴったりとくる作風に、やはりこの人は私の運命の人に違いないことを確信します。私にはほかにも多くの運命の人がいますが、彼らのすべてが既に魂の一部だけを地上に残して去った人々であることを考えれば、さらに愛情や熱狂的崇拝はただひとりの人だけに捧げるべきものでは必ずしもないことをも考えあわせれば、これは浮気でも何でもないと言えましょう。しかし、この作品の、なんという素晴らしさ!

家族からの愛情を一身に受け、十二歳の今日までただの一日たりとも一人っきりで放置されることのなかった少女シール。ところがこの日は、父母も小間使いも家庭教師でさえも出かけてしまって、広い家のなかに二時間ばかりのあいだ、シールはたったひとりで取り残される。心細さを感じつつも、シールはこの機会をとらえて、普段は出入りを禁じられている最上階の書庫へ入り、そこで巨大な一冊の本を取り出し、こっそりと開いてみると、書物のあいだから現れた聖女さまが、三つだけ、彼女の質問に答えてくれるという……というお話。


もう死んでしまうかと思いました。ごく、ごく短い物語ではありますが、私自身の人生観がはっきりとこの物語のなかにも読めてしまって、そのあまりの一致、一体感にしばらくは声も出ませんでした。人生を常に思い迷っている人間にとっては、かなりの衝撃をもたらす短篇ではないでしょうか。

少女シールは無断で書庫へ入ったことで、あとで父から叱られます。しかし、彼女の「私の人生とは?」という問いに聖女が答えて言った内容を父に告げると、彼はどうにか微笑を浮かべようと甲斐のない努力をしながら、青ざめた顔でシールに言って聞かすのです――「人生は美しい…人生は楽しい…人生は……」

私はシールでもあり、彼女の父でもある自分をここに発見します。人生とは、幸福とは何かということを知りたくて、追い求め、追いすがりますがいつも追いつけず、失望のなかで「世界は美しい…人生もまたいくらかは美しいはずだ」と唱えては、どうにかここまでやってきたのではなかったでしょうか。信仰心とも言えるほどの強さでこの考えを掲げ、ぎゅっと固く目を瞑って、暗がりの中に星の輝きを認めたつもりで、しかし一方では常に「だがいったい何のために? これはいったい何のために?」とおののきながら、私はそうやって人生をここまで引き摺ってきたのではなかったでしょうか。

我が身を、私のこの人生というものと照らし合わせると、心は相当に揺さぶられてしまう物語ですが、しかしこのお話はたしかに美しいものです。私の人生がどうであろうと、この物語は美しい。私にはそのことのほうが重要に思えます。私の魂のなかにも存在するだろうものを、美しく取り出してくれる人が、作品がある。美しいものとの出会いの歓びは、甲斐のないみじめなこの人生に対する悲しみや虚しさを凌駕します。私はこの瞬間だけは、そのことを忘れてしまえます。

物語のなかで聖女さまは「《人生》を越えられない」とおっしゃいますが、もしかすると越えられるのでは? ほんの一瞬だけなら、周囲をほんの少しだけ照らし出すマッチの炎くらいささやかなものだとしても、あるだけのマッチを擦ったらいいんじゃないだろうか。ずっと続く暗闇の合間に、わずかなあいだだけでも、たとえばこの物語やあの物語のように自分の想像を絶する美しいものを目にし、それに満足して、そうやって生きてもいいんじゃないだろうか。このときばかりは私は別の誰かの魂と一体となって、自分の人生を越えているとは言えないだろうか。……言えなくてもいい。たしかなものなど何一つ手に入らなくても。どのみち甲斐もなく終わりをむかえるものならば、夢見るように生きて、そのまま滅びたい。

そんなことを、とめどなく思ってしまう、とても印象的なお話でした。ピエール・ルイスを、もっと読むつもりです。



シジスモンの遺産…O・ユザンヌ

これは、「本」という物体に愛着を感じ、それを集めることに喜びを感じるタイプの人にとっては、それはそれは共感と恐怖を得られる作品かと。
稀少本を手に入れたい場面で、ライバルが自分を差し置いてそれを手に入れた場合、「畜生、死ね!」と思わない人はいないかもしれません。私もそう思ったことがあります。

憎きライバルが死んでその蔵書を狙っていたら、遺産相続人によってその入手を阻まれるばかりか、本そのものに憎悪を抱くその相続人によって貴重な蔵書が過酷な環境にさらされることになり、それを黙って見ていられない男との壮絶な攻防戦が繰り広げられる…というお話。

これはかなり面白かったです。本の装丁などに愛着を感じる人は、きっと落ち着いて読むことは出来ませんね。結末などはもう絶叫ものです。ひどい!!


書痴談義…G・デュアメル

デュアメルというと『真夜中の告白』を読んだことがあります。読むそばからたちまち内容を忘れてしまう物忘れの激しい私ですが、『真夜中の告白』はおぼろげに覚えています。会社の偉い人の耳を、なんでだか分からないけれど触ってしまったことでクビになった男の話でした。お母さんと婚約者だか近所に住んでるだけだったか忘れたけど若い女の子が、一生懸命縫い物だかをしている場面が記憶にあります。ま、でも覚えているのはそれだけで、おおよそ忘れています……私ときたらもう。

この「書痴談義」は、蒐集家のクールタン氏が、蒐集を始めた頃から、次第に熱中して、最後は蒐集し尽くして、その都度まるで人が変わったようになっていくさまを描いた作品。

これも相当に面白かったです。デュアメルもいいですね。もっと読みたいなあ。『真夜中の告白』は《サラヴァンの生活と冒険》という連作小説のなかの1篇だそうなので、他のも読んでみたい。しかし、図書館にはなかった……! 買えってことですね? ああ、私はクールタン氏と違い、本そのものよりもその中身により愛情を掻き立てられる方ですが、無闇に集めたくなるその気持ちは、分からないこともないどころの話ではないのでした。


アルドゥス版殺人事件…L.G.ブロックマン

これは一応推理小説らしいです。フランスの作家ばかりのところへ、この人だけはアメリカ人らしい。でも舞台はフランス。

貴重な本の競売を明日に控えた館で人が死にます。

……しかし、どこが推理小説なの? いや、事件が起こってそれが解決するんだから一応は推理小説なんだろうけど、でもあまり推理してなくない? 事件が起こるなり、すぐに解決篇だし; でもこのあっさり感は嫌いじゃないですね。




本文ページにはすべて美麗な飾り枠がつけられた、なかなか凝ったつくりの本です。これは借りてきたものなのですが、ぜひ手もとに置いておきたい! と転げ回る羽目となった一冊。ああ~、思うつぼです。しかし本の魔力というのは本当に侮れないものなのですね……



『フランス文学19世紀』

2009年06月09日 | 読書日記ーフランス

鈴木信太郎 渡辺一夫共編
(世界短篇文学全集6 集英社)



《収録作品》
*知られざる傑作…バルザック
*チェンチ一族…スタンダール
*ミミ・パンソン…ミュッセ
*シャルル十一世の幻想…メリメ
*死霊の恋…ゴーチエ
*解剖学者ドン・ベサリウス…P・ボレル
*シルヴィ…ネルヴァル
*ラ・ファンファルロ…ボードレール
*アデライード…ゴビノー
*ジュリアン聖人伝…フローベール
*くびかざり/テリエ亭/ジュール叔父さん/シモンのパパ…モーパッサン
*誤解…ドーデー
*ドン・ジュアンの最も美しい恋…ドーヴィイー
*未知の女/断頭台の秘密…リラダン
*パンとシュリンクス…ラフォルグ
*葡萄畑の葡萄作り…ルナール
*クサンティス…サマン
*新しい逸楽…P・ルイス
*黄金仮面の王…シュオッブ


《この一文》
“そんならそれでもいいわ! あんたがたは海王星を発見したのね。見あげたものだわ! 昨夜からわたしはお願いしてるではないの、新しい快楽、幸福の征服、涙に対する勝利を見せて下さいと。それなのに海王星を発見したんですって!”
  ――「新しい悦楽」(P・ルイス)より



19世紀フランス文学。私がいま最も好きなところ。面白いー。今日も面白い、明日も面白い。弾け飛びそう!

『フランス文学19世紀』の短篇を集めたこの本は、どの物語もはずれなく面白いものばかりでした。素晴らしい。私にとって特に収穫だったのは、これまでなんとなく避けてきたバルザックやモーパッサンが、やはりその轟き渡る高名にふさわしく、非常に面白い作家だということが、しみじみよく分かったことでしょうか。特にモーパッサンは凄かったです。フローベールが凄いというのは、ちょっと前に読んだ別の短篇集で判明しました。こうやって私の目を無理なく開かしてくれる【短篇集】というものは、本当にありがたいものです。私は徐々に、理由のない好き嫌いというものから開放されつつあるのです。まあでも、なかなか「名作」に手を出すまでには至っておらぬのですが……


さて、フローベールの「ジュリアン聖人伝」については先日別に記事を書いたので省略するとして、その他に面白かった作品についていくらか感想を書いておこうと思います。

まず、モーパッサン。私はこの人を名前以外はまったく知りませんでしたが、ここに収められた4篇の短篇によって、かなり強い印象を受けました。
どちらかと言うと、この短篇集には幻想的でロマンチックな作品が多く収められているのですが、モーパッサンのこの4つの物語はいずれもとても現実的な、日常のありふれた一風景を扱ったものばかりです。それでもって…

「くびかざり」は、見栄張りな貧乏役人の奥さんが、舞踏会に行くのにアクセサリーが無い!といって、お金持ちの友達にダイヤのネックレスを借り、おかげで素晴らしい舞踏会の夜を過ごしたのだが、帰途、そのネックレスをなくしてしまい……というお話。……モーパッサン!! あなたはなんて底意地が悪いんだ!! と私は読み追えて絶叫してしまいました。トラウマになりそうな、気の遠くなるような結末に、私は一晩へこんで過ごしてしまいました。ああ、気が滅入る。しかし、物語には描かれていないけれど、結末より未来ではこの女の人もちょっとは報われるといいなあ。そうであってほしい!

この人はしかしどんだけ意地悪なんじゃ…と滅入った気持ちのまま次の「テリエ亭」を読みますと、今度は一転して明るく、温かく、優しい感じのお話です。しかし、適度にみじめで悲しい雰囲気も漂わせつつ。これは面白かった。
町の男たちの溜まり場となっている夜のお店を経営するマダムと、そこで働く女たち。たいそう繁盛しているお店が、ある晩はなぜか閉まっていて男たちは大騒ぎ。マダムと女たちは、マダムの姪の聖体拝受のためにマダムの弟が住む田舎へ出かけていったのだった…というお話。マダムのところの女たちが、みな気のいい人ばかりで和みます。

「ジュール叔父さん」は、またしてもちょっぴり後味の悪い読後感です。一族の問題児だったジュール叔父さんが、追い出された先のアメリカで成功を収めたという便りを受け取って以来、家族はみんなでジュール叔父さんの輝かしい帰国の日を待ち望んでいた。しかし…というお話。ジュール叔父さん、可哀想過ぎます! モーパッサン、ひどい!

「シモンのパパ」は、もうモーパッサンは信用できないわ…という気持ちで読み進めましたが、これは地味ながらとても心を打たれる美しい物語でした。父親のいない私生児のシモンは、そのことでクラスメイトからいじめられ、悲しさと悔しさで川のほとりでひとり泣いていたところ……というお話。
何でもないような地味なお話で、結末も想像通りだったのですが、それでもなお素晴らしいと言える物語でした。淡々と進んでいくようでいて、要所要所の切れ味が鋭いのでしょうか、非常に強い印象を残します。モーパッサンって、やっぱ凄いんだなーと認識した次第です。

ゴーチエの「死霊の恋」、ペトリュス・ボレルの「解剖学者ドン・ベサリウス」、ドールヴィイの「ドン・ジュアンの最も美しい恋」、シュオッブの「黄金仮面の王」などは、もう既に何度も読んでいるので、その素晴らしい面白さについてはあらためて言うまでもありません。面白いんです、もう無茶苦茶に。何度も読み返すレベル。

それから、「新しい逸楽」のピエール・ルイスという人は、たぶんここで初めて読みましたが、素晴らしく、いかにも私の好きそうな面白いお話でした。楽しさで言うと、この短篇集のなかではダントツに楽しかった! この間合いがたまらなく気持ちいい!
ある晩のこと、「わたし」のもとに素晴らしく美しい見知らぬ女がたずねてくる。女はラミアの娘カリストーと名乗り、千八百年ぶりによみがえり、夜のほんの短い間だけこの世を歩き回り、人類がいったいこの長い年月の間に何を発見したのかを探っていると言うのだが…というお話。素晴らしい完成度! 異常に面白い! ばんざい!
この人のその他の作品は、私は恥ずかしながらこれまで知りませんでしたが、今でも翻訳がいくつか読めるみたいなので、さっそく探してみようと思います。面白いなー、これは面白かった。大収穫です!



というわけで、私はフランス小説が好きでたまりません。特に19世紀から20世紀前半にかけては、私にとっての黄金時代です。このころの作品を集めた短篇集をいくつか持っているのですが、どれもこれも信じられないくらいに面白いので、たいがいは一気に読んでしまいますね。どうしてこんなに面白いのかしら……はあ、うっとり。





『ジュリアン聖人伝』

2009年06月01日 | 読書日記ーフランス

ギュスターヴ・フローベール 鈴木信太郎訳
(『フランス文学19世紀 世界短篇文学全集6』集英社 所収)




《あらすじ》
森に囲まれた城に住む気高く優しい父母のもとに生まれたジュリアン。彼が生まれたとき、父母はそれぞれにその息子が将来聖人になる、帝王になるとのお告げを受けるが、互いにそのことを誰にも言わないままジュリアンを慈しむ。だが、健やかに優しく成長したはずのジュリアンは自らの欲望と力を御しきれず、狩りに熱中するあまり残虐な殺生を重ね、殺した牡鹿から「そのうち自分の父母をも殺すだろう」という呪いを受けて、おそろしさに城を飛び出してしまうのだった。


《この一文》
ジュリアンは、自分にこういう所業を科した神に対して反抗はしなかったが、しかしこんな大罪を犯し得たわが身に絶望したのである。




ジュリアンがいかにして聖人となったかを描いた、ほんの短い物語。ごく短い物語ですが、その描写はたいへんに美しいと同時に凄まじいものです。読み終えた後、私の胸は詰まって、なんだか分からない不思議な感情で詰まってしまいました。悲しみや怒りや絶望のように痛むのに、決してそのいずれでもない、妙な感じです。ジュリアンが過酷な運命を経て最後に聖人となるところでは、涙がぽたぽたと垂れて仕方がありませんでした。

私を打ったのはなんだったのだろうかと、随分と考えましたが、よく分かりません。少し物語を整理するところからやり直してみます。



 ********************

ジュリアンは、豊かで優しい父母のもとに生まれ、不自由なく育ち、美しく力強い肉体と、鋭く深い知性、優しい心根を持った青年に育つ。彼は、望みさえすればなんでも手に入れられるはずだった。そして、彼は自分の力のままに欲求を満たし始めるが、それと同時に心は冷却し、残酷さを増して行く。あるとき、無数に集まった鹿の群れを皆殺しにし、最後に立派な牡鹿を仕留めたら、その牡鹿はジュリアンにこう告げる。「呪われて、呪われろ、残忍無慈悲な奴だ。いつかは自分の父と母とを、手に掛けて殺そうぞ」

その後、狩りと武器を恐れるようになったジュリアンは、それにも関わらず手違いから父と母を殺しそうになったことに衝撃を受け、城を飛び出してしまう。

野武士の群に身を投じたジュリアンは、そこでも力を発揮し、しだいに勢力を強めて行く。弱い人々から名高い王など、実に多くの者を助け、その名を高めていたジュリアンは、あるとき回教徒に監禁されたオクシタニアの皇帝を救出する。皇帝は褒美に娘を差し出す。ジュリアンはその美しい娘に恋し、彼女を娶った。

妻との幸福な日々のなか、ジュリアンは誰から誘われても依然として狩りに出ることだけは拒んでいた。猟に行けば、父母を殺すという預言が実現しそうな気がしたからだ。しばらくはそうやって我慢していたが、ある晩とうとう我慢できず、ジュリアンは猟に飛び出した。

ジュリアンが猟に出かけたちょうどその後、みすぼらしい老人と老婆の二人連れが城を訪ねてくる。それはジュリアンの両親だった。かつてジュリアンが生まれた城を飛び出した後、両親もまた彼を探しに城を発ったのだった。王妃は不在のジュリアンに代わって年老いた両親をもてなし、自らの臥所に彼らを休ませた。

一方、猟に出たものの、成果を上げられず立腹して帰ってきたジュリアンは、妻の臥所に立ち寄ると、両親がふたりで眠る人形を、見知らぬ男と妻であると誤解し、短剣で突きまくる。誤解が解け、妻の姿を認めたジュリアンは、とうとう呪いの通りに両親を殺してしまったことに絶望し、自分の城からも出て行く。

乞食となって諸国を遍歴するジュリアンは、人間を避け、孤独を求め、深い悔恨に涙を流しながら暮らしていたが、或る大河のほとりで、人を渡して、人に尽くして生涯を送ろうと考える。彼はその通りにし、河を渡るすべての人に、自らは何も求めることなく、逆に自分の持てるだけ全部の親切と祝福を与えるのだった。

ある嵐の夜、ジュリアン、と向こう岸から自分を呼ぶ声が聞こえたので、暴風のなかを舟を漕いで行くと、ぼろぼろの、だが不思議と威厳のある人物が立っている。ジュリアンはその人を舟に乗せ、荒れ狂う河を渡ろうと必死で漕ぐ。どうにか小屋に辿り着くと、その癩病病みの人物は腹が減ったと言うのでわずかな食べ物をすべて与える。寒いと言うので火をおこし、その人の望む通りに、自分の寝床に入れてやり、裸になって直に温めてもやる。

するとその癩病病みはジュリアンを抱きしめ、光り輝き、溢れる至楽と超人的の歓喜でジュリアンの霊魂を満たした。そうやって、ジュリアンは蒼々とした空間を登っていった。

 ********************


ふり返ってみると、前半の凄絶さがあまりにも凄まじいので、まずそれが衝撃的でした。度を超したジュリアンという人物のあり方は、度を超しているが故に、聖人とも帝王ともなる器であったと言えるでしょうか。

与えられた素晴らしい力をそのように行使しただけのことなのに、それによって望めるだけのものを望んだだけなのに、ジュリアンはなぜか幸福と平安を得られません。彼は持っていた全てを捨て去り、誰からも忘れ去られてしまってはじめて、ほんのささやかなものを得るのです。あまりと言えば、あんまりな人生です。

優しい心を持ちながらも、力の強さのみを選び、尊大さのために犯した過ちを、恐怖と嫉妬、憤りのために犯した過ちを、ひたすらに後悔し、贖罪するばかりのジュリアンの後半生は、あまりに痛ましい。この物語が私を打ったのは、こんなふうに、ささやかなものの価値を知るために、多大な損害と取り返しのつかぬ犠牲を払わねばならなかった哀れな人間も、最後にはやはり救われてほしいと私自身が願っているからだろう。結局は傷つけ、失うばかりで、何も得るところのなかったように見える彼の生涯にも、燦然と輝く美しいものがあったと、幸福とは必ずしも形ある何かを得ることではなく、罪を犯したとしても心がけ次第ではわずかばかりの平安くらいは望めるはずだということを信じたいからかもしれません。

しかし、罪を贖うことは可能でしょうか。罪はどこからやってくるのでしょうか。その罪へと人間を走らせるものは、誰かによってもたらされるものなのでしょうか。いいえ、それはすべて自分の心の内側から自分でやってきて、いつまでもそこに居座り、後悔と懺悔に苦しむことを要求するでしょう。ここに神は関係ない。自分のあり方というものにもっと注意を傾けていたら、おそらくは避けられたはずの罪に、神は関係ない。神はそれを罰しもしなければ救いもしないだろう。自分を救いたければ、自分でどうにかするしかない。そして自分を救うということは、自分の平安ばかりを考えるよりもむしろ他者のために尽くすことであり、自分の持ち物を、何かを欲っする心ごと、どんどん失っていくことなのかもしれない。全部手放して、自分と世界との境界が限りなく近づいたとき、彼はようやく、罪も罰も善も悪も、何にもないと同時に全てがある「世界」と一体となれるのかもしれない。そうやってはじめて彼は救われるのではないだろうか。そうであってほしい。私の目にジュリアンが偉大に映るのは、彼がその力をもってすれば、罪を罪とも思わないで平然と生きていくことだってできたのに、それをしなかったところかもしれません。自分だけの幸福を追求しようと思えばいくらでも出来たのに、誰かを傷つけたことなど忘れてしまって、罪を負おうとも考えずに、平然と当たり前の顔をして生きることだって可能なのに。きっと多くの人が、私もまた、そうしてきて、今もこれからもそうするだろう、そのように。だが、彼はそうしなかった。いや、できなかっただけかもしれないけれど。力にまかせて多くを奪った彼は、奪っただけのものを今度は、望まれるままに差し出して返済し、それでようやく救われたということでしょうか。自らの心によって自らを赦してもいいと、思えたということなのでしょうか。



「ジュリアン聖人伝」。こんなに真剣にこのことについて考えさせられるとは思わなかった。同じくフローベールによる『聖アントワヌの誘惑』を読み始めたところですが、笑いさえ誘う冒頭部分のために甘く見ていましたが、これはやはり気合いを入れ直さないとならないところでしょう。





天使の反逆、きた!

2009年05月28日 | 読書日記ーフランス


まだよく調べていないのですが、嬉しかったのでご報告。

アナトール・フランスの『天使の反逆』を長らく探していたのですが、どうやら【ゆまに書房】というところから、今年の4月に出たようです。ヒャッホーーッ!!

装丁があまり気に入らないですが、贅沢は言いますまい。いささか値が張るのですぐには買えないですが、嬉しい! 絶版になる前に、ぜひとも手に入れたいところです♪♪ わーい、わーい☆ やっと全篇が読める!


さっきまで泥のように沈んでいた私の心は急上昇です。
若い頃は下手すると1週間くらい沈みっぱなしだったこともあるのに、なんというか、年を取ったおかげなのか、気持ちの切り替えが早くなったなあ。しみじみ。





『マノン・レスコー』

2009年02月18日 | 読書日記ーフランス
アベ・プレヴォ作 河盛好蔵訳(岩波文庫)



《あらすじ》
シュヴァリエ・デ・グリューがようやく17歳になったとき、マノンという美しい少女に会う。彼が犯した幾多の怖ろしい行為はただこの恋人の愛を捉えたいがためであった。マノンがカナダに追放される日、彼もまたその後を追い、怖ろしい冒険の数々を経て、ついにアメリカの大草原の中に愛する女の屍を埋める。
この小説はプレヴォ(1696-1763)の自叙伝ともいわれ、18世紀を代表するフランス文学の一つ。

《この一文》
“ところでもし想像を逞しうして、これらの不幸も、結局は望み通りの幸福な結果に至るのであるから、その不幸それ自体のうちによろこびがあるというのだね。それならどうして君は、これと全然同じ構造だのに、僕の場合では、矛盾とか無分別とかいうのであるか。僕はマノンを愛している。僕は無数の苦難をとおして、彼女の傍で幸福に、平和に暮らそうと志しているのだ。僕の歩いている道は嶮しいが、自分の目的に達するという希望で心はいつも楽しいのだ。 ”



これを単なる恋愛小説と読むことは可能ですが、本書の前書きにある作者の言葉にしたがって、それ以外の問題をはらんだ物語と読むこともできることに私は賛成します。それにしてもあまりに激しい急展開に、私はついていくのがやっとでした。恐るべき物語の前に久しぶりに絶句。

主人公の青年 シュヴァリエ・ド・グリューは、家柄にも恵まれ、学業も優秀、温和で誠実、おまけに大変な美男子でもあり、まったく非の打ち所のない将来有望な若者です。ところが、ある日マノンという絶世の美少女と出会って運命を一変させてしまいます。マノンが美しいだけの少女であれば、物語は別の展開もありえたかもしれませんが、残念ながら彼女は快楽と浪費を何よりも愛し、そのためには貞節などまったく問題としない女でした。彼女によって何度も裏切られ、傷付きながらも、シュヴァリエはマノンを愛さずにはいられず、そのために全てを失い、最後には彼女自身さえも永久に失うことになるのでした。

で、このシュヴァリエですが、ほんとうにどうしようもない男です。恋の熱狂に浮かされて、家族をも友人をも裏切り、マノンとともにどこまでも転落していきます。もう見ていられません。彼の愚かさには実に堪え難いものがあります。浮気なマノンから離れれば楽になると分かっていて、それができないのです。

しかし、しかしシュヴァリエの愚かさを、いったい誰に笑うことができるでしょう。私はただただ恐ろしさに震えるばかりで、とうてい笑う気になれません。恋に狂った若者が破滅するというひとつの例によって、人間が「こうしたほうが良いとは分かっているが、しかしどうしてもそのようにできない」という局面に立たされたとき、彼はそこでどうすべきか、その問題をどう考えるべきか、そもそも彼はなぜそんな局面に陥ってしまうのか、社会的通念と彼の信条が折り合わないとしたらそういった個人または社会の幸福は両立し得ないのか、といったことを考えさせられます。

シュヴァリエの幸福はマノンとともにやってきますが、同時に彼の苦悩もまたマノンによってもたらされます。彼女の愛を得るために彼自身の真心だけでは足りず、莫大な財産が必要であるものの彼にはその財産がない。金策のため、はじめは気が進まなかったけれど、次第に多少の悪事を厭わなくなっていくシュヴァリエ。父や友人を裏切ってでも、ひたすらにマノンを求めるシュヴァリエ。この激しさは私をたいへんに恐れさせるけれども、それは私のなかにもいくぶんシュヴァリエ的な性質が潜んでいるからでしょう。そして同時に、彼がどうしようもなく転落していくのをまのあたりにし、手を差し伸べずにいられない友人のチベルジュとしての私の姿をも見いだせます。二人の葛藤は、私の、読者の心の葛藤でもあると言えるでしょう。愛による幸福か、美徳による幸福か。私たちはどちらの道を選ぶべきなのでしょうか。人間の魂にとってどちらが、より正しい、あるいはより優れていると言えるのでしょうか。

社会に生きる人間として、なるべく周囲との摩擦を避け節制し他者を思いやる美徳のうちに暮らそうとするのが求められる正しい態度と言えるのかもしれませんが、それでも誰しもが、どこかしら他人に何かを強いているところもあるのではないでしょうか。程度に差はあれども、丸っきり一人でこの世界に存在しているのでないならば、自分の幸福を実現するために、誰かを利用したり押しやったりしているのではないだろうか。私はそのことに無自覚であるだけではないだろうか。無自覚でいたいだけではないだろうか。しかし、気付かないでいられるということをもって自分には非がないと言ってしまえるものだろうか。
「もっとこうしたほうがいい」と分かっていながら、いつもそのようにすることはできなかった。このためにたくさんの人を傷つけたし、またこれからも傷つけるだろう。私にはやはりシュヴァリエの愚かさと薄情さを責めることはできない。幸福の実現ということを、どう考えたらいいのだろう。幸福ということを、どう考えたらいいのだろう。


ずっと素通りしてきた本書ですが、一昨日になって急にものすごい存在感を発揮し、私は買う気になりました。これまで何度となくあらすじを読んでいたのに、どうして急に面白そうに思えたのか不思議でたまりません。そして読んでみると、予想を遥かに超えて面白かったので、これまでずっと素通りできていたことがまた不思議でたまらないのでした。


『夜鳥』

2009年01月12日 | 読書日記ーフランス
モーリス・ルヴェル 田中早苗訳(創元推理文庫)


《内容》
仏蘭西のポオと呼ばれ、ヴィリエ・ド・リラダン、モーパッサンの系譜に連なる作風で仏英の読書人を魅了した、短篇の名手モーリス・ルヴェル。恐怖と残酷、謎や意外性に満ち、ペーソスと人情味を湛えるルヴェルの作品は、日本においても〈新青年〉という表舞台を得て時の探偵文壇を熱狂させ、揺籃期にあった国内の創作活動に多大な影響を与えたといわれる。

《収録作品》
或る精神異常者/麻酔剤/幻想/犬舎/孤独/誰?/
闇と寂寞/生さぬ児/碧眼/麦畑/乞食/青蠅/
フェリシテ/ふみたば/暗中の接吻/ペルゴレーズ街の殺人事件/
老嬢と猫/小さきもの/情状酌量/集金掛/父/
十時五十分の急行/ピストルの蠱惑/二人の母親/
蕩児ミロン/自責/誤診/見開いた眼/無駄骨/
空家/ラ・ベル・フィユ号の奇妙な航海/

《この一文》
“彼は今、或る妙な思いに浸っているのだ。その妙な思いというのはこうだ――おれがあんなに度々あんなに熱心に憬れた夢が、今実現された。おれはついに申し分のない幸福な心持を味わったのだ。不断狂人になるほど希っていたように、実際の金持になったり、美味いものをたらふく食ったり、美人から恋(おも)われたりするよりも、今のこの歓びの方がどんなに尊いか知れない。
   ――「幻想」より          ”




図書館でふと目に付いたので、借りてみました。すると最初の「或る精神異常者」をつい最近読んだばかりであったということに気が付きました。あっ、あの人だったのか。これは河出の『フランス怪談集』に収録されていました。意外な、恐ろしい結末の短篇です。

ごく短い物語はどれも非常に面白いのですが、よくもまあこんなにも残酷で救いのない、気の滅入るようなものばかり書けるなと感心します。滅入ってくるので私はいったん読むのをやめてしまったら、ここへ戻ってくるためには結構なエネルギーを費やさねばなるまいという予感がしたので、どうにか一息に読んでしまいました。少々やりきれない気持ちになりました。

ただ、残酷で悲哀に満ちた物語ばかりではあるものの、そこには何かすっきりとした、鮮やかな、手際の良さというべきものが感じられるのもたしかです。どんでん返しが多いのですが、いずれもとてもスマートに、効率的に、たとえオチが透けて見える展開であったとしても、結末は胸に刺さるような強い印象を残します。そのあたりが凄かった。面白い。

特に印象的だったのは、「幻想」という作品。ある冬の寒い日に、ひとりの乞食が「たった一時間でいいから、金持ちになりてえなア」などと考えていると、犬を連れた盲人の乞食に出くわす。最初の乞食は、盲人の乞食が可哀相になり、目の見えない彼に対して「親切な金持ち」のふりをするのだが――というお話。
泣きそうになりました。最初の乞食は、なけなしの所持金で盲人の乞食にごちそうしてやるのですが、そのことで負けず劣らず貧しい自分の境遇を忘れてしまうほどに無上の幸福を感じるのです。このあたりが実に感動的。
しかし、この物語の凄いのは、ここで終わらないこと。悲しい結末が待っています。絶句しました。何とも言えない気分です。だが、凄い切れ味だ。これがこの人のうまいところらしいです。

もうひとつは、「ふみたば」。これはなかなか洒落た短篇でした。登場する男女がともに、すごく意地が悪い。その意地の悪さ加減が洒落ています。なんとなくフランスらしくて良いです。それほど残酷でない(ような気がする)ところが、私を少し落ち着かせました。ニヤリとするような感じ。

ほかにも、さまざまな道楽に飽きた男が熱心に自転車曲芸の見せ物に通うようになった理由とは――、ずっと可愛がってきた息子が実は自分の子じゃないのではと疑うに至った男のとった行動とは――、斬首刑になった恋人の墓に供える花を買うために女が身を売った相手の男の正体は――、話題の殺人事件で犯人の残した特徴的な手形を警察の嘱託医である私が列車で乗り合わせたほかの乗客に見せると――。ああ、次はどんな不幸な結末になるのやら、とハラハラします。

振り返ってみると、どの作品もやはりとても魅力的です。スピード感、迫力があります。残酷のなかにも、ある種の美しさを、暗い歓びのようなものを描き出しています。一気に読んでしまうよりも、ひとつずつ、じっくりと読むのが良かったような気がしてきました。そして妙な話ですが、読み返しているときのほうが最初に読んだときよりも面白い。
……なんでだろ。借りて読めば十分と思っていましたが、やはり自分でも持っていたほうが良いようにも思えてきました。



『モーパン嬢』

2009年01月07日 | 読書日記ーフランス

テオフィル・ゴーチエ作 井村実名子訳(岩波文庫)


《あらすじ》
画家であり詩人である青年ダルベールを虜にした騎士テオドールの正体は? ぼくは男に恋してしまった! 驚愕するダルベール。だが彼の愛人(ロゼット)もまた騎士テオドールの虜となり………。精妙巧緻にからみあう熱烈な二重の愛の物語は、破格の小説技法と華麗な描写で世間の意表をついた。〈序文〉は若きゴーチエがロマン派の宿敵に投じた芸術至上主義宣言として名高い。


《この一文》
“美は人の獲得しえない唯一のもの、最初から美を持たない者は永遠に到達できないものだ。美とは、種を蒔かずとも育つ花、はかなく壊れやすい花、純然たる天の恵みに他ならない。”

“わたしの求める第一義は、肉体の美しさではなく、魂の美しさ、すなわち愛でした。でもわたしの感じる愛は、人間の能力を超えるものらしい。――それでもわたしはわたしの愛で愛するでしょう。それは要求するよりも惜しみなく与える愛です。
 なんとすばらしい狂気! なんという崇高な蕩尽!  ”



久しぶりに髪が逆立ちました。以前からゴーチエは面白いなあ、素敵だなあとは思ってきたのですが、この『モーパン嬢』は想像を絶する美しさと激しさに溢れていました。私はようやく、ゴーチエが求めていたものが何であったかを少しばかり理解することができたと感じます。そして、私自身かねてから憧れ続けてきた「美」に、ゴーチエはいよいよ豊かな色と形、質感を与えてくれたようにも思えます。体中の血が中心に集まって、わなわなと震えてしまいました。
もちろん、同じくゴーチエによる『死霊の恋』のクラリモンドもまた私の女神であることは依然として変わらないのですが、この『モーパン嬢』は物語としての完成度、分量、豪華さ、人物の魅力の強さから言っても、私をさらに打ちのめすに十分なものでした。読んで良かった。生きているうちに読むことが出来てほんとうに良かった!!


物語の主な登場人物は三人の若者。
一人目は画家で詩人のダルベール、何よりも形の美しさを重視し、たとえどんな美女であろうともそのわずかな欠点が気にかかり、結局は心から愛することができないことを嘆きながらも、まだ見ぬ完璧な恋人の登場を夢見ている。
二人目は、そんなダルベールの愛人ロゼット、誰もがうらやむような愛らしい美女、裕福で心優しく、素晴らしい知性を備えた彼女は、不幸なダルベールを慈しむものの実は彼を愛しておらず、心は別の人へ向かっている。
三人目は若き騎士テオドール、完全無欠の美貌を持ち、誰よりも優雅で勇敢、腕っぷしも強い彼は、しかし捉えどころのない謎に包まれている。

これから読もうという方もおいででしょうから、ここであまり物語の内容について語るのはやめておきます。私にはやたらめったら面白かったことだけは確かです。ゴーチエはほんと天才だと思う。
一言、つまりどういう物語であるかを簡単に申しませば、美と愛と真実が暗闇の中で互いに求めあい、激突するという壮絶な、目も眩むような、魂が肉体ごと弾け飛ぶような、苦悩と苦痛と官能と歓喜の、永遠に続く一瞬の物語でありました。
ただ、ただ、美しい!
ただ、ただ、情熱的!

美が、愛が、真実が、かりに一瞬でもこの場で交わったなら、それは空高く舞い上がることのできる力強い翼となり、その先のすべての悲しみと不足をその羽ばたきによってなぎ払うことでしょう。
ほんの一瞬でもいい。ひとたび起こってしまえば、それは永遠に等しいのです。


何もかも、全てを丸くおさめたゴーチエの天才に驚愕しました。誰も何も失わずに、何もかも全てを手に入れる結末が存在し得るとは、あと少しで読み終えてしまうことに怯え、それまでに果たして決着がつくのだろうかと不安だった私には、到底想像も出来ませんでした。
素晴らしい結末!
ああ、世界よ、こんなふうに美しく颯爽と駆け抜けてゆけ! もし信じがたい幸運に恵まれて、その美しい姿を私の前に現すことがあったなら、私は決して忘れないだろう。いや、それはたちまち私の魂に刻まれて、忘れないどころか私はすっかり別人になってしまうに違いない。ありそうもないことだが、まったくないとも言い切れないところが、この世の素晴らしさだ。しかも、そのひとつのパターンがここに示されている。もう支離滅裂で、自分でも何を書いているのかさっぱり分からないが、私は幸福だ。まるで我がことのように、ここでそれを体験することができたから。なんと素晴らしい世界だろう!

あなたの見せてくれた美のお礼に、私はせめてこの熱狂を差し出したい。と鼻息も荒く私は思うのでした。はあ、美しい。



『フランス怪談集』

2008年09月10日 | 読書日記ーフランス

日影丈吉 編(河出文庫)


《収録作品》
魔法の手(ネルヴァル)
死霊の恋(ゴーチエ)
イールのヴィーナス(メリメ)
深紅のカーテン(ドールヴィイ)
木乃伊つくる女(シュオッブ)
水いろの目(グウルモン)
聖母の保証(フランス)
或る精神異常者(ルヴェル)
死の鍵(グリーン)
壁をぬける男(エーメ)
死の劇場(マンディアルグ)
代書人(ゲルドロード)


《この一文》
“ああ! まったくあの人の言ったとおりでした。わしは何度あの人を呼びもとめたでしょう。今でもあの人が忘れられない。魂の平和をあがなうには、あまりにも高価なものをなげうちました。神の愛もあの人の愛にかわるには足りません。
  ―――「死霊の恋」(ゴーチェ)より”



『東欧怪談集』が手に入らないことに焦った私は、今のところまだ安価で取り引きされているこの『フランス怪談集』を買っておくことにしました。さっさと買ってしまわなかったのは、ここに収められている作品の多くが、すでに私の持っている本のなかにも収められているからです。「死霊の恋」に至っては、これが何冊目になるのだか判然としません。この作品がこれほどまでに傑作中の傑作であるからには、どのアンソロジーにも入れたくなるのは、実際いたしかたのないところではありますけれども。でも、もうちょっと珍しい作品も読みたいよなあ。

ということで、初めて読んだのは以下の作品。「イールのヴィーナス」「聖母の保証」「死の鍵」「死の劇場」「代書人」。

なかでもメリメの「イールのヴィーナス」は面白かったです。メリメについては、これまでにいくつかの作品を読んで暗澹たる気持ちにさせられたので避けるようにはしているのですが、つい読んでしまいます。メジャー級の彼の作品(たぶん)はあちこちに載っているので、なかなか避け切れません。
私がなぜメリメが嫌なのかと言うと、残酷過ぎるから。もうあんまりに残酷です。ひどいったらない。と、私は思う。
しかし、この「イールのヴィーナス」は私の思うメリメにしては、前半はかなりユーモラスな語り口で、私はすっかり油断させられました。ひょっとしたらこのまま終わるかもと思うや否や、やっぱり最後には悲惨な結末が待っていました。例によって後味が実に悪い。まあ、でも面白かったです。くっそー、またしても、してやられたぜ。

「死の鍵」は、ちょっと文体が読み辛く、途中で放棄しようかと思いましたが、ちょうどそのあたりで物語が加速してきたのでどうにか読み終えることができました。主人公の少年が胸に秘める殺人への衝動が延々と書き連ねられていくなか、最後にはあっと言うように、その衝動に不思議な怪奇的な因縁がつけられています。意外に面白かったです。奇妙な味わいでした。

「代書人」も良かった。静かな町の感じが、そこで起こる奇妙な出来事の静かさが、なんだか良かった。

既に繰り返して読んでいる作品ではありますが、やっぱりゴーチエの「死霊の恋」は凄まじい。面白過ぎます。クラリモンドという美女に見初められた僧侶ロミュオーは、昼間は熱心に神に仕える一方、夜は若い城主となって放蕩三昧という二重生活を強いられるようになる。という物語。
ああ! クラリモンド! 実は吸血鬼であるという彼女はしかし、一途にロミュオーを愛する実に可愛い女です。そして、その輝き放つ美しさは筆舌に尽くしがたい。すげー面白い。やっぱり何回読んでも面白い。私なら決してクラリモンドの手を放したりはしないものを。ほんと馬鹿だなあ、ロミュオーは。

それからドールヴィイの「深紅のカーテン」もまた、私が異常に好きな短篇のひとつです。異常に面白い。筋書きはさほど派手ではない、というかむしろ地味でなんということもないものなのですが、これが異常に興奮させられます。どうしてこんなにどきどきしてしまうのでしょうか。なにか、秘密の馨しさがここにはありますね。美しいものはいい。でもって、この人の作品には深く暗い影、あるいは悲しみが漂っているようなのも魅力です。それがいっそう美しさを盛り上げています。たまりません。


はあ、フランス小説はやっぱりやめられない。



『死刑囚最後の日』

2008年08月19日 | 読書日記ーフランス
ユーゴー作 豊島与志雄訳(岩波文庫)



《内容》
自然から享けた生命を人為的に奪い去る社会制度=死刑。その撤廃をめざし、若き日のユーゴー(1802-85)が情熱をもやして書きあげたこの作品は、判決をうけてから断頭台にたたされる最後の一瞬にいたるまでの一死刑囚の苦悶をまざまざと描きだし、読む者の心をも焦燥と絶望の狂気へとひきずりこむ。

《この一文》
“死刑の判決はいつも、夜中に、蠟燭の光で、黒い薄暗い室で、冬の雨天の寒い晩にくだされたのではないか。この八月に、朝の八時に、こんなよい天気に、あれらの善良な陪審員らがあって、そんなことがあるものか! ”




朝ふと早起きをしてしまったので、つい手に取って読みかけていたのを最後まで読んでしまった。この作品の途中には、死刑囚である主人公が子供時代にノートル・ダームの釣鐘を見るために塔へ登った時のことを回想し、その時ちょうど鐘が鳴り響き、高所にいた彼はその振動の激しさにおののいて必死で床にへばりついた、という場面があるのだが、これを読んでいる私もまさにそんな心境だった。うっかりすると私の暮らしているこの5階がぐらりと傾いて、そこの窓から滑り落ちてしまいそうだった。目が回るようだった。

時々、写真やテレビ番組などで地球のどこか遠いところ、人の棲まない秘境の映像などが映し出されると心が安らぐことがある。というのも、人っこ一人存在しないそこには一切の罪がないから。どういう種類の害悪にも汚染されていない。罪もなければ罰もない。少なくともそのように見える。
罪があるのは、ただこの人間の社会のうちだけで、我々は絶えず古い罪から新しい罪を生み出し続けるようだ。飽きもせず。それにつれて、我々はまた旧式の罰から新式の罰を与え続けなくてはならない。
そろそろ疲れてもいいころではないだろうか。ところが、いつまでも疲れを知らず、生み出しては葬り去ることを繰り返す。さらに恐ろしいことには、この罪と罰、正義や悪といった概念も、時と場合が違えば簡単に変わりうるもの、逆転さえしかねないものであるということだ。我々は当たり前のような顔をして日々を過ごしているが、いつも極めて不安定な、隙間だらけの床板の上に立っているのではないだろうか。我々が望むと望まぬとにかかわらず、いつでもこの裂け目から落っこちる用意がある。どうしたら、ここから逃れて、もっとしっかりした足場へ立つことができるのだろう。


さて、この作品で取り上げられている死刑制度の是非というのは、非常に難しい問題だと思う。私は今のところどのように考えたらいいのかさえ分からない。ただ、次のような疑問は以前からずっと私を悩ませてはいる。
それは、たとえば何の落ち度もないある人物の権利が、別の誰かによって侵害されたとする。ここで個人としての人間が、被害者に対して同情し、加害者の卑劣な行為に対して憎悪を覚えるのは分かる。問題は、人間が正義ある社会として加害者を罰する時、実際に罪を犯した加害者が罰せられるのは仕方ないこととしても、それでは「加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪」はどうなるのだろう。社会は、何によってこの罪を償うのだろう。それとも、社会にはいかなる罪も負わされないのだろうか。
私はこれがいつも気になってしょうがない。だからといって、どうしたらいいのかは全く分からない。

どうしたらよいのかは分からない。けれど、誰もが一度はこのことについて考えてみるべきではなかろうかと思う。我々を覆うこの壮絶な無知と無関心という蛮性が、我々自身を危うくしていることが少なからずあるように思える。
恐ろしさに足が竦んでも、裂け目をのぞいてみなかったら、この場の不安定に気付くことさえ出来ず、いつまでもここから去ることはできないだろう。


こんなことを朝っぱらから考えさせられる、ごく短いながら密度のある強烈な作品でした。



『エピクロスの園』

2008年07月31日 | 読書日記ーフランス
アナトール・フランス著 大塚幸男訳
(岩波文庫)


《内容》
作家アナトール・フランス(1844-1924)は思想的には懐疑主義の流れを継ぐ自由思想家といわれる。本書はその随想集。宇宙全体がはしばみの実くらいに縮んだとしても、人類はそれに気づくことはないだろうという「星」をはじめ、さまざまな題材を用いて洒脱にその人生観を述べている。芥川はこの書の影響を受けて『侏儒の言葉』を書いた。

《この一文》
“「皮肉」と「憐れみ」とはふたりのよき助言者である。前者は、ほほえみながら、人生を愛すべきものにしてくれ、後者は、泣いて、人生を聖なるものにしてくれる。わたくしがその加護を祈る「皮肉」は残酷なものではない。それは愛をも美をもあざけりはしない。それはやさしく、親切である。 ”






「やっと来た」
そう思いました。最初に読んだのは、何だったでしょう。青空文庫で読んだ「バルタザアル」だったか、岩波文庫の『少年少女』だったでしょうか。そのあと、『シルヴェストル・ボナールの罪』も買いましたが、まだ読んでいません。どこかのアンソロジーで「聖母の軽業師」を読んだ記憶があります。内容は覚えていませんが。そしてこのあいだは『ペンギンの島』を読みました。これは最高に面白かった。皮肉と諧謔と悲しみの中にも楽天を、真の楽天主義を見るようでした。それでようやく、どちらかというとお堅いイメージだったこの人の面白さに気が付いたのです。そしたら、ずっと読みたかった『エピクロスの園』が重版されたではないですか。

そういうわけで、今頃になってようやく面白い人だと分かったアナトール・フランス。この『エピクロスの園』には、私がずっと若かった頃から言いたくてもうまく言えなかったことや、理解したくてもよく理解できなかったことなどについて、まるで読みたかったそのままに書かれてありました。と思ったら、こんなふうに書かれてあります。

 われわれは本を読む時には、自分の好きなように読む。本の中から自分の読みたいことだけを読む、というよりもむしろ自分の読みたいことを本の中に読む。


うーむ。まるで心を読まれているようではないか。と思ったら、こんなふうに書かれてあり…と思ったら、こんなふうに書かれてあり…と無限に繰り返してしまいそうなほど、いやもう、書かれてあることについてすごく分かってしまう。なんだか実によく分かる。それでもって、ふと胸を衝かれる。涙がこぼれそうになる。実際にすこしばかりこぼしてしまう。

というのも、読んでいると、この人はとても優しい人らしいことが伝わってくるのです。絶望や滅亡や絶叫といったものを好む暗黒趣味の私は、普段から、多くの作家がのこした社会への人類への憎悪や失望、怒りの言葉を求めたがります。不条理に満ちたこの世の中を思うならば、彼らの言い分はもっともだと思うからです。

以前同じくアナトール・フランスの『ペンギンの島』を読んだのもそういった興味からのもので、ペンギン人たちの来し方行く末を皮肉を込めて描いている物語に魅力を感じてのことでした。ところが、『ペンギンの島』を読んでみると、何と言うか、予想とは違う面白さだった。ユーモラスであるとか、それにもかかわらず悲しい物語であるとかいうだけではないのです。それだけではない何かがある。それが何なのか、その時にははっきりと分からなかったのですが(ただ、悲しみの中にも希望を見せてくれるような奇妙な楽観的さは感じたけれども)、『エピクロスの園』が教えてくれました。それは、優しさ。ありあまる優しさ。本当に、なんて優しい人なのだろう。

染み込むように、柔らかいもので撫でられるように、この人の言葉が私の中に入ってきます。別のところではあるいは厳しいことも言っているのかもしれません。実は私はまだ全部を読み終えていません。好きなところだけ、好きな順番で読んだので、たぶん半分くらいは未読です。これから時間をかけてじっくり読むつもりです。そういうことを許してくれる本だと思います。いつでも手に届くところに置いておこうと思います。厳しかったり悲しかったりする以上に優しいということが、私にはすっかり分かってしまった気持ちでいるのです。



ところで、訳者の大塚先生によるあとがきに、アナトール・フランスを熱愛した芥川についても言及されていて、それがとても面白かったです。芥川は、アナトール・フランスやメリメのように本格的な歴史小説を書きたかった(「現代人の視点からではなく、同時代人の眼をもって、この歴史の一齣を描き出し」たかった)らしい。でも出来なかった。
いえ、私が面白かったというのは、芥川が憧れたけど果たせなかったというエピソードではなく(もちろん興味深い問題ですが)、アナトール・フランスが本格的な歴史小説を描いていたという部分です。『ペンギンの島』を読んだ時、私はこんなふうに書きました。

 読み終えて凄かったと思うのは、語られる時代ごとにその時代の雰囲気がぴったりと表現されていることでしょうか。それゆえに、章ごとにバラバラに読んだとしても、それぞれがひとつの物語としても十分に魅力的です。それでいて、もちろんそれぞれの物語は一続きにきちんと繋がってもいるのです。そんなのは当たり前のことかもしれませんが、凄い。圧倒的です。


うーむ、表現力のなさは諦めるとしても、我ながらこの読みの確かさには驚かされます。「その時代の雰囲気がぴったりと表現されている」。そうそう、そう思ったんでした。それはあれが「本格的な歴史小説」だったからなのか。
それにしても、私の洞察力の鋭さよりももっと驚かされることには、この本の中では、あとがきに至ってまで「読みたいことだけを読」めるということですね。ははは。

…なんてことはさておき、こんなふうに私をなだめてくれる本は、ほんとうに久しぶりのことだったなあ。