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半透明記録

もやもや日記

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『魔法の手』

2006年04月03日 | 読書日記ーフランス
ネルヴァル 入沢康夫訳(「世界の文学 フランス名作集」 中央公論社 所収)

《あらすじ》
ラシャ服飾商グーバール親方の奉公人ユスターシュは、もうすぐ親方の娘との結婚が決まっていたのだが、ちょうどそのころ彼女の血のつながらない甥の騎馬銃士が親方の家に居座りはじめ、そればかりか新婚のユスターシュを新妻の前で小馬鹿にしはじめる。その厚かましい態度に我慢し切れなくなったユスターシュはついに騎馬銃士と決闘することとなり、まともに闘っては勝ち目がないので奇術師ゴナン先生によって右手に魔法をかけてもらうのだが……。


《この一文》
”「ある昔の人(セネカ)は『生命を与えた最初の時が、同時にその生命を刻みはじめた』と言うておる。お主は生きているかぎり死のなかにある。というのは、もはや生のなかにいなくなったときには、死の向こう側に出ているからじゃ。いや、もっとうまい言葉ではっきり言ってしまえば、生きようが死のうが、死はお主とはかかわりがないのじゃ。生きている以上はお主は死んでおらぬのじゃし、死んでしまえばお主はもはや存在しないのじゃから!」”


タイトルからするともっとロマンチックな物語を想像していたのですが、結構恐ろしい話でした。どことなくユーモラスではあるのですが、やはり怖い。うーむ。ネルヴァル、私にはこの人の作品は多分これがはじめてですが他のも読んでみたいですね。
それにしても、メリメといいこのネルヴァルといい、フランスの作家の小説というのは、後味のあまりよろしくないものが多いんですかね。考えてみると、今まで読んだ作品でいわゆるハッピーエンドですっきりさっぱりした作品というのは、あまり記憶がないです。ルネ・ドーマルの『類推の山』くらいか?(しかしこれは未完。それでも、最高に盛り上がる素晴らしい小説です) まだそれほど多くを読んでいないのに判断するのは危険ですけれども、これがフランス風なんでしょうか。それとも私がわざわざそういう物語ばかりを選んでいるのか。どちらにせよ、私は別にハッピーエンドじゃなくったって構わないので、やっぱりフランス小説は面白いのでした。
次は、ヴィリエ・ド・リラダンです。

『エトルリアの壺』

2006年04月02日 | 読書日記ーフランス
メリメ 鳴岩宗三訳(「世界の文学 フランス名作集」中央公論社 所収)


《あらすじ》
つまらない噂話に惑わされて、恋人の過去に疑惑を持ち失望し、果ては自らを破滅に追い込んでゆく男の物語。


《この一文》
”「三月のあいだ、あの女はおれを男のなかでいちばん幸せな男にしてくれた。この幸福は、おれの一生をそっくり犠牲にする値打ちがある」”



メリメは、岩波版の『エトルリヤの壺』(他五篇 杉捷夫訳)所収の「マテオ・ファルコネ」を読んで暗澹たる気持ちになってそれ以上読む気がしなくなったということを、うっかり忘れてまた読んでしまいました。なんてことだ……。また滅入りました。いえ、面白いんですけどね。
この物語の主人公の男は、周囲の人々にはまだ秘密にしている恋人の女に対する詰まらない噂話を真に受けて、しかも本人にはその事実を確認もせず(内容がまた非常に詰まらない。女が過去にある男と恋仲だったらしいというだけのこと)、ひとりで思い悩んだ末、自ら破滅に向かわせるような行動を取ってしまいます。その、男の気持ちの浮き沈みの激しさと、物語の展開のはやさはもの凄いです。

2作品読んでみて、この人の作品の凄さということは少しわかりましたが、とても憂鬱になるので一気にはいくつも読めないなということもわかりました。はー、つかれた。

『詩人のナプキン』

2005年08月22日 | 読書日記ーフランス
堀口大學訳 (ちくま文庫)


《収録作品》

ギイヨオム・アポリネエル:「オノレ・シュブラック滅形」「アムステルダムの水夫」「詩人のナプキン」/アナトオル・フランス「聖母の曲芸師」/クロオド・ファレエル:「颶風」「冷たい恋人」「萎れた手」/メデロ・エ・アブルケルク「五寸釘」/フィッシェ兄弟「エステル」/アンリイ・バルビュス「三日月」/フレデリック・ブウテ「嫉妬」/モオリス・メエテルリンク「幼童殺戮」/アンリ・ド・レニエ「青髯の結婚」/ルミ・ド・グウルモン:「水いろの目」「ドンファンの秘密」/マルセル・シュオブ:「遊行僧の話」「モネルの言葉」/レイモン・ラディゲ:「ドニイズ」「花売り娘」/マルセル・アルナック「無人島」/ジャック・ド・ラックテエル「書物と恋愛」/アルベルト・インスゥア「いまわの夢」/ジョセフ・ケッセル「懶惰の賦」/ジャン・ポオラン「嶮しき快癒」


《この一文》

”ーー僕等が法を無視した以上、僕等は法より偉大であらねばならぬのだ。彼のプロメッテエを描くために、ファラシオスは罪のない一人の男を拷問にかけさせた、しかし彼がこうして描いたプロメッテエは傑作であった、ために後代は彼の行為を許したのである。しかるに彼の描いた画がもしも全ギリシャの賞賛を買わなかった場合にはファラシオスは単に一個の殺人者であったのである。  クロオド・ファレエル「萎れた手」より”



田舎のブックオフにてお宝発見。しかも2冊も。それがこの『詩人のナプキン』ともうひとつは『新編 魔法のお店』(ちくま文庫)です。欲を言えば、ちくま文庫ならホフマンの『ブランビラ王女』やC.G.フィニーの『ラーオ博士のサーカス』などもほしかった。ああ、大昔のあの時買っておけば…、くっ……愚か者め!

さて、考えてみると意外とフランス文学好きな私は、この『詩人のナプキン』もあまりの面白さに一気読みです。アポリネールは何度も読んでいますが、ラディゲは実は初めてでした。アンリ・ド・レニエは例によって美麗だし、マルセル・シュオブの深さも期待を裏切りません。「モネルの言葉」は一度読むだけでは理解不能です。深過ぎる。収録されている3分の2は未知の作家だったのですが、新しい収穫にとても満足しています。
特に面白かったのは、クロオド・ファレエルの「萎れた手」。美しいラブ・ロマンスというだけではなく、精神の気高さについても美しく描かれています。映画のように視覚的で疾走感があって楽しいです。
他にはフィッシェ兄弟「エステル」ーーなめし皮卸小売商フェルドスパ氏の帳簿から知れる恋物語。笑えます。「11月 10日 可愛いエステルの腰巻1ダアス……二百七十法(フラン)」とか。
それから、マルセル・アルナック「無人島」ーー船が難破して無人島に流れ着いた男と女。そこで寄り添って逞しく生きようと決意するのだが…。これまた笑えます。最後の二人の台詞が最高です。ぷぷ。
フランスの短篇小説は面白いんだなー、と再確認です。

『黄金仮面の王・少年十字軍』

2005年07月12日 | 読書日記ーフランス
マルセル・シュオッブ 「黄金仮面の王」矢野目源一訳/「少年十字軍」多田智満子訳 (筑摩書房 「澁澤龍彦文学館 8 世紀末の箱」所収)


《あらすじ》
「黄金仮面の王」ーー仮面をつけた王に治められる国の宮城には鏡がなく、そこへ近付く者もまた仮面をつけなくてはならないために王は人間の素顔というものを自らの顔さえ見たことがなかった。そこへ面を露にした盲目の乞食がやってきて、こう述べる。「御前御自身は黄金仮面の王でゐられるが、その飾とは反対に恐ろしい顔をしてゐられるのではありますまいか」そして王は自らの素顔を目にすることになるのだがーー。

「少年十字軍」ーーある時、イエルサレムを目指し子供達は群れをなして出奔し、裸形の女達が村々町々を無言のまま駆けめぐる。


《この一文》

”すべての悪すべての試練はわれらの裡にしか存在せぬ。神はその御手もてこねあげたもうた御作品に全き信頼をおいておられる。しかるに汝はその信頼を裏切ったのだ。神々しい海よ、わがことばに驚くなかれ。主の御前に万物は平等である。無限なるものと比べれば、人間の尊大な理性も汝のはぐくむ生物の小さな輝ける目以上に価値あるものではない。神は浜の真砂の一粒にも皇帝にも同じ役割をふりあてたもう。僧院の中で沈思する修道士と同じくらいに瑕瑾なく、黄金も鉱床の中で成熟する。世界の諸部分は、善の道をたどらぬときには、いずれもひとしく有罪である。なぜかといえばそれは神より発した道であるゆえ。神の眼には石も植物も獣も人もなく、ただ被造物あるのみ。余は見る、汝の波の上に跳ねあがり、また水に溶けゆく白き頭たちを。陽光のもとただ一瞬躍り出るそれらの波頭さえ、呪われもしあるいは選ばれもしよう。老いのきわみの高齢がようやく傲慢心を教え諭し、宗教のなんたるかをあきらかにする。余はこの真珠母いろの小さな貝殻にも、おのれ自身にも、ひとしくあわれみを抱く。  ーーー「少年十字軍」より ”



なんだってこういう小説ばかり読むのかと言うと、どうも私は悩んでいるようです。しかし、昨日も色々考えていて、しかし上手く説明できなかったことが、幸運にもここに書かれていました。そうなのです、万物は平等なんですよ。そして善の道をたどらないならば、いずれもひとしく有罪なんですよ。人間が思考を持つからと言って優れてるってわけではなくって、他のものと同じようにただそのように存在しているだけなのです。そこに付けたがる意味や価値というのは人間の勝手な今のところ何の根拠も無いところからくる意味や価値なのではないですか。そういう意味で人間には人生に真の価値や意味を見出すことはまだ出来ないと言いたかったのだと思います。多分。
「黄金仮面の王」、「少年十字軍」のふたつの物語はいずれも人間というものについて深く考えさせるものです。仮面を脱ぎ素顔を知った後で自らの目を突いた王が得るものとは何か。「神」の何たるかを知らないままに、しかし深くそれを信じて聖地を目指す子供達の姿に何を見るか。
人間の持つさまざまの価値の全ては、人間自身が好き勝手に作り上げたものに過ぎないのだということに思い至ります。人間は何も分からないまま、闇雲に生きているだけなのかもしれません。いつか知ることが出来ればいいと願う「真理」に「神」と名付けて信じることを信仰というのでしょうか。自分達が歩いている道がどんなところか、今どのあたりなのか見当も付かなくても進むしかない不安にああでもないこうでもないと言って対立し傷つけ合う人間は哀れで、しかもそういう風にしか存在できないところに自ら罪をおわせ呪いをかけているのでしょうか。しかし、罪をおうからこそ赦される可能性があるし、呪われるからこそそこから解き放たれる望みがあると考えるべきなのでしょうか。ふたつの物語は大体こんな展開だったと思います。人間によって作り上げられた価値を捨て去る、もしくは最初から持っていない者達だけに見える世界があるかもしれない。何となく分かるような、分からないような感じですが、もっと考えるしかないのでしょう。とにかく何も分からないのにいつか分かる保証もないのに進まなければならないということはどういうことなのかと悩んでいるのは私だけではないどころか、何かを信じて進むしかない人間の永遠のテーマに違いないだろうということは、よく分かりました。次こそ『アハスヴェルスの死』を読みます。

『アポリネール傑作短篇集』

2005年03月06日 | 読書日記ーフランス
窪田般彌訳(福武文庫)



《内容》

比類なき
反逆精神で既成芸術を否定し、
アヴァンギャルドの旗手として活躍
した、夭折の詩人・小説家アポリネール
の傑作短篇集。現実と空想が奇妙に交錯
し、不思議な味わいを醸し出す23篇を収録。


《この一文》

” --シモン・ペテロよ、私はおまえと何ら異なるものではない。われわれの名も同じ。私はおまえが采配をふるう教会と同じだけ長く生きるだろう。おまえが教会の善良なる牧人である限り、私は永遠に悪の旗頭となるのだ。おまえが天の慈悲をみせつける教会で、私は地獄の悪意になりきって、もし気がむくならば、悪魔の軍団と無数の天使たちをも、ゆさぶり動かしてみせよう。 
         --「魔術師シモン」より ”



読み返すのは3度目くらいになると思うのですが、「オノレ・シュブラックの失踪」以外、すっかりさっぱり忘れていました。
はじめの方に収められている「プラーグで行き逢った男」「ラテン系のユダヤ人」「魔術師シモン」などは、こんなに面白いのにどうして忘れていたのか、もはや自分が信じられません。
全体的な感想としては、どの物語を読んでも、なんだか気分がすっきりしません。
物語が皮肉な結末に至るものが多いせいでしょう。
まあ、私はハッピーエンドを求めるほうではないので、すっきりしなくて構わないのですが。
今回は、少なくとも5、6篇の物語についてはしっかりと記憶していられそうです。
よく読めばかなり面白かったのでした。

『ムッシュー・テスト』

2005年02月22日 | 読書日記ーフランス
ポール・ヴァレリー作 清水徹訳(岩波文庫)



《内容》

透明な知性と繊細な詩的
感性によって20世紀前半
のフランスを代表するヴ
ァレリー。「ムッシュー・
テストと劇場で」は若き
日の内的危機から誕生し
た。作者の分身エドモン・
テストをめぐる思索は、
その後もエロティシズム、
近代批判など様々な視座
から試みられ、連作小説は生涯書き継がれ
た。強靱な頭脳はいかなる姿態を示すか。


《この一文》

”  一種の個人的祈り。
  《わたしの眼を覚ましてくれたあの不正、あの侮辱に、わたしは感謝いたします。その不正と侮辱の生々しい感覚が、その滑稽なる原因からはるか遠くへとわたしを投げやって、まだわたしに自分の思想の力と思想への志向をつよくあたえてくれたので、結局わたしの仕事はわたしの怒りから利得をあげたほどなのです。つまり、わたし自身の法則の探索は偶発事を利用したのです》
        --「ムッシュー・テスト航海日誌抄」より  ”



最近、つい自分の理解できる限界をはるかに越えたものを読んでしまいます。
「読んだ」というよりはむしろ「文字を追ってどうにか最後の頁に至った」といったほうが正しいです。
しかし、落ち着いて考えてみると、これまで読んできたものについても、私は果たしてどのくらい正確に「読んだ」のか疑問です。
ちょっと恐ろしくなってきました。
ともかく、このような圧倒的に理解不可能なものにでくわすことは、現段階での自分の思考力に対して、ひとつの目安を持つことができるという収穫をもたらします。
いつか少しは理解できるようになるのでしょうか。
そのためには冷静に考えるということが出来ない自分を情けないと思いつつも、問題に立ち向かわねばならないのかもしれません。

『壁抜け男』

2005年02月19日 | 読書日記ーフランス
マルセル・エイメ 長島良三訳(角川文庫)


《あらすじ》

ある日突然、壁を抜ける能力を
手に入れた、登録省の役人デュ
ティユル。彼は新しい上司と手
紙の書き方をめぐって対立する。
屈辱的な扱いを受けたことを恨
んだデュティユルが、壁から頭
を出してその上司を罵ると、混
乱した上司は精神病院に入院し
てしまう。この件をきっかけに、
パリの街に次々と奇妙な事件を
巻き起こしていくデュティユル。
しかし壁をすり抜け続けていく
彼の行く手のは、思わぬ落とし
穴が待ちかまえていた・・・。
奇抜で幻想的な世界に、人間の
優しさと悲哀、そして残酷さを
巧みに描いた、鬼才エイメの珠
玉の作品集。


《この一文》

” アントワーヌはたやすく自分の屋根裏部屋を見出して、音をたてずに忍び込んだ。母親の小さなベッドの上に一抱えの光を置くと、その光が眠りこんでいる母親の顔を明るく輝かせた。アントワーヌは、母親が少しも疲れていないことを知った。
           --「七里のブーツ」より ”



3、4年前に買ってそのまま読まずに放置してあったのを、今朝ようやく読みました。
予想以上に面白かったです。
どうも私はフランスの短篇(ただし主に幻想小説)とは相性が良いようです。
「壁抜け男」「変身」「サビーヌたち」「死んでいる時間」「七里のブーツ」の5篇を収めていますが、どの物語もそれぞれの設定が興味深いです。
壁を通り抜けることができるとか、一人の人間が同時に何箇所にも存在することができるとか、1日おきにしか存在することができない人間とか、どこかしら異常な状況を設定しています。
その中で、最後の「七里のブーツ」は特に不思議な設定もなく、童話のような内容でした。
普段なら「壁抜け男」のような話に惹かれる私ですが、今回は意外にもこの「七里のブーツ」が一番気に入りました。
とても美しいのです。

『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇』

2005年02月16日 | 読書日記ーフランス
ゴーチエ作 田辺貞之助訳(岩波文庫)


《あらすじ》

フランス文学の魔術師テオフィル・ゴーチエ(1811
-72)の傑作短篇5篇を選び収める。ヨーロッパで
もっとも傑れた吸血鬼小説の一つと賞される
「死霊の恋」、青年のよせる烈しい思慕に古代
ポンペイの麗人が甦る「ポンペイ夜話」など、
いずれも愛と美と夢に彩られたあでやかな幻想
の世界へと読者をいざなう。


《この一文》

” しかも、わしは命が、刻々に水かさをまし、堰を切ってあふれる湖水のように、胸のうちに高まるのを感じました。血は脈管のなかで力づよく高鳴り、長いあいだおさえつけていた若さは、まるで花をつけるのに百年の歳月を要するアロエが雷のはためく音をたてて咲きいでるように、一時に爆発しました。
          --「死霊の恋」より    ”



幻想的です。
私が読むものにしては珍しく吸血鬼や悪魔がでてきます。
(そうでもないか。〈例〉『巨匠とマルガリータ』など多数)
描写がとても美しいです。ロマンです。
この本に収められた作品の中では、この「死霊の恋」がとりわけよく出来ていると思います。
恋と信仰の間で主人公は激しく揺れ動くのですが、そのあたりの展開が魅力的です。
う~む、面白い。

『フランス短篇傑作選』

2005年01月24日 | 読書日記ーフランス
山田 稔編訳(岩波文庫)


《内容》

長篇小説の国フランスでもいま短篇小説が注目されつつある。
作家たちは「フィクション芸術のエッセンス」とよばれるに
ふさわしい表現を目ざして芸を競い、おのれのエスプリを証
明する場として短篇を書くのだ。本書所収のリラダン、アポ
リネール、デュラスら、世紀末から現代にいたる作家たちの
技の競演に、読者は堪能されるにちがいない。


《この一文》

” はみ出るはらわたを両手でおしこみながら、彼は横になった。
  この工夫をたいそう面白がって、彼女は湯気の立つ虹色のはらわたのなかにバラ色のかわいらしい足を突っ込み、まあ、と小さくさけんだ。
  なかがこんなに温かいとは思いもしなかったのだ。 
      --「親切な恋人」(アルフォンス・アレー)より  ”


色々な作家の短篇が収められている本というのは、お得な感じがしてよいですね。
他にマルセル・シュオッブ(確か別の本で読んだ『黄金仮面の王』とかいう話が強烈に面白かった)、ヴィリエ・ド・リラダン(『未來のイヴ』の人)、アナトール・フランスなどなど、有名どころが目白押しです。
引用したアルフォンス・アレーの「親切な恋人」はこの部分だけ読むとホラーなのかと思いますが、実際はとても素敵なファンタジーです。
虹色のはらわた!
私はどうもこういう表現に弱いようです。
昔、こんなことを言った人がいました。
「この間、アップル社の抽選に当たって記念式典でリンゴの模型を一口かじる役をしてきたんだよね。これ、その時記念に貰った腕時計」
彼はアップル社の一口分欠けた七色リンゴのマークが入った腕時計をしていました。
しかし、なんて嘘くさい話!
もちろん、私はここまでは信じていませんでした。
でも少し面白そうなのでそのまま聞いていると、
「そのリンゴは、かじるとバナナのような味がした」
「!!」
最後の一言に私はすっかり魅了されてしまいました。
美しい文章です。音の響きも内容もいい。(と思うのは私だけだとしても)
この一文のために、あれから7、8年は経っていますがあの日のことを忘れることができません。

『シュペルヴィエル幻想短編集 沖の少女』

2005年01月12日 | 読書日記ーフランス
ジュール・シュペルヴィエル 三野博司訳(社会思想社)


《あらすじ》

愛する娘を亡くした水夫が航海のあいだにあまりに長く、あまりに強く娘のことを思い描いたばかりに、海の沖合にひとりの少女が現れて・・・・(「沖の少女」)

シュペルヴィエルの宇宙では、生と死、動物と人間、現実と夢想、地上と天上が、たがいに呼びかけあい、こだましあい、交通可能である。本書の読者は、かならず、この夢幻の世界に魅了され、快感に誘われるはずである。


《この一文》

” 任務を帯びた夜の霊のように、犬が一匹入ってくる。
                     ---「足あとと沼」より ”


作者の名前からして、フランスの人なのだろうと思っていたのですが、読みながら、これはどうもあれに似ているような・・・という気がして仕方ありませんでした。
あとがきによると、やはりシュペルヴィエルという人は、フランス人ですが、9歳になるまでは南米のウルグアイで育ったそうです。
また南米。