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『ラテンアメリカ怪談集』

2009年09月02日 | 読書日記ーラテンアメリカ


鼓直編(河出文庫)


《収録作品》
*「火の雨」…レオポルド・ルゴネス
*「彼方で」…オラシオ・キローガ
*「円環の廃墟」…ホルヘ・ルイス・ボルヘス
*「リダ・サルの鏡」…M・A・アストゥリアス
*「ポルフィリア・ベルナルの日記」…シルビナ・オカンポ
*「吸血鬼」…マヌエル・ムヒカ=ライネス
*「魔法の書」…エンリケ・アンデルソン=インベル
*「断頭遊戯」…ホセ・レサマ=リマ
*「奪われた屋敷」 …フリオ・コルタサル
*「波と暮らして」…オクタビオ・パス
*「大空の陰謀」…アドルフォ・ビオイ=カサレス
*「ミスター・テイラー」… アウグスト・モンテローソ
*「騎兵大佐」…エクトル・アドルフォ・ムレーナ
*「トラクトカツィネ」…カルロス・フェンテス
*「ジャカランダ」…フリオ・ラモン・リベイロ


《この一文》
“男は、夢を構成するものだが脈絡がなく、すばやく過ぎていくだけの素材を鋳型に入れるのは、人間のなしうるもっとも困難な仕事であることを悟った。
  ――「円環の廃墟」…ホルヘ・ルイス・ボルヘス ”

“「すべての書物がそういうものではないのか?」言語は、それ自体としては存在しない。存在するのは、それを話す者たちである。書物についても同じ。何者かが読み始めるまでは、それは記号のカオスでしかない。読み手こそが、こんがらがった文字に生命を与えるのだ。
  ――「魔法の書」…エンリケ・アンデルソン=インベル ”



復活の足がかりとして何から始めるべきかとしばし考えましたが、私はラテンアメリカ文学から始めることにしました。かつて、物語を読む楽しさを初めて私に教えてくれたラテンアメリカの物語。そう言えば、最近はあまり読んでいなかったのでした。

というわけで、この『ラテンアメリカ怪談集』。読むのは3度目ですが、例によって私は大方の内容をきれいさっぱりと忘れてしまっていました。これまでも面白く読んだはずですが、今回も面白く読みました。特に収穫だったのは、今まではどうしてもその面白さが分からなかったボルヘスが、初めて面白く感じたこと。それから、アンデルソン=インベルとムヒカ=ライネスに関しては、今回ようやく作者自身への興味が沸きました。

ここに収められた短篇はいずれも怪談ということで集められた作品ですが、いわゆる怪談らしいおどろおどろしい雰囲気があるのかと言えば、そうとも言い切れません。背筋がぞっとなるようなお話もあれば、息の詰まるようなもの、奇妙であり軽妙でもあるもの、幻想的なもの、不可思議なものもあります。恐ろしい物語というよりは、不思議なお話が多いでしょうか。まあ、ジャンル分けはともかくとして、面白いことには違いありません。

私が今回特に面白かったのは、ボルヘス「円環の廃墟」、ムヒカ=ライネス「吸血鬼」、アンデルソン=インベル「魔法の書」、パス「波と暮らして」、ビオイ=カサレス「大空の陰謀」です。


ボルヘスの「円環の廃墟」は、読むだけならもう何度も読んでいるのですが、面白いと思ったのは今回が初めてです。これまではどうしても意味が分からなかった。いや、今回もやっぱり意味は分からなかったのですが、それでも何か面白かった。これが夢見る男の物語で、彼もまた誰かに夢に見られている存在である、というようなお話であるらしいことが、今回ようやく理解出来ました。そうだったのかー。まだ色々とはっきりしないけれど、物語を構成するイメージの美しさや自由さについて、少しは感じ取れたのではないかと思います。私はボルヘスとは合わないと長らく思っていたけれども、もしかするとそれほどではなかったのかもしれません。いつかはもっと楽しめるかもしれないという希望が湧いてきました。


ムヒカ=ライネスという作家については、これまでにもいくつかの短篇を読んできたはずなのですが、私の脳裏からは華麗に流れ出てしまっていました。どうしてこの人の面白さに今まで気づかずにいられたのでしょうか。まったく理解出来ません。
「吸血鬼」は、タイトルの通り吸血鬼にまつわる物語です。ザッポ十五世フォン・オルブス老男爵は、中世の雰囲気を色濃く残すヴュルツブルク城と悪魔の毛房の通路と呼ばれる老朽化した屋敷を所有しているが、経済状況の悪化に苦しんでいた。そこへ、吸血鬼が登場する映画を制作しようとイギリスの映画会社の経営者が、作家と俳優を連れてやってくる。異常な風貌の老男爵を一目見たイギリス人たちは、男爵を吸血鬼役に据え、この荒れ果てた古城を舞台に映画を作ったなら、大ヒット間違いなしと大喜びするのだが……というお話。
これはかなり面白かったです。ムヒカ=ライネスは少年時代をヨーロッパで過ごしたそうですが、そのせいかあまりラテンアメリカ色が濃くなくて読みやすかったです。不気味な中にも軽妙なユーモアといったものが感じられて、かなり楽しめました。あんまり面白かったので、私はさっそくこの人の別の本、『七悪魔の旅』を図書館へ予約しておきました。というか、『七悪魔の旅』ってこの人の作品だったのか。前から読もうとは思っていたのですが、誰のだかよく分かっていませんでした。良かった。これで解決。


アンデルソン=インベルの「魔法の書」は、今回もっとも印象的なお話でした。
ある古代史の教師が古本屋の古書の山の中から、ある奇妙な本を掘り当てる。その本は、大きくて分厚いが、奇妙なほどに軽く、傷ひとつ付かないつるつるした紙で出来ている。そしてそのページを開くと、アルファベットの不規則な羅列が延々と続き、一見するとまったく意味を成していないようなのだが、本の最初から読むと魔法のように文字が意味を持って組み直され、驚いたことにそれは「さまよえるユダヤ人」の生涯の記録であった。彼は夢中になって文字を追うのだが少しでも気を逸らすとたちまち文章は意味を失って、文字はふたたび無意味な羅列に戻ってしまい……というお話。
これはもう猛烈に面白かったです。実は、私はこれを読む前まではすっかり内容を忘れていましたが、読み始めるとたちまち前回の記憶が蘇ったので、物語については真新しさはそれほど感じないだろうと思っていましたが、それは違っていました。ここへきて初めてこの物語は、私にとって意味を持ったものとなっていたのです。
私はちょうど本を読むとはどういうことかについて考えていたところだったので、このタイミングでどうして私がこの本を選んだのかが即座に理解出来ました。「魔法の書」を読むためだったのですね。

魔力を持つ書物とそれを必死になって読もうとする男の姿を通して、書いているものと書かれているものとの関係、書くことと読むことの関係、そういうことについて改めて考えさせられます。

“瞼が痛みで、しかし同時に悦びで震えていた。どれくらい読みつづけていたのか? 二日か? それとも三日か? たいした時間ではない。さらに読みつづけることができるならば、喜んで魂を悪魔に売り渡しただろう、ファウストのように。生よりも書物のほうが大事な、さかしまのファウスト。”

どっきりさせられます。これはヤバイ。面白過ぎる。


パスの「波と暮らして」は、別のラテンアメリカ短篇集にも収められているし、有名な作品なので私は何度も読んだことがありますが、やはり記憶は曖昧でした。本当に私は一体どういう頭をしているのでしょうか。忘れ去るために読んでいるとしか思えないほどの忘れっぷりです。信じられません。
それはともかく、「波と暮らして」は、冒頭からかなり面白い。<ぼく>が海を去ろうとすると、ひとつのほっそりして軽そうな波が、胸の中に飛び込んできて、それから<ぼく>と波との奇妙な生活が始まり…というお話。
こんなに面白い話だったのか……。どうして忘れてたんだろう。愛の始まりの輝かしさと、愛の終わりの寒々しさを描いた作品。うーむ、何とも言えない味わいです。私はかなり好きな感じです。それなのに、どうして忘れていたんだろう……。


ビオイ=カサレスの「大空の陰謀」はSF風味の作品です。この世界と平行に存在する別の世界へ迷い込むというお話。ミステリアスで、普通に面白かったです。


今回取り上げなかったその他の作品も、どれも面白いものばかりです。ですが正直に告白すると、リベイロの「ジャカランダ」だけは良く分からなかった…。どういうこと? 何を言っているの?? という感じでかなり困惑。だがそれがいいのかもしれません。

ラテンアメリカ文学には、純粋な読書の喜びを感じさせてくれる力強いエネルギーがあります。私はここしばらくはラテンアメリカ文学から遠ざかっていたので、これを機に集中的に短篇集などを読み返してみたり、未読のもの(←山積み;)にも挑戦しようかと思っています。





『老いぼれグリンゴ』

2006年12月08日 | 読書日記ーラテンアメリカ
カルロス・フエンテス 安藤哲行訳(集英社文庫)


《あらすじ》
革命騒ぎの最中、グリンゴ爺さんは死に方を求めて、ハリエットは家庭教師としてメキシコにやって来た。ふたりが出会うのは革命派の若き将軍トマス・アローヨと彼につき従う丸顔の女(ラ・ルーナ)。メキシコ革命の戦塵のなかに消息を絶った、『悪魔の辞典』の作者アンブローズ・ビアスの最期の謎を、アメリカ人女性と革命軍士官の愛憎劇をおり混ぜながら描く。メキシコの作家フエンテスのアメリカ批判の書。

《この一文》
”フアレスで国境を越えたとき解放された気分になった。まるで、本当に別世界に入ったみたいだった。いまは確信している。人それぞれの心のなかに隠れた境界があり、それがいちばん越えにくい境界なんだと。なぜなら、人はそこで、自分自身のなかでひとりっきりになりたいと思うが、いつになくはっきりするのは、自分は他人といっしょだということでしかないからだ。
 彼は一瞬ためらったあと、続けた。
「それは意外なことだ。恐ろしいことだ。痛ましいことだ。そして、いいことだ」  ”



この本は、買ったまま10年近く保管してきましたが、ついに先日、ビアスの『いのち半ばに』を読んだ後、今こそ読もうという気になりました。『老いぼれグリンゴ』が、ビアスの最期の謎を扱ったものだという本の紹介文の内容を思いだしたからです。フエンテスの作品だと思って、とりあえず手に入れておいて良かった。えらかったぞ、当時の私!

というわけで、久しぶりのラテンアメリカ文学なので、あの独特の波に乗り切れるかどうかが不安でしたが、さすがにフエンテスは凄いです。不安を蹴散らし、例によって予想以上の面白さです。凄いなー。しかし、なんだろう、この感じは。濃い。濃いです。生ぬるかったり、湿ってたり、埃っぽかったり、するんです。時間の流れ方も、どう考えても日本とは違った風に流れているとしか思えません。久しぶりに読んだせいもありますが、圧倒されました。でも、全然不快ではありません。読み終えるといつものように、異常に興奮してしまいます。

さて、物語の主な登場人物は、グリンゴ爺さん、31歳のアメリカ人女性ハリエット、革命軍の若き士官アローヨ。彼ら3人は愛したり憎んだりし合いながら、お互いにそれぞれが失った父親や息子、娘の像を見出しもします。そんな彼らの物語の間に、ビアスの短篇「空とぶ騎手」や「アウル・クリーク橋の一事件」などなどの一文や場面が点々と散りばめられているところも見事です(あー、やっぱり読んでおいてよかった)。そして、彼らに今のことを会話をさせながら、同時に彼らを過去にも存在させているという、この独特の時間の流れ。信じられない。なんでこんな表現がありうるのでしょう。まあ、しゃべっている人物が全然相手の話を聞かず、ひたすら独白しているという感もありますが。しかし、そのやり方がうまいのですね。多分。
また、フエンテスの作品で私がしばしば感じることは、性的描写が強烈なことでしょうか。しかし、それはいやらしさというよりはもっと、抜き差しならない何か、そのまま生でもあり死でもあるような、切実な何かを訴えかけてくるように思います。どこまでも生々しいようでいて、同時に極限まで幻想的でもあるというか。うまく言えませんが、とにかく強烈です。

結末もとてもよかったです。うまい。しかし、正直に告白すると、物語が錯綜していて、「あれ?この人さっき死んでなかったっけ?」「え?それはどういう意味?」という箇所がいくつかありました。イノセンシオ、彼の役割はなんだったのかしら……。いつかまた読み返そう。

物語は実際のメキシコの歴史的時点を舞台にしており、ビアス以外にも実在した人物が登場し、その実際の役割を担っていたりもするので、本の《あらすじ》にあるように、アメリカ批判の書、またはフエンテスのテーマであるメキシコ人としてのアイデンティティとは何かを考えながら読むと、一層興味深いものになると思われます。

『アルケミスト』

2006年11月22日 | 読書日記ーラテンアメリカ
パウロ・コエーリョ 山川紘矢・山川亜希子訳(角川文庫)


《あらすじ》
羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて。
長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越えて少年はピラミッドを目指す。
「何かを強く望めば宇宙の全てが協力して実現するように助けてくれる」
「前兆に従うこと」
少年は、錬金術師(アルケミスト)の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の知恵を学んで行く。


《この一文》
” 老人は話し続けた。「結局、人は自分の運命より、他人が羊飼いやパン屋をどう思うかという方が、もっと大切になってしまうのだ」 ”


お友達のKさんが、「すっごいポジティブで感動的な名作だから読んで」と言って、この本を下さいました。パウロ・コエーリョは、私はかつて自分でも『星の巡礼』を買って途中までは読んだのですが、なんとなく最後まで達することができず、そのまま放ってありました。しかし、『アルケミスト』の方は、Kさんからあらすじを聞いてみて、面白そうだなーと思って読んでみたら、すんなり最後まで読めました。しかも、非常に面白かった……! たしかに「ポジティブ」だ! こりゃすごい。

あらかじめ大方のあらすじを聞いてしまっていた(結末も知ってた)にも関わらず、物語は非常に魅力的なものでした。なんだ、この読後の爽快感は。あ、高揚感もある。人生って素晴らしいな……。と、まあ、私は人並み以上に単純なせいもあるかもしれませんが、とても感銘を受けてしまいました。ほんとポジティブだなー。夢と希望が満ち溢れています。要所要所がいちいち激しくロマンチックだし。

物語の魅力としては、内容の前向きさに加え、文章の読みやすさというのもあるでしょうか。ほとんど童話のように読めます。割と短いですし。
「○○のための△つの方法」みたいな本を読むよりも、なんというかダイレクトに心に響くのではないでしょうか。そういうのを読んだことがない私が言っても説得力はないかもしれませんが、少なくとも私にはかなり響きましたね。


そうだ。思ったように物事が進まなくても、大丈夫なんだ。宿命の星が輝いているのが見えている限りは。それを忘れてしまわない限りは。


というわけで、私はますます「巡り合わせ」というものを信じるようになりました。今、このタイミングでこの物語を読むことになったのも、幸運な巡り合わせです。これだから面白い、私の人生は。
Kさん、素敵な本をどうもありがとうございました♪
『星の巡礼』もそろそろ読んでみようかな。

『世界終末戦争』

2005年05月19日 | 読書日記ーラテンアメリカ
M・バルガス=リョサ 旦 敬介訳 (新潮・現代世界の文学)


《あらすじ》
突如現れた流浪の預言者。世界の終末を説く男は、たちまちにして貧困と飢えに悩む人々の心を捉える。人間の誇りと深い憎しみ、不寛容な戦いの壮大な叙事詩。



《この一文》

”「何十人も何百人もが死んでいっている」。クンベの司祭は通りの方をさし示しながら言った。「どうしてなんだ? ただ神を信じたがゆえにだ。ただ、神の法にしたがって生きようとしたがゆえにだ。またもや、無実の人間が虐殺されているのだ」        ”



19世紀末、ブラジル奥地のカヌードスの地にコンセリェイロ(預言者)率いる宗教集団が街をつくり始めます。
ブラジル共和国はこれを許さず、軍の大部隊を送り込みますが、共和国側の当初の思惑と反して、カヌードスの激しい抵抗に軍は壊滅的な打撃を受け、陥落までには1年という長い時間を要します。
ブラジルの歴史的事実だそうです。

人間にもっと寛容の性質が備わっていたら、世界は違う風に現れてくるのではないかと思います。
信念を持つことは美徳とされがちですが、信念を持つということは同時に自分の考えを尊重し、他者の考えは排斥することであるとも言えるでしょう。
つまり、信念が不寛容(他者を許さない心)と結びつくのです。
とくにその信念が社会構造に関わる場合には、激しい争いを生むことになるのかもしれない、とそんなことをひしひしと感じさせられる1冊でした。
もちろん、一番の問題は貧困なのですけど。
貧困や差別といったこの世界の不条理に説明を付けてくれるのが、たまたま宗教であっただけのことかもしれません。
神様を信じる人々がどうして憎しみあって殺し合うのか、私にはどうにもわからないでいたのですが、もしかしたら信仰と寛容ということは全く関係のないことなのかもしれません。
コンセリェイロのもとに集まった人々は、殺した軍の兵士を裸にして睾丸を切り取って口に詰め込み、木に吊るして鳥に食わせます。
正しく埋葬されない人間は地獄に堕ちると考えていたからです。
負傷した兵士には、傷口に潜り込む性質のある虫を送り込み、生きたまま内臓を食いやぶらせたりします。
カヌードスの人々はほとんど老若男女の区別なく戦いに参加し、徹底的に殺戮します。
それもこれも、彼らにとって最後の地を守るためなのです。
迫害され、ようやく安息の地を見つけ、ひっそり暮そうと思っていた彼らには、こんな奥地にまで攻め込んでくる共和国を決して許すことなどできないのです。
一方で、共和国はどうして彼らを認めることができなかったのか。
近代国家を目指す共和国は、新しい税制に反対し国勢調査にも参加しないカヌードスの街が次第に巨大化していくことに脅威を感じます。
共和国としては、人々を奴隷制度から解放し、不平等や無知から人々を救い出そうという理想もあるにはあるのです。
が、勢力争いによる仕組まれた不確かな情報のために、カヌードスの後ろには王党派やイギリスがまわっているに違いないなどの憶測が乱れ飛び、ついには討伐隊を派遣することになるのでした。
どうしたらよいのでしょうか。
死が人間にとっての究極的な恐れである限り、殺し合うことは止められないのでしょうか。
いつか段階を上がって結論が見えてくることを願います。
もうひとつの問題は我々がどちらが正しいかなんて知らないことでしょう。
ただ信じているだけだから、正義のためだと言ってはひどいことだってできるのです。

引用した部分は、七つの大罪を全て犯したジョアキン神父の言葉です。
彼はこの作品中で最も変化する人物のひとりで、脇役ではありますが、私はかなり移入してしまいました。
神父の彼は、酒にも女にもだらしなく、気さくではありますが極めて小心者でもあります。
その彼が、内縁の妻がコンセリェイロに従って出て行った日から変わります。
命がけでカヌードスのために武器を調達してきたり、最後には銃を取って戦いにも加わります。
何が彼をそうさせたのか、ただ信仰のためだけではないようでしたが、まだよくまとまりません。

他にも作中には魅力的に描かれる人物が多く登場します。
カヌードスに加わった人だけでなく、軍の人間の持つ理想や、ヨーロッパからやってきた革命家の考えなど、色々な立場から世界を描き出しています。
長くなるわけです。(約700頁、重い)
その他の人物に対しての私の意見も書きたかった気もしますが、やめておきます。
書いても書ききれない、物語の分量に劣らない厚みと深みを持った傑作でありました。

『世界終末戦争』(仮)

2005年05月12日 | 読書日記ーラテンアメリカ
M・バルガス=リョサ 旦 敬介訳(新潮社)


ストルガツキイを読みかけているところなのに、久しぶりについ別のものに目がいってしまいました。
そして、読み始めてみると、冒頭からあまりにも衝撃的でした。
ラテンアメリカ文学はこれだから恐ろしい。


《この一文》

” 男は長身でひどくやせていた。正面から見てもいつ
 も横を向いているように見えた。肌は黒く、体は骨ば
 って、瞳には永遠の炎が燃えていた。      ”



うおぉ・・・、何という書き出しですか!
文学作品の面白さ具合を決めるのは、ある程度は最初の一文であるような気がします。
少なくとも私がいままで読んできたものには、その法則があてはまります。
そんなわけで、久々に大物の予感です。
こうやって引用するだけでも、震えが走るようです。
目眩がするほど感動したのですが、どうですか、こんな書き出しは。
「瞳には永遠の炎が燃えていた」という部分だけで、当分くらくらを味わえそうです。

バルガス=リョサは実はまだあまり読んだことがありませんが、この『世界終末戦争』はブラジルが共和国になったばかりの頃の物語です。
やばいくらいに面白そう。
未読なのに、思わず記事を書いてしまったではないですか。
しかし、分量が半端ではないので、完全なレビューはまた後日ということで。
まずい、ストルガツキイも読まなきゃならないのに(二冊も)。
仕方ない、しばらく全てのことを忘れてこの小説に没頭します。
700頁だ、がんばらねば!!

『美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー』

2005年02月02日 | 読書日記ーラテンアメリカ
ガルシア=マルケスほか 木村榮一ほか訳(福武文庫)


《内容》

浜辺に打ち上げられた巨大な物体。絡みつく
藻やゴミを取り除いて現われた水死体のあま
りの美しさに、村の人々は息をのみ、何くれと
なく世話を焼く。ガルシア=マルケスの表題作
「美しい水死人」をはじめ、17人の作家が、独特
の時間の流れの中に織りなされる日常と幻想
の交歓を描く。豊穣なラテンアメリカ文学の
薫りをあますところなく伝える短編集。


《この一文》

” 誰の言うこともきかず、ふざけていたずらばかりしていた。来客があると、その人の鼻をねじってみたり、玄関先に集金人が現われると平手打ちをくらわせたりした。また、自分のことを知らない人がやってくると、わざと、目につくところに寝そべって<死んだふり>をするのだが、そのあとだしぬけに卑猥な指形を作ってみせた。かつての主人である司令官の顎を軽く叩くのがひどく気に入っていたが、蠅がうるさくまとわりついたりすると根気よく追い払ってやったものだった。司令官は出来の悪い息子でも見るように、そんな手をうっすら涙を浮かべ、やさしい目でじっと見つめていた。
         -アルフォンソ・レイエス「アランダ司令官の手」より”


買ったのはもう随分と前のことですが、貴重な一冊です。
ラテンアメリカ文学をまとめて楽しむことができます。
他ではあまり読めないような作家も取りあげられているので、かなりの価値があります。
引用した「アランダ司令官の手」は、この本の一番最初に収められているのですが、初っ端からものすごい衝撃でした。
アランダ司令官は戦闘で右手首を失ってしまうのですが、記念としてその右手を大切に保管していたところ、実はまだ右手は生きていて、そのうち自我を持ち、好き勝手に動き回るようになった、そして--。
すごい設定です。
そして結末にまたびっくりです。
何度読んでも面白いのでした。
他にも、フアン・ルルフォ、ガルシア=マルケス、カルロス・フエンテス、ビオイ=カサーレス、フリオ・コルタサルなどなど、豪華絢爛の構成となっています。
全ての物語がはずれなしの面白さなのでございます。

『大統領閣下』

2005年01月26日 | 読書日記ーラテンアメリカ
ミゲル・アンヘル・アストゥリアス 内田吉彦訳
(集英社ギャラリー[世界の文学]19 ラテンアメリカ)


《この一文》

” 大統領が全幅の信頼を寄せている人物、ミゲル・カラ・デ・アンヘルが食後に入ってきた。
 「真に申し訳ありません、閣下!」ダイニングルームの入口に現われるなり彼はそう言った。(彼は魔王(サタン)のように美しく、また悪辣でもあった)。    ”


読み終えてから1週間ほど立ち直れませんでした。
今でも思い出すと立ち直れなくなりそうです。
信じがたい悲惨の物語ではありますが、ラテンアメリカ文学を代表する傑作であることは確実です。
マルケス、ルルフォ、フエンテスなどなどラテンアメリカの作家による小説を読むといつも思うことですが、この強烈なイメージを伴う文章は一体どうやって編み出されたのでしょう。
文章を追うと同時に鮮烈な映像が目の前に迫ってきます。
どんな仕掛けがあるのだか、さっぱりわかりません。
これがいわゆる「魔術的リアリズム」というものでしょうか。
まさに、魔法にかかったように私は心を奪われてしまいます。

『フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇』

2004年12月20日 | 読書日記ーラテンアメリカ
カルロス・フエンテス作 木村榮一訳(岩波文庫)


《あらすじ》

「・・月四千ペソ」。新聞広告に
ひかれてドンセーレス街を訪ねた
青年フェリーペが、永遠に現在を
生きるコンスエロ夫人のなかに迷
い込む、幽冥界神話「アウラ」。
ヨーロッパ文明との遍歴からメキ
シコへの逃れようのない回帰を兄
妹の愛に重ねて描く「純な魂」。
メキシコの代表的作家フエンテス
(1928-)が、不気味で幻想的な世
界を作りあげる。



《この一文》

”----時計の針は、真の時間を欺くために発明された長い時間をうんざりするほど単調に刻んでいるが、真の時間はどのような時計でも計ることはできない。まるで人間を嘲笑するかのように、致命的な速度で過ぎ去ってゆくのだ。ひとりの人間の一生、一世紀、五十年といったまやかしの時間を君はもう思い浮かべることはできない。君はもはや実体を欠いたほこりのような時間をすくい上げることはできないだろう。
          「アウラ」より ”



この作品もまたラテンアメリカ文学に共通する独特の時間認識をもって描かれています。
読むうちに、過去と現在の、現実と非現実の境界線が失われていくようです。
短篇集の中でもとくにこの「アウラ」の結末はとても印象的でした。
不可思議かつ不気味な描写はとても幻想的であると同時に異常なリアリティをあわせ持ち、全ての物語はどこか物悲しさを感じさせます。
同じ人の『遠い家族』という作品も、強烈に面白かったと記憶しています。

『ペドロ・パラモ』

2004年12月14日 | 読書日記ーラテンアメリカ
フアン・ルルフォ作 杉山 晃・増田義郎訳(岩波文庫)


《あらすじ》

ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」は
コマラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた
死者ばかりの町だった・・・。生者と死者が混交し、現在と過去
が交錯する前衛的な手法によって、紛れもないメキシコの現実を
描出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作。


《この一文》

” 「おまえを見たのはあれが最後だった。道端の楽園樹の枝をかすめながらおまえは通り過ぎていった。散らずに残ってたわずかな木の葉は、おまえのおこしたそよ風に、すっかり運び去られちまった。それっきりおまえは見えなくなった。おれはおまえに向かって叫んだ、『スサナ、戻ってくれ!』」   ”


場面は転々と変わってゆくので、はじめはずいぶんとまどいました。
違った時や場所が次々とあらわれるので、一体どうやったらこんな物語を生み出せるのか不思議でしかたありません。
巧妙に組み立てられた筋書きには圧倒されます。
そして、そっけないほどの口調で語られる物語の内容は実に濃厚なのです。
世界は不可思議な感じを絶えず漂わせていながら異常なまでの現実感を伴います。
ラテンアメリカ文学は、読み始めたら止められないでしょう。

この人はほとんど作品を遺さなかったらしいのですが、もうひとつの短篇集『燃える平原』は幸いにして未読です。私にはまだ楽しみが残されているのでした。

『エレンディラ』

2004年12月05日 | 読書日記ーラテンアメリカ
G.ガルシア=マルケス 鼓直・木村榮一訳(ちくま文庫)

《あらすじ》

コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの異色の短篇集。
”大人のための残酷な童話”として書かれたといわれる六つの短篇と
中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を
収める。

《この一文》

”---女たちがそんなとりとめのないことを考えていると、年の功で他の女たちよりも冷静な年取った女が、あの水死人をじっと見つめたあと溜息まじりに呟いた。
「顔を見ると、エステーバンという名前じゃないかって気がするね」
      ---「この世でいちばん美しい水死人」より”


はじめてガルシア=マルケスを読んだのは、10代の終わりのことでした。
それまで読んでいた小説とは全く異質の世界が存在するのだということを、強烈に教えられたのが、この『エレンディラ』でした。
ラテンアメリカ文学との出会いです。
あれから10年経って、南米の他の作家の作品も読みました。
どれもこれも面白いのが不思議で仕方ありません。
しかし、その中でもやはりマルケスを最も愛する理由を考えると、物語の面白さは言うまでもなく、もうひとつにはそのタイトルの美しさでしょうか。
例えば『百年の孤独』、『族長の秋』、『迷宮の将軍』、『愛その他の悪霊について』などなど。
『エレンディラ』所収の短篇についても「失われた時の海」、「愛の彼方の変わることなき死」。
うお~!!
まあ、私はもちろん翻訳でしか読めませんので、訳者の方が上手なんでしょうけれど、それにしても面白くてどうにもなりません。
最高傑作と言われる『百年の孤独』などは読んでしまうのがもったいないので、読まないで大事に保管してあるのでした。